二宮尊徳の実像と現在までの影響              元へもどる     
                         
                 
  



                          東京農工大学
                        客員教授 下荒地勝治



1.二宮尊徳はどんな人だったのか      

(1)薪を背負った金次郎像
 図1の像は、尊徳の少年時代、尊徳の生まれた栢山(かやま)村から
小田原城下に、薪を売りに行った途中の姿を彫ったものです。
それは、尊徳の弟子の書いた「報徳記」を読んだ明治天皇が、尊徳を高く評価
し、
鋳金師の岡崎雪声が作ったものを買い上げたところから始まったといわれています。そして、日本が欧米諸国に追いつくために必死の努力をする中、小学校の修身の授業に、金次郎が取り上げられ、広く、日本全国に知られることになりました。
 その後、昭和10年代に入ってから、各地で地元の有志により、二宮
金次郎像建設の運動が広く行われ、小学校の校庭の真ん中に設置され
るようになりました。従って、この像は行政組織によって建てられた
ものではなく、民間のものであったため、1945年以降も破壊されるこ     とはなく、校庭を作り直す時以外、そのまま残存することになり、現    
在でも各地に50%くらい残されているといわれています。なお、読ん
でいる本は、「大学」で、素読の練習をしているものを表したと推測さ
れます。
                                                                            
1・小田原市・報徳二宮神社にある二宮金次郎像
       

(2)どんな人生を送った人なのか
 薪を背負った金次郎像は、小学校の年齢のころのものですから、想像がつきにくいですが、金次郎は成長して、180cm、当時の平均155cmより相当大きな人物でした。
生まれたのは、天明7(1787)年、亡くなったのは、安政3(1856)年。数え年70歳まで生きた強靭な体力、知力を持った人物で、一介の中農から、幕府の直参である役人にまで出世し、立派な弟子達を多く育てました。

その経歴を次頁に表にしてみました。

1 二宮尊徳の経歴

年号・年

主  要  事  項

参 考 事 項

1787

天明7

1

7月、栢山村に生まれる

大飢饉、家斉将軍となる

1791

寛政3

5

8月、酒匂川が決壊、所有田地を流出

1789年、フランス大革命

1800

寛政12

14

9月 父利右衛門が没する

 

1802

享和2

16

母よしが没する 洪水 一家離散
伯父万兵衛に寄食

1818年、小田原藩主・大久保忠真が老中就任

1820

文政3

34

4月 岡田波子と結婚

エンゲルス生

1822

文政5

36

小田原藩に登用(名主役格)

 

1823

文政6

37

田畑・家財を処分して桜町に移転

 

1834

天保5

48

徒士格(かちかく)に進む

水野忠邦老中就任

1835

天保6

48

矢田部藩財政再建、農村復興事業に着手

 

1837

天保8

51

鳥山領の復興事業に着手

大塩平八郎の乱,家慶将軍就任

大久保忠真死去

1838

天保9

52

小田原領・下館領の復興事業に着手

 

1841

天保12

55

桜町谷田部・下館・小田原領の指導

天保の改革が始まる

1842

天保13

56

幕府に登用(御普請役格)
利根川分水路測量調査

 

1843

天保14

57

名乗りを尊徳と定める

水野忠邦失脚

1844

弘化元

58

日光仕法雛形の作成受命、
相馬藩の長期財政基本計画

 

1853

嘉永6

67

日光領復興事業受命、現地踏査 文子没

ペリー来航、家定将軍就任

1854

安政元

68

息子・尊行に御普講役見習発令

神奈川条約締結

1855

安政2

69

箱館奉行から開拓調査依頼、孫尊親誕生

江戸大地震

1856

安政3

70

御普講役に進む、10月没 

ハリス下田着任


 この表に示すように、尊徳の仕事は、江戸時代にあっては、他国ともいえる他の藩の農村復興にまたがり、生涯605か村の建て直しに成功したといわれています。
尊徳の農村建て直しの方法は、「仕法」と呼ばれ、普遍性を持っていたため、尊徳の没後も、弟子たちによって継続され、さらに広い地域的広がりと改善が進められることになりました。そのため、明治維新後にも、この方法は「二宮仕法」あるいは「興国安民法」などと呼ばれ、 日本人の心の底に深く浸透し、無意識の内に、日本人のモラルの一部となっています。

2.尊徳の考え方とはどんなものだったのか

尊徳は、学者、僧侶を好みませんでした。それは、実践を重視した考え方をしていたためです。尊徳の目的は実現です。そのために必要なことは、全部活用すればよい、とさえ考えていた節があります。ですから、自分の考え方は、神道・儒教・仏教の三つを混ぜ合わせて作った思想、すなわち、飲み薬を連想させる「神儒仏一粒丸」と言っていますが、その中でも、神道のウェイトが高く、天の徳、地の徳、人の徳に報いる気持ちを常に持ちながら勤労することを基本精神としています。

その働き方について整理すると、4つのキーワード、至誠、勤勉、分度、推譲にまとめられます。

至誠

誠は、幕末、新撰組の旗であるので有名ですが、まことの道とは世を救い、世を益することをいいます。それは個人として、理屈をこねることなく、まことを尽くし実行する所にあります。

