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            11'7/7        大連での散髪4年後    
                      東京歴史文化の散歩
            10'12/20    砂町瑞江コース
                     矢切の渡しの向こうー野菊の里
          
08'10/7     「貴州省紀行」
          
10'2/2     「ナイジェリア紀行」
          
09'2/8      「絵手紙へチャレンジ」   「北京第3空港」
          
08'12/2    国際二宮尊徳思想学会第4回学術大会
                  「ゼミナール・二宮尊徳」の開催  
日高報徳者訪問
                          孔子生誕2557年祭  
紫陽花と蛍 
                         
姥捨て棚田 De 稲刈り   姥捨て棚田 De 田植え
              12’3/3       
大連開発区の北朝鮮店、その後
                         北朝鮮国営レストラン   大連での散髪
                         上海・二宮尊徳研究センター開設
                         
見沼代用水のこと   (佐藤俊郎氏から)
                                         ‘06年6月28日歴史の散歩の終着点にある用水路 
                         
二宮尊徳について 自分達史について
            
   「ふだん記」への参加




東京歴史文化の散歩

砂町瑞江コース                 10'12/20

2010年12月2日(木)、「東京・歴史文化の散歩道20番目・砂町瑞江コース」を歩きました。
23コースある内の後ろから4番目。
10時に東京メトロ・
東西線・南砂町駅東改札口に集まり、スタート。
今回は南砂町駅ー西葛西四丁目ー葛西臨海公園・西葛西四丁目ー瑞江大橋ー瑞江駅と12Kmのコースでした。

砂町葛西瑞江コース略図

以下、写真で紹介します。

(1)南砂町駅

(2)荒川堤防

砂町と言うからには、昔は砂があったはず。海岸だったんでしょう。それにしては出口が1mも階段になっている。地面は海面下と思いました。

荒川に架かる葛西橋へ行くのに、7-8mはある堤防を登らなくてならない。地表は相当に低いことを実感。完璧にコンクリートでカバーした、実に堅固な構造物。施行者の名前がくっきりと表示され、責任を明示。

(3)荒川堤防から砂町を見る

(4)葛西橋の上で

実際に荒川堤防から砂町を見ると、川の水面から下に家々が立てられていることがはっきりとわかる。オランダみたいか。

葛西橋は大変交通量が多く、大型車が通ると揺れる。地図で今いる場所を確かめながら、川を渡る。

      (5)江戸川平成公園

(6)古川せせらぎ公園

元々あった行船公園の北側を改修した回遊式庭園。将来は、飛び石を車椅子では渡れなくなるだろうと見積もって、ここで写真撮影。

昭和48年(1973)、親水公園第1号として開園。1,200mもある。建築賞受賞、海外にも有名というだけのことはある、素晴らしい散歩道でした。

(7)宇田川家・長屋門

(8)今井水門

この地3,000石を開拓した人の屋敷門。間口11.3m、現在も子孫が住んでいて、農具が中に置いてあった。トラクターなどはない。大きな地代収入をもつ兼業農家でしょうね。

新中川が旧江戸川に合流する所にある防潮水門。1963年設置、江戸川区・葛飾区・足立区の低地帯を守る役割。高さは9.46m。壮観。津波警報の時は閉鎖。

(9)大雲寺の歌舞伎役者の墓

(10)都営・瑞江駅

関東大地震の後、蔵前から移動。歌舞伎役者の墓が多い。が、誰がだれやら、わからなかった。市村というのがあったので、それを写真に。市村は女方らしい。
屋号は、橘屋。

やっと散歩終了。夕方になっていた。12Kmのコースといっても18Kmはゆうに歩いている。万歩計でも、2万6千歩。16.2Kmくらいは歩いている。参加者は、この4人とこちら側にいる1人。疲れた。

笑っているのは、苦笑い。みんな前かがみになっているではないか。(4)(6)と比較するとよくわかる。

矢切りの渡しの向こう−野菊の里    10'11/15        

2010年10月18日の散歩は実に久しぶりでした。短いコースと思いこんでいたのが、柴又帝釈天境内の裏に、矢切りの船着き場があり、そこにいると対岸から櫓漕ぎ船頭が来、そうされれば江戸川を渡らざるを得ないことになった。千葉側に上がると、完全に田園。聞けば、そこは野菊の墓の舞台になった地というのだ。そして「野菊のこみち」として、歩く道が作られていた。
この意外性に釣られて、都心でない、田舎道を久しぶりに歩いたので、「余録」として追加報告します。東京スカイツリーを先に「付録」としましたので。


以下、文学的に、アナログで風景を。-----少し、説明を付けます。



(1)柴又の立派な彫刻のある帝釈天・本堂



(2)帝釈天境内の北には江戸川、そして有名な矢切りの渡し

(3)川幅は70mくらいかな

(4)櫓をこいで、おだやかな江戸川を渡る



(5)江戸川の千葉県側に「野菊のこみち」起点

(6)振り返るとネギ畑の向こうに江戸川の土手

(7)千葉県側は松戸市

(8)南方向に北総線高架-成田空港へ直行

(9)水路に矢切り橋、野菊の墓のレリーフ

(10)矢切り橋の欄干には菊の化粧パネル

(11)水路の向こうは近郊開発された住宅地

(12)坂を上がると昔の庚申塚

この辺りは、小田原・北条氏と房総の里見氏の死闘の場、矢切りとは、里見方が矢が切れ負けたことから、きたという



(13)野菊の墓の文学碑のある丘の上は
昔風の住宅地



(14)岡の上から、東京方向を見る、
広い平原が広がっている



 「貴州省紀行」

5.青岩古鎮            10'5/7

貴州省に古い町が残っている----と言う。青岩古鎮というのだが、この読み方は、せきがんこちん。このあたりで、青い岩山が多いので、この名がある。
省都・貴陽市から真南に30Kmくらい。少し丘陵になっている。明代の洪武年間(1378年)にできたという。ここの出身者で状元(科挙のトップ合格者)になった人もいる。貴州は辺境どころではなく、結構文化も高かったわけである。青岩古鎮は、中国らしく、城壁に囲まれている。

    (青岩古鎮の地図)


