小雨の降る中を手塚は自らが運転してアパートメントに帰っている途中だった。
ワイパーが規則的に雨を拭う先、この近辺で一番高層の建物であるアパートメントの明かりが見え始める。
もちろん中身も高級だ。別に手塚自身は高級だとか見栄えに固執する方ではない。
ただセキュリティを重視すると、こういう物件しかなかったというだけの事だった。
段々と近づいてくる自宅に肩の力を抜いた時、目の前の道路を小さな白いものが横切り、
それを追う様に人間が飛び出してきた。
ハッとして急ブレーキを踏み込む。
大きなブレーキの音がして車体が激しく揺れ、手塚もハンドルに向かって前のめりになった。
顔をあげたが人の姿は見えない。ヘッドライトに照らされて銀糸が降りそそいでいるばかりだ。
手塚の背中に冷たい汗が流れた。
撥ねてしまったか?いや・・・それほどの衝撃はなかった。
慌ててサイドブレーキを引き小雨の中を外に飛び出すと、小さな子猫の泣く声がした。
それは、ヘッドライトの明かりを背中に浴びて道路に倒れた女性の胸に抱かれた子猫の声だった。
you are my sunshine 1
「名前は?」
「」
「苗字は?」
「思い出せないなぁ」
「日本人だな?」
「多分、」
「日本人だろう?完璧な日本語だ。」
「じゃあ、そうなんでしょう。」
「家は?」
「思い出せませんねぇ」
手塚は眉間の皺をますます深くして溜息をついた。
道端に倒れていた女性は名前だけを告げて、後は全て『思い出せない』の一点張りだ。
車に僅かでも接触したのだろうか?その拍子に転んで頭を?とも思う。
抱き起こした自分の腕の中で気がついた女性は透けるほど白い顔で『助けて・・・』と小さく呟いて、再び意識を失った。
どこにも怪我らしい怪我がないのを確認して、ひとまず自分の車に乗せてアパートメントに運んできたのはいいのだが。
ソファに横たえて頬を軽く叩くと目覚めた女性。
だが、彼女の名前以外は素性も何も全く分からないのだ。
と名乗った女性は記憶がないわりには落ち着いている。
手塚に渡されたバスタオルを頭からかぶり、膝に抱いた子猫の顎を撫でて微笑んでいた。
「とにかく病院に行こう。場合によっては警察に協力してもらえば身元も分かるだろう。」
「駄目っ!」
ギョッとした風で、が答えた。
今までが、のらりくらりとしていた口調だったので手塚も驚く。
「何が駄目なんだ?」
「と、とにかく駄目っ。わ・・私、悪い人に追われてるんです。」
「悪い人?お前、記憶が無かったんじゃないか?」
「き・・記憶はですね、ある所と無い所があるんです。きっと打ち所が悪かったんですね。」
「やはり俺の車に接触したのか?なら、尚更・・・病院に、」
「接触はしてません。あ、あのっ、驚いて転んだだけです。でも、その時に頭を打ったらしくて。
あの・・・ほら、一時的なものってあるじゃないですか。どう説明すればいいのか。
そう、お年寄りのまだらボケみたいな、ねっ。
息子の事は分かるのに、嫁を忘れちゃうとか。朝ご飯たべたのは忘れてるけど、
お金を貸したのは覚えてるみたいなものですよ。」
「それは例えがおかしい気もするが。で、悪い人とは?病院より、まず警察に通報しよう。」
「そ、それも駄目です!」
「何故?」
「えーっと、あっ、そう。悪い人の中には警察に通じてる人も居るんです。スパイみたいな。
通報したら悪い組織の人に殺されちゃいます!だから、駄目です!」
「組織?ちゃんとした記憶があるようだが、お前の苗字は?誰か家族の連絡先も教えて欲しい。」
「あらぁ、それは思い出せないなぁ。やっぱり、命に関る事だけは良く覚えてるもんですね、人間って。」
あはは、とお愛想笑いをしたを表情一つ変えない手塚かがジッと見つめる。
急に真顔になったがソファから飛び降りてフローリングに正座をした。
勢い良く前に手をついてが土下座すると、膝から落とされた子猫も慌てて彼女の隣に並ぶ。
「しばらく私をここに匿ってください!き、記憶が戻るまで。
だ、駄目なら三日でもいい。お願いです!ここに置いて下さい!」
は子猫の頭も手のひらで押さえ込んで強引に頭を下げさせる。
んにゃあ、と苦しげに子猫が鳴いた。
「冗談だろう?どこの誰とも分からない人間を置くなど。
ましてや、悪い組織の人とやらに追われている人間を何故俺が匿わないといけない?
