「職場で蟹を貰ったんです
ここの近くに用があって、寄り道ついでにきたんですよ」
ドアの向こう、にこりともせずに白い箱を差し出した木手がいた。
お題 『より道ついでに会いにきた』 1
白い湯気が立ち上る。
その向こうには一筋の髪の乱れもなく、鋭い眼光で箸をすすめる男が一人。
部屋の蛍光灯が細身のメガネフレームに反射して輝く。
「ねぇ。こういうのって変じゃない?」
問いかけに顔をあげた木手は「何がです?」と箸先を鍋につけた。
白いワイシャツからネクタイを抜き、襟元を緩めた木手は思いっきり寛いでいる。
私は白菜を新たに足しながら、疑問に思っていたことを訊いてみることにした。
「鍋を二人で食べてるってことがよ」
「仕方ないでしょう?うちには土鍋がないのですから」
「違う。木手と私が二人で食べてることがおかしいって言ってるの」
焦れた声を出せば、曇ったメガネを外してかけ直した木手が私を見た。
相変わらず表情に変化がない鉄仮面だ。
「それも仕方がないでしょう。送られたきた蟹は生だから早く食べないといけない
日持ちはしないし、一人で食べるには多すぎる。そして土鍋を確実に持っているのは君だ」
「確かに土鍋は持ってるけど、そういう問題じゃなくて
カノジョの留守中に他の女の家で鍋してるのって、不味くないの?」
「何が不味いんです?それとも、何か不味くなるような下心でも?」
「いいえ。蟹だけが目的です」
明らかに不機嫌な顔をして睨みつけたけど、相手は気にも留めずに赤く色づいた蟹を箸でつまんだ。
「あ、。熱燗、もう一本つけてください」
「ここは居酒屋じゃないのよ?もうっ」
片手で差し出されたお銚子を前に悪態をつきながらも腰をあげる。
木手にとっては勝手知ったる他人の家なのだろう。
二年前までは彼も使っていた台所だ。
今の木手の恋人は料理を全く作らない人だと聞いたことがある。
そんな人の家に土鍋があるわけもなく、私がチョイスされたということだ。
電子レンジを使うと怒る木手なので、面倒でも熱燗は湯で温めないといけない。
確かに、こんな口うるさい男が相手では『料理なんか作りません』と最初から放棄したほうが楽だと思えた。
「そういう君は恋人が出張中に元の男と蟹を食べていてもいいのですか?」
後ろから木手が訊いてきた。
蟹持って勝手にお宅訪問してきたのは誰よ。
家にあげたのは私だけど、でも蟹なんだから仕方ない。
ついでに言えば、今の彼とはとっくに心が離れて時間の問題になっている。
出張から帰ってきたら話があると言われたのは、多分別れ話だと思う。
今さら私が木手を家にあげたって、とやかく言われることはない。
「昔からの知り合いに蟹を御馳走になるだけよ。下心はないし」
「なるほど」
お湯が湧いてきた。
熱過ぎると文句を言うので、手にミトンをはめてお銚子をあげるタイミングを計る。
木手好みの熱さに調節するのは、なかなかに難しい。
あと少しかな。
鍋に集中している自分の背後に人の気配を感じた。
後ろに立つのは一人しかいない。
もう出来るからと振り向くより先に、背中から腕が伸びてきた。
木手の手は長い。
巻きつくかのように体を覆う手は、胸の前で交差され両肩を掴む。
その懐かしい感触と変わらない木手の香り。
ずっとつけ続けている香水は私が木手に選んだものだった。
内心では嵐が吹き荒れている。
だけど、ここで本音を明かすわけにはいかない。
「めずらしい。もう酔っ払ったんだ?」
「俺が?まさか」
耳元で囁かれる木手の声。
今すぐ振り払いたい腕を我慢して、上がる体温に気付かれないよう慎重に言葉を探す。
「そんなに急かさなくても、熱燗はもう直ぐだって」
「急かしてませんよ。もっとゆっくりでいい」
「腕、離して。もういいから」
背中に大きなモノを乗せ、動きにくいったらない。
木手を無視してコンロに手を伸ばそうとしたら、私より先に長い指が火を消した。
途端に背を押され、抗う間もなく体の向きが変えられる。
「永っ」四郎、そう続くはずだった言葉は甘い日本酒の香りがする唇に塞がれていた。
近すぎるメガネのフレームに反射的に目を閉じる。
掴まれた腕のまま、木手の厚い胸を叩いてもビクともしない。
二年ぶりのキスは、初めてのキスにも似ていた。
あの時も木手は不意打ちで強引に唇を重ねてきたっけ。
鮮明に思い出し、私は体の力を抜いた。
過去の経験上、どう足掻いても木手に力で勝つことなど無理なのだから。
私の諦めを察した木手の拘束する力が緩んだ。
そして木手が満足するまで、私は為されるがままに唇を受け入れた。
何度も何度も、角度を変えて重ねられる唇。
背中を、髪をなでる熱い手のひら。
忘れるはずもない。
私が本気で好きになった最初の人の感触だった。
お題 「より道ついでに会いにきた」
2008/10/25
はなばなしく笑う人
ねがいをそっと呟いて
のどかな時間の幸福
より道ついでに会いに来た
うぐいすみたいに歌う君
なきたくなったら呼んでくれ
きらめく青春を過ごす中に
すきだよ、なんて今更だけど
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