左の写真(1)は、古鎮の地図である。グリーンは道。太い緑の幹線道路は城壁を東に迂回して通っている。城壁と言っても、高さは3m位、防塁があるといった程度の部分が多い。しかし、入口には立派な城門が建造されている。大きな川はない。城内には、起伏があり、石で舗装されているが大きな道はない。車は通れない。建設した時は、輿が通ったくらいであり、みんな歩いたのだ。

(2)は、南城門に至る道をスケッチしたものである。ちゃんと入場料を取るようになっている。外国人は少ないので、高額ではない。2元くらい? 塀はそのあたりにある扁平な石を重ねて作ってあった。

(3)は、その城門を入ってから、坂を上がり、振り返ったものである





     
      青岩古鎮・南門への道       青岩古鎮・南門の内側

この門から手前は坂になっていて、上がりきったところにまた、碑坊がある。これは石でできていて、商店の始まりですよ、という意味を持つのであろう。(4)がそれであるが、町をぐっと引きしめてくれている。これがなければ日本の商店街のようで格式を感じないだろう。
商店街が200mくらい続き、坂を下りることになる。その降りるところを(5)に描いた。日よけの布が垂らしてあり、生活を色濃く感じさせてくれる。

    
    (4) 青岩古鎮・市街地碑坊       (5)青岩古鎮・商店街

商店街を突っ切ると、もう1つの門に出る。そのあたりになると、商店ではなく、壁に仕切られた寺、官署の地区である。(5)がそうした一画をスケッチしたものであるが、建材も瓦、それも黒く焼いたものが使われ、いかにも入りにくい。

  
     (6)青岩古鎮・北城門内側


4.貴州省の民家             08'10/7

貴州省は中国で最も貧しい省という。そのため、家々もあばらやで手入れもされていないと思っていた。だから黄果樹瀑布へ行く間に、庶民の家が見られると好奇心いっぱいだった。が、実際は、きわめて情緒のある家々であり、がっしりしていた。そこで、今回は、その情緒をスケッチで味わってもらいましょう。

(1)は同じ高さの山々が見える手前に、石作りの家々。屋根は木を使って瓦で覆い、棟の真ん中にでっぱりがある。これは魔除けであろう。入口はヒサシがなく、マンションのドアみたいに、ドアがあるだけ。考えてみれば、その戸口まで行くのに、塀があり、塀の中は既に家屋内とみてもいい。入口からは土間が室内まで続いていると思われる。

(1) 貴陽付近の民家

(2)は山を背にした民家。日本と同じ、ふもとに道があり、それに沿って家々。平原の真ん中に家を建てるより、湧き水、風、日陰など有利なのであろう。家の前は水田。我々の少年時代の風景だ。

(2) 山を背にした貴州省の民家

(3)は谷あいの集落。同じような大きさ、建て方。すべて農家であろう家々。道もまっすぐでなく、農事に使っていた道が、拡幅されて広くなったという歴史を推測させる。効率を意図して作られた道ではない。自然により近接した平和な風景。

(3) 貴陽市近郊の谷あいの集落

(4)は、山の傾斜地の民家。さすがに水田ばかりとはいかず、畑。ヒマワリが植えてある。2階建が多い。なんでだろう? ---家の敷地を節約し、土地を、より多く畑にしたいのだ。

(4) 貴陽近くの傾斜地の民家

(5)は、昔の鎮の入口付近の家々。街道に面した地域。左の大きな街道。それに向かっての商店の家々。機能性を感じさせ、自然との連続的な雰囲気はないね。

(5) 貴陽の隣・青岩鎮門街の商店


3.貴陽市                              08'9/15

タクシーに乗れて、どこへ行くのかも決まり、やっと風景を見るゆとりができた。それまでは、それどころではなかった。空港の写真が撮れたのは、日本のように簡単にタクシーに乗れると、思い込んでいた時間帯のこと、その後の時間は、如何に事態を切り抜けるかに集中せざるを得なかった。

助手席からの風景の第一は、平原でないこと。木も多く、道も直線ではない。北緯26度35分、東経106度43分。標高1,000m。夜郎自大の故事のある所なので、どういう狭量な国かと想像をたくましくしていたが、日本的であることで妙に安心感――日本も狭量ということか。 (2)の風景は、左ハンドルを除けば広島を東から入っていく時に見える黄金山の雰囲気そのものだ。

(1) 貴陽空港滑走路からの風景

(2) 貴陽市へ入る道路

高速道を走ると、都心部が見えてくる。(3)がそれであるが、やはり、広島とは違う。車は渋滞していないが、かなりの大都市。(4)の都心部となると、横浜よりずっと大きい。大阪並だ。そういえば、胡錦濤主席はここの責任者だったことがある。

(3) 貴陽市貫通道路から

(4) 貴陽市中心部

中国の都市は、ともかく、デカいビルを建てている。見えるところのハードは日本を確実に凌いでいる。都市にも面子を重んじる影響がある?  (ソフトについては、長く滞在してみてください。夏はお勧め)

2.貴陽空港                             08'9/1

貴州省の省都は貴陽である。標高1000m、人口345 万人、日本最大の市・横浜とほぼ同じ。しかし、貴州省の人口は3,900万人だから、都市への集中度は低い。その空港は、市の東北にあり、日本からの直行便はない。だから、中国の大きな都市で入国し、国内線で貴州省へ入ることになる。

貴州省の表層は80%、石灰岩で覆われているという。実際、地表が見えるようになると、山が削られ、中には、削られる前の状況であるカルスト地形も見える。 (1)はその典型的な空中からの写真である。小山の上に、ボコボコと石灰岩の溶け残りが残留している。

(1) 貴陽付近のカルスト地形 3876

飛行機は丁寧に、地上に降り立つ。3°の角度で降下していくという。(境機長に確かめていないが) そして、地上からの風景がまず飛び込んでくる。(2)がそれ。同じくらいの高さの、同じくらいの傾斜を持った山々が重なっている。分散度、抜群。ぶどうパンでもこうした偏析なしのものは難しい。

滑走路を離れて管制塔のある方へ。(3)は搭乗口建物と一緒に写したしたものだが、飛行機は全部で3機しか停まっていない。地表面はコンクリートで保守が行きとどいている。