さあ、今から警察に行こう。それとも病院か?俺が車で連れて行ってやるから。」
「だから、警察に行くと殺されますって!あなた、私が川に浮かんでたら嫌な気持ちになりますよ?
おまけに私、ずっと恨んで幽霊になっても付きまとったりして嫌がらせするんだから!」
「お前が川に浮かんでいたら嫌な気持ちにはなるだろうが。
残念ながら俺は幽霊などという非科学的なことは 信じないたちだ。さあ、立つんだ。」
「ゆ、幽霊をなめたら大変な事になりますよ!
テレビの画面から出てきたり、お風呂場を黒髪で一杯にしたりするんですからねっ!
怖くて泣いたって知らないんだからっ!」
「ほう。俺は、滅多にテレビを見ないのだが。電源を入れて無くても出て来るのか?楽しみだな。」
手塚は仁王立ちになり腕を組んだままを見下ろす。
どういう事情があるのかは知らないが、係わり合いに為るのは御免だと心底思っていた。
が、見下ろした視線の先。
顔をあげたが手塚を見つめながら、みるみる瞳に涙を溜めていった。
唖然とする手塚の前で、の瞳から涙が零れていく。
「お・・ねがいです。今晩だけ、一晩でいいから・・・ここに置いて下さい。お願い。
私には、帰る場所も・・・何にもないんです。お願いします。」
は再び深々と頭を下げた。
薄い肩が小刻みに震えているのを見て、手塚の気持ちが動いた。
異国で話す久しぶりの日本語だったせいかもしれない。
ハチャメチャな言い訳をする女だが、身なりなどはキチンとしていた。
それに華奢を通り越して体を心配するほど痩せた小さな体では強盗にもなるまい。
バスタオルで拭いたとはいえ、濡れた服を着たままで体が冷えたのだろう。
色白の彼女の顔は白を通り越して青白かった。
ふう、と。わざわざ深い溜息をついて聞かせる。
「いいだろう。」
ガバッと顔を上げたの涙に濡れた瞳が大きくなっている。
「ただし、明朝には出て行ってもらうぞ?そのネコも一緒にな。」
「ほ・・・本当にいいの?」
「ああ。とにかく風呂に入れ。女物の服など持っていないからな。俺の物しかないが・・・濡れた服よりはマシだろう。
乾燥機もあるから勝手に使ってくれ。寝るのは、このソファだ。毛布ぐらいは貸してやる。」
「ありがとう!」
は笑顔で礼を言った。
さっきまで泣いていたのに、子供のような無邪気な笑顔を手塚に見せる。
良かったね、お前も一緒だってと子猫に話しかけているに肩をすくめ、
奥の寝室に着替えを取りに行こうとした手塚の足が止まった。
「お前・・・俺の名前を知っているか?」
「え?」
「俺を誰だか、知っているのか?」
背を向けたまま手塚はの答えを待った。
僅かな沈黙の後、は答えた。
「知らないわ。ねぇ、良かったら・・・名前を教えて?」
手塚は眼鏡を長い左手の指で押し上げた。
ひとつ息を吐いて名前を口にする。
「手塚国光だ」
そう、それは・・・
日本人で知らない人は居ないだろう、有名なプロテニスプレイヤーの名前だった。
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