                  勤労
 
二宮尊徳は天道・人道ということを考えています。天道とは春夏秋冬、夜昼、晴天・雨天等
、自然の現象を指します。植物は土によって発芽し日光と水の力で生育します。そして、この植物を動物が食べ物とし生きてゆきます。こうした循環が天道です。

人道とは、この自然循環の中で、人類は種である米、栄養を貯蔵した大根など、人間の役に立つものをより分け、水、肥料を与え、雑草を除去し、防除し、収穫を多く得ようとしまが、このように人が手を加え自分達の利益のために行うことを言います。人道は、人間の意志がなければ、行われません。この意志を継続して保持し行為していくことが勤労です。



分度

 二宮尊徳は、農村の復興を計画する時、その農村の生産量を過去にさかのぼって調査しています。そして、その地域の生産量を数値で把握し、この現状認識から、生産者、領主の取り分を契約しています。個人についても、それぞれの分限を守り、相応の生活をするということで、収支のバランスをとった生活を勧めています。こうした数値で支出を定めることを分度といっています。
 まず至誠と勤労をもって収入を増やし、これに見合った支出をするという順番で、計画の策定を重視しているところが、近代の経営を思わせるところです。

推譲

分度を確立した上で、それ以上の収入があれば、余剰が出ます。この余剰の一部を将来のために譲ることを推譲といいます。自分の子孫のために譲ることは比較的容易ですが、他人のために譲ることはなかなか難しいことですが、二宮尊徳は、これを推進しました。そうしたことができるためには、心の田「心田」の開発が必要といっていますが、尊徳の周辺にはこうした人物が多く育ちました。
そして、こうした推譲金を灌漑事業、に充てた結果、干ばつ・洪水の心配もなくなり自己の作物の収穫量も増え、村や社会が豊かになって自分に還元されるという成功サイクルが実現していきました。
その後、尊徳の継承者たちは、尊徳の思想を「報徳運動」として実践し、広めていきました。今も各地にある報徳運動は、尊徳の教えが現代まで続いている実際活動であります。

3.明治時代以降の報徳思想

 (1)報徳社運動の興隆

尊徳の教えは、明治維新による身分制の解消という大変革を経る中で、安居院庄七、岡田佐平次・良一郎といった実践力のある弟子達を得て、この教えを組織的に推進する「報徳社」を各地につくりあげ、最盛期には1,000社を超え、北海道の開発には、多くの貢献をなしました。特に、静岡県は活発であり、この報徳社の連合組織である「大日本報徳社」が、掛川市に設立されました。

(2)尊徳の評価の高まり

尊徳自身は、自らを有名にしたいとは、全く思わなかった人であり、その遺言でも「自分の墓など作るな」といっています。しかし、遺徳を慕う弟子(富田高慶)によって、尊徳の伝記「報徳記」が書かれ、これが明治16(1883)年に宮内省から発行され、幸田露伴が少年向けに「二宮尊徳翁」を出して、多く読まれ、内村鑑三が「代表的日本人」として尊徳を高く評価することで、二宮尊徳の名前、そして至誠・勤勉の思想は、広く知られるようになりました。

(3)産業発展の基盤となる

尊徳の生きた時代の産業は圧倒的に農業でしたが、尊徳はそこに対する働きかけを科学的に、そして数字で表わそうとしています。そのため、尊徳の全集を編纂した時、その多くがデータで占められるようなことが起こっています。この結果、当然、経済への関心を強く持つことになり、尊徳自身、世界で初めて、信用組合を発足させています。現在でもこの組合は続いており、「掛川信用組合」として活動しています。
明治に入り、工業化が推進されましたが、その運営に当って、尊徳の思想が多く取り込まれました。有名なものでは、真珠の御木本幸吉、トヨタ自動織機の豊田佐吉は、尊徳のやり方に深く影響を受け、技術革新を進めると同時に、事業を手堅く、健全に組み上げ、その社風は、今も継続されています。

4.大正・昭和20年ころまでの二宮尊徳

(1)小学生の規範としての教育

江戸時代、孔子の教えが藩校で教えられましたが、義務教育制が全国に導入され、小学校で日本人の生き方として、「修身」の科目が入ってきました。その教科書に、二宮尊徳が取り上げられ、その年齢にあわせた二宮金次郎が描かれました。そして、尋常小学唱歌にも歌われました。その歌詞は、

1番 柴刈り縄ない草鞋をつくり、
    親の手を助け弟を世話し、
    兄弟仲良く孝行つくす、
  
 手本は二宮金次郎

2番 骨身を惜しまず 仕事にはげみ 
    夜なべすまして 手習い・読書 
    せわしい中にも たゆまず学ぶ 
    手本は二宮金次郎

3番 家業大事に 費えをはぶき 

    少しのものも 粗末にせずに 
    ついには身を立て 人をもすくう 
    手本は二宮金次郎

と実にけなげな内容を持っており、この時代を過ごした少年少女が、現在高齢になっている現在でも、懐かしく口ずさむものとなっています。

(2)日本人の道徳規範

 各地に展開された報徳社の行動規範としては、報徳訓があります。これは表に示したようなものですが、今これを見ると随分古めかしく思えますが、当時の成人が守るべき道徳規範そのものをあらわしていました。