(2) 貴陽空港滑走路からの風景

(3) 貴陽空港・管制塔

降りると、スーツケースの番号と搭乗券に貼った番号を照合する人がいる以外、全くチェックなし。さっさと出られる。 オリンピック前の、中国への入国のうるささからは、無縁。
 出ても、誰も来てくれていない。空港の中も地方色の雰囲気。(4)のコーヒー店を見ればだいたい想像つくでしょう? 外に出て、(5)のタクシー乗り場に出る。 タクシー、いない。案内もいない。(現地の人はバスで市内へ、言葉が分からないと乗れない)

(4) 貴陽空港のコーヒー店

(5) 貴陽空港・タクシー乗り場

まあ、覚悟してやってきたのだが、そこは、人と言うのは運があるもの。ちょうど出発で空港にタクシーが来たので、助手席に乗り込み、漢字で書いた行き先(大学)を見せ、チェイク---とやるが、全く通じない。書いたものを20秒くらい見ても、わからない様子。貴州民族学院へ、タクシーで行く人は少ないらしい。電話を激しい言い方でかけている。やっと了解。ストレスで、腹具合もおかしくなりつつある中、大きなリスクを踏んだことになるが、漢字が読めると言うのは、日中両国にとってハッピーなことです。民度が高いと言うことでもある。それに、地方の人は、都市社会での精神的に汚染されておらず、多少の親切心が残っていたんです。


1.黄果樹瀑布(こうかじゅばくふ)                 08'8/16

中国の最貧省として貴州省のことは聞いたことがある。しかも、7月には、北京オリンピックを前にして、暴動が起きたところ。そんなところへ行くという機会は、そうザラにあるわけではない。ところが、その省都で、異文化理解のシンポジウムをやると言う話が持ち上がり、今回は日本企業文化にスポットを当てての研究会という。日本企業文化と言うと、二宮尊徳抜きには語れないと思っている人間として、それに参加することにしました。

そのシンポジウムの難しい話--実際はそれほどでもなかったが--それは、先においておいて、少し貴州省のことを紹介してみます。

まず、ここに中国一の大瀑布があることは、全く知らなかった。イグアス、ビクトリア、ナイアガラ、とは知っている。が、世界4番目の大滝は? それが、この黄果樹瀑布という。81m、落差74m と幅は、大したことはない。だから遠目には小さく見える。(1)は、滝が見え始めた場所。みんな写真を撮るので、人の頭がはいっているが、まあ、こんなもの。(2)はぐっと近づいての正面。水しぶきが猛烈で、50ミリの大雨もこんなか、と思わせる。みんなビニールの合羽(2元=32円)を途中で買い、着ている。カメラがびしょぬれで、これではカメラ本体に水が入る---がこの際仕方なし。

(1) 初めて見える場所からの黄果樹瀑布

(2) 滝のしぶきのかかる正面展望台

通常、滝を見るのは、ここで終わり。しかし、この黄果樹瀑布は、滝の真ん中あたり40mの高さの所、左手に鍾乳洞がある。(3)は、その入り口。なんだか、ダムを見学するような気分で、滝の裏側を見ることになった。もちろん自然にできたもの。

(3) 滝の裏側に鍾乳洞

滝の裏側に道が貫通していて、ところどころにベランダのようになっているところがあり、そこから滝の裏側が見られる。(4)はそうした滝の裏側。水しぶきは大したことはない。風も吹かない。(5)は私のいで立ち。薄いビニールの合羽のため、体に張り付いてペンギンの腹のようになっている。

(4) 黄果樹瀑布の裏側

(5) 薄いビニールの合羽・黄色

150mくらい歩くと、滝の右手に出る。(6)は滝の裏を通過した人たちが、改めて滝の表側を見ている。(7)は、鍾乳洞の出口、そして、滝の側面。 不思議なところではある。怖さは全くなかった。

(6)鍾乳洞の出口、右側が滝

(7)鍾乳洞を出た所、左の白い所が滝

今回のことがなければ、この滝のことは、知らずに、去ることになったのであろう。世の中、そうしたことばかりで、過ぎていく。


 「ナイジェリア紀行」

10.ニジェールデルタの道                  10'3/25

この地域の道について注意を向けてみよう。やはり日本とは相当に違っている。地面が砂地である。これはニジェール川の最上流がサハラ砂漠の南にあり、流れはしばらくは乾燥した大地を流れていることと関係するかもしれない。とはいえ、そうした砂が流されるためには、雨が降らなくてはならないので、乾燥地というのと矛盾は起こる。 中下流で熱射によって、石が細かく割れ、豪雨によって、洗われるという推量もできるが、(1)の写真のように、比較的高いところを走っている道路でも砂地が見える。 (2)は斜面になっている道路を撮ったもの。斜面の下に砂の混じった泥がたまっている。

道路は砂地の上に舗装 斜面下の道路に砂混じりの土

こうした地盤であるから、いったん道路の手入れが間に合わなければ、どんどんと、道路は車走行によって堀り下げられ、(3)のように砂の混じった地面がでてくる。(4)はそうした結果の路面。道路ではなく、川床といった状況になってくる。こうしたところが一杯ある。

道路が薄くなり下の砂混じり地層が露出 道路は堀下げられていく

道路の走行状態を見てみよう。(5)は車の助手席から前をみた景色。歩道はない。こうしたところを先進国で使いきった古い車が限度いっぱいのスピードで走り抜ける。車検は多分ない。制限速度の標識はない。追い抜きは、運転手の度胸の見せどころ。(6)はその瞬間。追い抜き禁止の標識はないので、自由に、おおらかにリスクを楽しめる。

助手席から見た道路状況 追い抜きも2両とも全速力で



9.ニジェール川                    10'2/16

(1)ニジェールデルタ

 ナイジェリアは、大河ニジェール川が国に中心部を流れ、大西洋に流れ込んでいる。この河口は、複雑に分岐していて、どれが河口なのか、長い間、探検家を悩ました。現代では、衛星写真から、(1)のように川の全体が一望できるので、河口という通常の観念では特定しにくいことが分かっている。(Wikipediaから)

このデルタは7万平方キロ。一面、大湿地帯である。この下に油田が眠っているとは、誰も思わなかったであろう。この中心都市が、いままで写真を紹介してきたポートハ―コートである。

 この湿地帯を更に、拡大したものをGoogle Earthからみると、(2)のようにさらに細かく水路が分岐しているのがわかる。

(2)PH南海岸の湿地帯                                                                      では、地表からこの地区を見るとどういうことになっているのか? 
平坦に見えるデルタも、実際にはそれなりに凸凹がある。(3)のようにくぼみがあり、高くなった所は道路。平たい所に出ると、ところどころ川がちぎれたかたちで(4)のように水がたまっている。

(3)ニジェールデルタの風景

(4)ニジェールデルタの標高の低い所

(3)-(4)のようなところを通過すると広場にでる。小屋が並んでいる。そして突然に、大河。川のそばには、道があり、人がいる。(5)(6)はそうしたところでの小屋と商店、ここで車を降りて、ニジェールの川辺に立つ。(7)はその時のものであるが、ともかくでかいし、水がとうとうと流れている。川の真ん中に、草が浮いており、それが動いているのでよくわかる。この量感はアフリカの内在するボリュームをもって迫ってくる感じだ。 思わず、「子、川のほとりに在りて曰く逝く者はかくの如きか。昼夜をおかず」を口ずさむ。

(5)広場と小屋、向こうに川

(6)ニジェールの川辺の商店

(7)ニジェール川の圧倒的な流れ



8.油田                        10'2/3

ナイジェリアは意外と知られていないが、世界第6位の石油産出国である。石油と言えば、アラビア、クウェート、イラク、イラン、あるいはテキサスといった乾燥地を想像するが、ナイジェリアは、海岸に面した巨大な湿地帯の下に油田が広がっている。しかも、熱帯地域である。一年中、緑色が一面に広がっている。そうした中を車で走っていると、橙色の炎が見える。これが油田のガスを燃やしているのだとわかるのには、何秒かかかる。写真(1)はその瞬間の写真。 ヤシの間から、えらく輝いて、明るくなっている。ありゃなんだ、と言うわけである。
しばらく走ると、炎が地面から立ち上っていることがはっきり分かり、石油との関連を頭の中に飲み込むことになる。そして、こうした油田もあることを知的に消化する。(2)の風景は、なんとなく馴染んだ景色に見えて来る。ここで見る炎は、無機質ではなく、もっと情緒的であったかい感じがする。

   
   市内道路から見る油田の排ガス炎     湿地帯の中から昇る油田の炎

油井のある方に近ずくと、鉄条網。この中は石油会社の占有地で、関係者以外は入れない。中は駐車場。ナイジェリアではなく、欧米の工場の雰囲気。---当然である、ここは外国の石油会社が操業しているのだから。(3)がその風景。金網は薄くはられていて、いかめしさはないが、セキュリティのための人員が塀の周囲を周回し、警護している。中には資材も積み上げられている。この中は安全なのだ。石油会社の家族もこうした塀の中にナイジェリア国民とは隔離されて住んでいる。

    
     (3)       (4)

(4)は油田地区をさらに近接してみたもの。こんな狭い地域に3本も油井戸があるということだ。この地域だけでアメリカ、メキシコを上回る埋蔵量という。何にも産業と言ってはない所に、突然、宝の山が出現。各部族間で争奪戦が起こって当然。以前はビアフラ戦争と言うのがあったが、それはこの地帯で行われた内戦だったことを思い出す。


7.高級住宅                     10'1/12

今まで紹介した住宅に匹敵する家に住んでいる人は、われわれの周辺でも、あまり見当たりません。わが身に引き比べれば、別世界。ロマンが中世の王子・王女という世界になります。現実的ではなくなるので、ひょっとしたら手が届く、と言う住居もありました。

写真(1)は、中心部から少し離れた道路沿いにある家。三番町ではなく、成城と言う感じかな。土地は、日本ほど高くはないはずですから、敷地は大きく取れます。

(2)は、コングレスホテルの前。政府のえらいさん、と言う感じでした。この家は、道からは塀で完全に閉じられていて、中がこのように手入れされた芝生であることを通行人は見ることができません。門の外で番をしている使用人もいて、重要人物が住んでいることは確かでしょう。公邸かな。

(1)    中心から離れた住宅街 (2)    州政府高官の公邸?

写真(3)は、州政府地区へ行く途中での家。住宅ではなく、政府の施設かもしれない。パーティができる広さがあります。そうした社交的な世界があるとは、一般の住人からは考えられないですが、公式の式典の後のちょっとした食事の会くらいはあるはず。州知事は、知事になる前は、お医者さんだったそうですから、部族長、軍人といったイメージの人物ではないです。なんとなく、パーティに出てくれそうな感じです。この家と言うわけではありませんが、そこは空想して、書いています。

(3)    市中心部へ向かう途中の家 (3)     市中心部へ向かう途中の家

(4)は、こうした大きな家の塀の中がどうなっているか?男性だったらのぞき見したくなる。その機会を逃さずに撮ったもの。何ということはなく、夾竹桃が植えてあるだけ。驚きがないのはいつもの通り。しかし、また、のぞき見は繰り返すでしょう。



6.最高級邸宅                         08'11/9

日本から見て、ナイジェリアとの格差を紹介しすぎました。これではロマンがない。そこで、趣を替えて、邸宅を紹介します。もちろん、中には入れてもらえませんでしたが。

イギリスの子爵の名前から来た(ポート)ハ―コート、それに相応しい地域も狭いですがあります。こうしたところは水路があるもんですが、写真(1)は、そうした運河です。ゴミが捨てられていません。そして、大きな街路と街路樹。(2)がそれです。歩道はどうなっているのか、よく分かりませんでした。

(1) 邸宅街付近の運河

(2) 邸宅街

この立派な通りを少しそれたところに、写真(3)の家があります。これは、政府の人の住居でないと、案内の人も、訛の強い英語で言っていましたが、確かに、使用人がたむろしていて、それもだれていない雰囲気でした。家も機能的デザインというより、やわらかさを感じさせます。 写真(4)は別の邸宅の写真ですが、はやり、おもむきが少し違っています。

(3) 最高級邸宅

(4) 大邸宅



5.民家(市街地)
 
  住宅は、その土地の風土によって、だいたい決まります。ナイジェリア南部は熱帯雨林気候ですから、日本とそう大きくは変わりません。あとは経済状況によって、変わるのは、日本と同じです。