 最近、企業の社会的責任(CSR)をということで、企業の会社理念が問われることが多くなってきていますが、今までは、会社経営に、その目的を掲げるということは、多くはありませんでした。が、尊徳の考え方の影響を受けた豊田自動織機、松下電器などは、何十年前から、その綱領、企業理念を制定し、「経済なき道徳は寝言である。道徳なき経済は犯罪である」で表される企業行動を規定しています。

 このように、尊徳の考え方は、日本人の根っこにしっかりと根付いていきました。

(3) 二宮尊徳の偶像化

尊徳の考え方は、もともと農民の側から出てきた生き方であり、自らも農民と暮らして、質素、倹約、至誠の生活を貫いた生涯でした。しかし、明治国家が成立し、欧米列強の世界に対峙していかなくてはならない国際環境にあって、日本も皇国意識、国威発揚、国家総動員といった政策を取らざるを得なくなり、その国策に合致する教育勅語の徳目、勤勉、倹約を具体的に、目に見えるようなかたちを示すものとして尊徳を取り上げ、偶像化することが進められ、幼少期の姿を、二宮金次郎像として、昭和初期から急激に設置されていきました。
 このため、軍国化する日本の歩みと同調するイメージの中で、太平洋戦争を経過し、上からの道徳として受けとめられる傾向を生じました。しかし、尊徳の生き方は、大地に足をしっかりとついた上で、ゆっくり改善を根気よく進める、農業的なものであり、戦争との縁がきわめて少ない考え方であります。


5.1945年以降の二宮尊徳

(1)終戦後の二宮尊徳の評価

軍国主義を排除する目的で日本に進駐してきた連合国軍総司令部(GHQ)は、インフレの始まった日本の通貨を新たに昭和21年発行していますが、その1円札の肖像に、二宮尊徳を使うことを承認しています。それは、二宮尊徳を、民主主義の先駆者として評価していたためです。
実際、GHQ新聞課長インボーデン少佐は、「二宮尊徳を語る?-新生日本は二宮尊徳の再認識を必要とする?」を1949年に書き、その第1節に日本が生んだ最大の民主主義者と述べています。

(2)高度成長期の二宮尊徳

昭和30年代に入り「もはや戦後ではない」といわれるまでに日本は復興し、昭和40年代重工業を中心とする高度成長により、日本の経済構造は大きく変化したが、その中にあっても、

経済活動に責任を持つ人たちは、尊徳の自己抑制の姿勢を忘れることはなく、経団連会長であった土光敏夫氏は、関西にあった松下幸之助氏と図って、尊徳の生誕地である小田原に、報徳博物館を建設する推進者となっている。

また、市政でも、今年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公・山内一豊の舞台である掛川市は、25年以上にわたって、報徳の思想で市政を展開し、「生涯教育」を提唱し、活動をしている。また、栃木県では、県知事が「分度・推譲立県」を唱え、県政を推進することも行われました。

こうした時、尊徳の教えについても、その原点に立って、報徳の精神を表現する工夫がなされ、報徳博物館の佐々井典比古理事長が報徳の精髄をあらわす詩をまとめている。これを下に示します。


(3)二宮尊徳の見直しと現代

 日本は1973年のオイルショックを、勤勉さと創意工夫でうまく乗り越え、一層の発展を遂げ、GNPが世界第2位となり、アジア諸国の手本になりました。しかし、この経済的成功は1990年代初頭に、経済一辺倒の社会風潮を招き、いわゆるバブルを引き起こしました。
 また、同時期、発展途上国にあっては、人口の急増と著しい経済の成長が始まり、こうした地球への負荷が限界に達しつつある兆候が明確に見られるようになって来ました。そのため、環境への配慮をしなくてはならないという意識がたかまってきました。特に、このころからの経済発展が著しい中国にあっては、経済のみの視点では危険のあることを予感する人々によって、二宮尊徳の考え方に注意が向けられ、北京大学日本文化研究所が中心となって、日本との連携で2003年に国際二宮尊徳思想学会が設立されるということも起こってきています。そして、2005年には、日本に最も親密感を持っている大連市では、大連民族学院の中に、中国東北二宮尊徳研究センターまで設立されるまでになっています。その開所式の写真が次のものです。

2 中国東北二宮尊徳研究センター

(大連民族学院)開所式記念











このように日本では、通過してしまったかに見える二宮尊徳の考え方は、初めて触れる人々には、新鮮で優れた教えであると強い関心をもたれています。日本にあっても、最近、1945年を境に、捨ててしまった日本の美点を見直す動きが最近出てくるようになってきており、二宮尊徳を見直す発言が見られるようになりました。それはすなわち、日本人のよって立つ基本である国土、及び農業への関心を呼びもどす、きっかけになるのではないかと思います。