アラブの国、極北の国の住居のように、気候対策、文化の差からくる、日本と大きく違った構造があまり見られないけれど、写真を載せます。

(1) マンション

(2) サッカー場付近の住居

写真(1)は、我々におなじみのマンション。が、3階建てのものでも、そう多くは建っていません。これは、すこしゆとりのある人々でしょう。勤めが安定している州政府組織の職員だと思います。日本にもある財務省の宿舎といったところかな。

布団は干してないが、洗濯物は、日本の風景によく似ていると思いませんか。それでも、クーラーはつけていませんね。

(2)は、サッカー競技場の近くの民家。ぐっと庶民的になります。塀がなく、家の前にリアカーが置いてある。堅実に、小さな商いをして生活を立てている雰囲気です。

(3) 道路脇の民家

(4) 縁辺部の民家

写真(3)は、道路わきの住宅。商店を兼ねています。表が商品を置く場所、後ろに台所、寝室。江戸時代の宿場町も、こんな風だったのではないかと、思います。

(4)は、(3)の場所よりさらに周辺の道路。電線の密度がまばらになり、木々も後ろに生え、道幅も広くなって、車は早く走り始め、一目散。 左の立派な乗用車が、場にそぐわないんですが、建物は立派でなくなり、屋根がトタンになり、商品もなく、人々も座り込んでいます。

4.ポートハ−コート市の高速道路

市街地を通り抜け、唯一通っている高速道路を走りました。料金所なし。左ハンドル。マナーは悪くありません。車も一応きれい、乾燥地と違って、時々スコール、水があるからでしょう。道路の上も、ほこりっぽくありません。ただ、心配になる位に早く走ります。

写真(1)は、道路として立派なたたずまい。中央分離帯は広く、街路樹があり、道路表面も凸凹がありません。が、ところどころ黒いものが落ちています。これは、タイヤの端切です。つまり、大いに走って、タイヤがバーストしたのでしょう。もちろん掃除なし。気にしない、気にしない。

(2)は、信号のあるところ。人が集まっていますが、これは物売り。新聞は、ほとんどここで買います。ハンカチも売っていて、実に安い。20円くらい。真っ白だし、品も悪くありません。

(1) 高速道路

(2) 高速道路の信号

(3)は、鉄道をまたぐ陸橋。急ブレーキをかけた跡もなく、全く美しいフェイスです。左のミラーに、撮影者の証拠写真、巧まずして登場させることができました。

(4)は、陸橋を下りていく所からの街の風景。街並みが整って、証明灯もある。交通量が多い中心地でしょう。左に給油所。今回の旅の中で最も美しい景観ともいえますが、色彩は地味。多くの人たちに評判のわるい看板がいかに町を活性化しているか、に気付かされます。

(3) 陸橋の平坦な道路面

(4) 陸橋から見る市街地




3.ポートハ−コート市の風景

ポートハ−コートは、巨大なニジェール川の河口デルタにあり、石油関連産業が多く集まっている都市である。人口、約115万人。人口から言うと、神戸(約80万人)より大きい。そうした産業、人口のある都市の風景は、と言えば---、高層ビルはほとんどなし。商店街もなし、整備された公園なし、なのだ。 人が集まり、集落となり、それが積み重なった、というところであろうか。

それは、世界中の発展途上国に見られる都市の姿であるが、考えてみれば、日本でも江戸時代は、そうであったと思われる。そうした視点で見れば、都市も成長していくものだと改めて、日本の都市の充実をありがたいと思う。

さて、前置きが、長くなった。ポートハ―コートの街並みを写真で紹介します。とはいえ、写真を撮ることは極めて難しいところです。そのため、市街に立って撮影することは、ほとんどできませんでした。

ですから、ホテルの4階に上がって、そこから見える風景が、写真(1)−(2)です。高い建物は見当たりません。それは、エレベーターをつけられない、つけても保守・点検できない。停電がある、という理由からでしょう。道路が薄いアスファルトで舗装されていることが分かります。標識はありません。

(3)は、車に乗って、助手席から撮ったもの。バイクが多く、台湾製ばかりでした。もちろん歩いている人も多い。

(4)は、道のそばでの露店を開いているところ。雨量は年間2,200ミリありますから、日本の1,600ミリより多く、排水しなければ、水浸しになります。そのため、道路の横には排水溝が掘られています。しかし、自然流下させるようにはなっていないでしょうから、どこかで溢れることになるでしょう。その時は、店も閉店。フレクシブルな対応は、みんな身につかざるをえない。文化の下部構造をなしている気候・風土は確実に人々の対処の仕方に影響を与えているものです。

(1) コングレス・ホテルから西方向

(2) コングレス・ホテルから東方向

(3) (1)に見える道路を走る

(4) 道のそばの露店


2.至る所にガード

ナイジェリアにいる日本人は150人位。石油産出の中心・リバース州の主都・ポートハ−コートには、石油会社の外国人はかなり滞在していますが日本人はほとんどいません。それは治安がえらく悪いからです。

石油利権を持っているのは、現地の住民ではなく、権力を握った部族であり、彼らは地域住民の福祉を第一と考えて政治をするわけではありません。常に対立は発生します。(かつてはビアフラ内戦にまで発展しました。)

そうした不測の事態に対して、日常から対策を講じているわけです。まず、ホテルですが、完全に警備されています。ホテルのある地区は州政府の特別地区となっていますが、そこにある住宅地も完全に高い塀で囲まれています。安全確保が第一優先の世界---日本とは、社会構造、歴史が違っていますが、これが世界の常識かもしれません。

(1)  泊ったホテル

(2) ホテルのガード

(3)  ホテルから道路を見る

(1)の写真にある看板が見えます

(4) 州政府付近の住宅



1.プリンセスに会う

今日(2008.7.9)、洞爺湖サミットの最終日です。このサミットの初日、アフリカ諸国首脳との会議がありましたが、その中に、ナイジェリアのヤラドゥア大統領も入っていたと思います。

ナイジェリア- - - 名前はよく聞くのですが、実際には訪問する機会のない国です。 たまたま、知人の誘いがあって、東経5度、北緯8度のこの国に行きましたので、書いてみます。(2005.9)

ナイジェリアでは、プリンセスに会いました。 北部のカノ州にカリフがいて、その娘さんが、南部のリバース州ポートハ―コート市に来ましたので、紹介されました。

プリンセス・ムルタラと言われ、初代大統領の弟さんと結婚しましたので、ムルタラという名前になったと言います。 プリンセス・○○ - - - 、日本には滅多にない階級です。それなりに緊張して、お会いし、食事もしました。

その時の写真です。

(1)  表敬挨拶

(2)  宿舎にてお茶

(3)  族長の自宅での家庭料理

(4) 帰国にあたって

        (なお、後で聞くといろいろありました。それは、また、いつか)



 「絵手紙へチャレンジ」               09'2/8

2009年の干支・牛づくし

MKさんの後を追って、絵手紙を始めて半年。今年の干支が丑ということで、描いてみました。いろいろ、あるもの。顔つきは、みんな違います。手作りですから、同じにする方がはるかに困難です。


  松浦さんが絵手紙の大先達ですが、私も、二宮尊徳の一生を絵にするプロジェクトに関係し始めたことから、絵を描かなくてはならなくなりました。

ともかく、近所の公民館に飛び込み、はじめました。第1作を、お見せします。下手さでみんな安心すると思います。 (だから、気軽にホームページに参加してください)

新人紹介(私のこと)と皆さんの絵

1作 サルビア



2作 キウイ


「北京第3空港」                    08'5/21

2008年3月27日、北京から帰りましたが、その日は、新しくオープンした、北京第3空港の2日目でした。オリンピックに来る海外からのお客さんを迎えるために、建設した空港です。

印象としては、ともかく、デカい、またデカくしたという感じです。その報告をします。

    3空港行き専用の高速道路

    3空港ビル前の門(碑楼の伝統か)

車寄せに深く張り出した屋根

入り口を通ると、そこは2階

駐機場にはさらに1Km位、電車で


        駐機場までの電車

駐機場建物

第3空港周辺


国際二宮尊徳思想学会第4回学術大会          08'11/27

2008年11月22〜23日、上海にある華東理工大学で、二宮尊徳思想の学会があり、参加しました。テーマは「報徳思想と和諧社会」、中国から33名、日本から75名が参加。今回は、各地で実践をしてきた報徳社の人々の出席があったことが特徴です。
会は、主だった人たちの紹介があり、挨拶、スピーチと型通り。記念撮影。

会場:華東理工大学・逸夫楼講演庁 華東理工大学・馬玉?副学長と
国際二宮尊徳思想学会会長・孫宗光教授
 フロアからのひな壇
民主党参議院議員会・大石正光副会長    ひな壇からのフロア 上海総領事館・石井哲也副総領事の
挨拶

                    記念撮影

研究発表は、345頁の本にまとめられ、これに従って発表。27論文ありました。


学術大会予稿集


研究大会・内容

基調講演T
基調講演U

1ブロック:報徳思想と和諧社会--4論文
2ブロック:報徳思想の内包と外延--4論文
3ブロック:報徳思想と経済倫理--5論文
4ブロック:報徳思想と社会貢献--5論文
5ブロック:報徳思想と新農村建設--4論文
6ブロック:報徳思想と九州-5論文--5論文

懇親会

夕方からは、歓迎の宴会、送別の宴会と2日間。大いにみんな老酒を飲みました。

報徳社の人々と大石参議院議員 北京大学大学院生と尊徳玄孫・二宮精三氏 




「ゼミナール・二宮尊徳」の開催             08'2/15

2007年12月、大連の二宮尊徳研究所・所長が来日した機会を捉え、二宮尊徳のセミナーをしました。
10期からは、高橋敏行君に来てもらいました。以下、その案内状と、参加者の方からの感想です。


二宮尊徳ゼミナールのご案内
秋冷の候、貴下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。

さて、背中に薪を担いで読書する二宮金次郎(尊徳)の名は、皆様ご承知のとおりですがその実像、思想、功績などは、案外世に知られていないところがあるようです。

中国でも二宮尊徳に取り組んでいる研究所があることは、ほとんど知られておりません。
このたび、中国・大連市から、秦頴先生を迎え、中国での二宮尊徳に対する取り組みなどを聞き、また皆様方と気楽な雰囲気の中で語ることを趣旨として、少人数で掲記の集いを行います。 ご多忙のところ恐縮ですが、ご参集方ご案内申し上げます。なお、先着15名さまを定員とさせていただきます

.日時:2007年12月03日(月) 18時〜21時
講演会:18時〜19時20分   ・・ 開場17時30分
懇談会:19時30分〜21時   (パーティ形式)
2.会 場:講演会:ちよだプラットフォームスクエア内5階   502会議室
懇談会: 同上1階 プラットフォームカフェ
東京都千代田区神田錦町3−21

               【交通】地下鉄東西線「竹橋」駅下車徒歩5分

3.講 師:

中国・大連市    国立・大連民族学院
     二宮尊徳研究所 所長                    秦 頴(しん えい) 氏

日本・小田原市  国際二宮尊徳思想学会
      常務理事・農学博士

          下荒地 勝治 氏

 

               4.参加費:¥5,000− (当日ご持参ください)

参加者からの感想

「経済なき道徳は寝言である 道徳なき経済は犯罪である」

講師 下荒地 勝治農学博士「国際二宮尊徳思想学会」常務理事)

              

講師 泰 シンエイ中国東北・二宮尊徳研究所所長/大連民族学院日本語教師)

              

二宮尊徳

内村鑑三氏の著書、代表的5人の日本人の中で、西郷隆盛・上杉鷹山・中江藤樹・日蓮と二宮尊徳翁が選ばれている。

思想・・「経済なき道徳は寝言である 道徳なき経済は犯罪である」

至誠・勤労・分度(客観数値)・推譲(余剰収入を譲る)にまとめた報徳があるが、徹底した現場主義で学者や僧侶を好まなかった。

報徳(万象具徳)

どんなものにも よさがある
どんな人にも  よさがある
よさがそれぞれ みなちがう
よさがいっぱい かくれてる
どこかとりえが あるものだ
もののとりえを ひきだそう
ひとのとりえを ひきだそう
じぶんのとりえを ささげよう
とりえととりえが むすばれて
このよはたのしい ふえせかい

   

                                2007年12月3日
 ピラミッド・セーフ・ガード・大久保副社長主体で行われた「二宮尊徳ゼミナール」参加者は、学歴・職歴共に高い、日本有数の人格者・有識者の面々の、限定参加による厳粛にして和やかな、人間味あふれる勉強会でした。

「至誠も勤労の精神も失ってしまっている現状の多くの日本人にとって、もっとも大切な生き方の根幹を学ばせて頂いた貴重なひと時でした。

次回も、限定の勉強会になると思いますが、是非・命の洗濯にご出席されたらいかがでしょうか?




  日高報徳社訪問              07'10/10

 2007.9.29、埼玉県日高市の高麗川駅から北東に行ったところにある、日高報徳社を、二宮尊徳玄孫・ 二宮精三夫妻、大連民族学院二宮尊徳研究所・秦頴所長と訪問しました。報徳社というのは、二宮尊徳の教え(至誠・勤労・分度・推譲)を実践するために、日本の各地に設けられた組織で、1940年の頃には1,500社あったといわれています。 が、その後は、減り続け、現在は150社位である。日高報徳社は、報徳活動を維持している1つであります。

この地域は、奈良時代から開発が始められたところであり、1300年の伝統を誇る高麗神社のある所、特に高麗川が湾曲し巾着のようになっている地域が、9月には、彼岸花が一面に咲き、観光名所になっています。しかし、昭和初期までは、まだ、山林が残り、昭和9年にそこに入植開始、報徳社を結成し、開拓を推進。その後、この地域は、都市化の動きの中で、工業団地となっていったが、当初の報徳精神を保持した人々が多く残った。この人たちが、新規に入ってきた人々と共存して、報徳活動を維持していることから、お訪ねしたわけです。

   
    
    
    

お訪ねしてみて、今まで、日本人はいかにしっかりしていたか、堅実であったかを再認識しました。これから大いに交流して、まとめてみようと思います。(いずれ、このホームページでも報告いたします)



   
 孔子生誕2557年祭                 07'7/2

孔子は、紀元前551年に魯の国に生れたことはよく知られています。しかし、その生誕祭が現在も行われていることは、あまり知られていません。そんな中、二宮尊徳の考え方の源流が儒教にあることから、このお祭りへの招待があり、2006年9月28日の第2557年祭に参列できましたので、報告します。

@孔子の生まれた時代の馬車(パレード用に華やかに組み立ててある。当時は舗装なし)

A役人衣裳(古代を感じさせるデザイン。黄色マフラー状のものは入場券代わり)

B女官(このような色彩が出せたかどうかは疑問。化粧についてもここまでの仕上がりは?)

C孔廟までの参道(台湾からの参列者が多い。孔子の子孫も団体を組んで参加)

D本殿(大成殿)前での露台での式典(ほとんど近寄れない。TVで見ている参列者が多い)

E大成殿東側から、花輪献呈を見る。(直系子孫77代孔徳成は台湾在住という)

@孔子の生まれた時代の馬車

A役人衣裳の人と

B女官

C孔廟までの参道

D本殿(大成殿)前での露台での式典

E大成殿東側から、花輪献呈を見る。


    紫陽花と蛍             07'6/26

横浜には色々な公園があることに気づきました。しかも入場無料です。

そうした1つに、神奈川県立四季の森公園がありますが、横浜駅で蛍の案内を見、すぐに行ってみました。何年振りでしょうか。

JR横浜線中山駅を降りて10分。途中、アジサイもありましたので、写真に撮りました。

そして、蛍も撮りましたが、これは普通のデジカメでは、ほとんど移っていませんでした。が、1枚だけそれらしき痕跡が認められましたので紹介します。しかし、実際に見た場合は、蛍は暗闇にスーと漂うところに、アナログ的な美しさを感じさせます。この場合、蛍の大きさには関係なく、そのかすかな光が全空間の代表です。

中山駅から公園までの散歩道で

これもアジサイ

生き生きした溝沿いのアジサイ

左上の緑の光点が蛍


姥捨て棚田 De 稲刈り                07'11/15

長野県千曲市にある、「田毎の月」として和歌に歌われた、姥捨ての棚田で、今年5月27日(日)、田植えをしました。今度は、その収穫のために、9月23日(日)出かけました。4ヶ月ぶりでしたが、稲は確実に成長し、稲の実(米)を一杯つけていました。周辺の風景も、浅緑から、一面の黄色に変わり、我々を待っているといった風情-秋-がありましたね。

長楽寺観音堂、左が姥捨て岩

田毎の月の写る四十八枚田

棚田での稲刈り

稲を干すための「はぜかけ」

稲刈りのための鎌、刃にギザギザが付いている

潜んでいた蛙が一斉に逃げだす

    姥捨て棚田 De 田植え            07'6/23

毎年5月下旬に、長野県千曲市にある棚田へ、田植えに行っています。それは全国土地改良事業連合会(ミドリネット)の呼掛けに応募したのが始まりですが、今年は5月27日(日)でした。

東京10期の人にも誘いをかけましたが、それぞれに都合悪く、結局、留学生2人を連れて行くにとどまりました。



「姥捨て」の伝承ある長楽寺。歌の名所

月夜には「田ごとの月」となる棚田

棚田De田植え

名月会事務局長渡辺すみ子さんと学生たち

秋には刈入れをします。高地ですから美味しい米が収穫できます。

  

大連開発区の北朝鮮店(三千里)のその後(4年ぶり)                 2011.6

4年前には、北朝鮮の店は開店したばかりで大人気をはくし、お客さんが詰めかけていました。
今回は(2011年5月)、どうなっているか。夕方行きましたので、今回はアクセスの段階から写真が撮れました。
外観は変わっていませんでしたが、中へ入ると、お客さんがおらず、われわれだけ、という状態でした。(しばらくしてから2人入りましたが)


何ごとも始めた当初はインパクトがあり、人気も高いのですが、それがマンネリになって下降線をたどります。それに伴って、全体が劣化するわけですが、この店も、派遣されてきた北朝鮮の女の子たちも、4年前のそれの圧倒的な美しさはなく、監督者も陰気な官僚臭フンプンという闘士ではありませんでした。が、ここは国家の外資を稼ぐための数少ない外国拠点ですから、付近の民間の店が採算悪化で閉店していっても、簡単にやめられません。

(1)北朝鮮の民族店「三千里」

(2)三千里の入り口

(3)サムゲタンほか

(4)朝鮮の歌と踊りは以前のまま

(5)金日成将軍様を賛美してる、
んではありません、念のため。

(6)国旗はきれいなものに替えた

(7)現代風の韓流、いや朝鮮流。
顔つきは明るいよ。

(8)名残はつきじ、を演出。
何回目か

 

   北朝鮮国営レストラン             07'6/12

北朝鮮が国外に店を持ち、そこから外貨を獲得しているという話を聞いたことがありますが、実際の店に入るということは、なかなか機会があるものではありません。今回、北朝鮮と国境を接している遼寧省大連市に行きましたら、そうした店があるということなので、行って見ました。

「三千里」といかにも北朝鮮的な店の名前。入ると北朝鮮国旗が飾ってあって、日本人としては、一瞬緊張させられます。

            

しかし、食事の間に20−30分のショーがあり、それは大変雰囲気のあるものでした。容姿と思想のえりすぐりの美女が、民族衣装を着け、朝鮮語で歌うショーは、優美さを感じさせました。伝統があるということは、ありがたいことです。

料理は、まずまず。ただ、犬の肉というメニューがあり、注文してみました。コリコリしていて少し硬く、さほど臭みもないといったところで、そう美味しい!!というほどのものではありませんでした。45元(約680円)だったと思います。

 

大連での散髪、その後(4年ぶり) 2011年6月                                             2011年5月、久しぶりに大連に行きました。大連
発区の変貌ぶりは、日本の40年代の開発ぶりを思いおこさせました
。今の日本と比べて、活力が違います。
その状況は、また、別の機会に報告することにして、今回は散髪の状況がどうなっているかを、フォローしてみましたので、それを書きます。4年前に行った理容室は見つからず、大連駅の地下街の理容店となりました。今回の通訳は、大連民族学院日本語学科4年の趙一エさん、そのルームメイト張旭さんでした。
前回との違いは、あまりありませんが、ファッション性が高まり、職人的意識の高まりと同時にスキルは上がったように感じます。値段もそれ相応に10元が30元へ3倍。更に、高価なコースもあります。

(1)地下の繁華街の理容前で

(2)鍵付ロッカーへ手荷物を収納、着替

(3)まず、仰向けになって洗髪

(4)移動して鏡の前へ

(5)職人的な若い男が、少ない毛をカット

(6)再度、洗髪、これは変わらない


(7)仕上げは、顔にガードを当てて


(8)少し若く見える?--(1)と比較して


大連での散髪                 07'6/11

中国へ何度も行っている人が多くなりました。しかし、そこで散髪してもらうということは、なかなかチャンスがありません。そこで、今回は、学生(大連民族学院4年生;玄麗花さん)をつけてもらうように頼み、行って見ました。

@まず、髪を長く切るかどうかを聞かれます。これは通訳がいないと、答えられなかった。

Aすぐに、後ろにある洗面台に移ります。仰向けにされて、洗います。

B鋏でカットされます。椅子は簡単なもの。

C髪を乾かした後、生え際はバリカンで刈上げ。

D神妙にじっとしています。ここは日本と同じ。

E刈った後、かみそりで剃ってくれます。この時、石鹸なし、ゴリゴリと音がします。

Fもう一回、別のところで洗髪。

G乾燥させて、仕上げ

Hはげているところが見えないようにして、ハイ出来上り。所要時間20分位

I料金10元(約150円)を払って外へ。記念撮影。お勧めします。

A仰向けで洗髪1回目

 

B鋏でカット(右手に鋏)

 

Cバリカンで刈上げ。

 

D神妙にじっと

 

E刈った後、かみそりで剃る

 

Fもう一回洗髪

 

G乾燥させて、仕上げ

 

Hハイ出来上り。

 

I記念撮影

 



  上海・二宮尊徳研究センター開設        07'5/7
  
  2007.3.25、中国華東・二宮尊徳研究センターが、上海にある華東理工大学に設立されました。これは、中国における二宮尊徳の研究センターとしては、大連民族学院にある中国東北・二宮尊徳研究センターに続く2番目のもので、二宮尊徳研究が着実に拡大していることを示す動きといってもいいと思います。

  この開所式のために、日本から29名からなる代表団が編成され、この開所式典を記念して行われた講演会「尊徳思想と調和社会建設」での討議に参加しました。

中国では、経済発展に伴う格差問題は、日本以上に深刻で、この問題への取り組みは、政府の重要政策になっています。経済のみで人々は幸福を確保できるかということは、次第に疑問視されて来ているようです。

        研究センター開所式参加者

     華東理工大学 二宮尊徳玄孫・二宮精三氏と


 見沼代用水のこと

   ‘06年6月28日歴史文化の散歩の終着点にある用水路(佐藤俊郎氏から)

 今回の「散歩の会」の終点となる古千谷橋交差点は、かってこの地域の農地を潤していた見沼代用水の水路に架かっていた橋のあったところです。このあたりでは、現在、見沼代用水の受益農地の転用により用水の必要がなくなり、水路は廃止され、敷地は緑地化されて古千谷橋のあった地点から上流側(足立区内)は見沼親水公園となって地域の人々に親しまれています。

見沼代用水

 見沼代用水は、関東平野の中央、いわゆる埼玉平野の南部を中心とした農地に潅漑する日本有数の大用水で、その区域は最盛期約13,000haにもわたっていました。埼玉平野には、このほか葛西用水、羽生領用水などという大用水があり、こうした用水が埼玉平野のほとんどの面積を潅漑をしていますが、この三用水はいずれも利根川からの取水となっています。それぞれの用水には、用水確保のため数百年にもわたる先人の開発の労苦とその後の関係農家のたゆみない努力による維持管理の歴史があります。1964年の東京オリンピックを契機とする首都圏の上水道用水不足に対応するため、現在の利根大堰が設けられ、併せてこれらの農業用水取水口を合口して一括取水する工事が行われました。取水後の農業用水は、これまでどおり各々の地区の土地改良区という農家の組織が維持管理をしています。(見沼代用水の維持管理は見沼土地改良区)

利根川

 利根川はいうまでもなく日本最大の河川で、群馬県の山中から関東平野北辺の茨城県古河市の先で渡良瀬川と合流後、さらに銚子市に向かって東流しています。しかし、この流路がきまったのは、江戸時代中期の1654年で、水害から江戸を守ったり、水運のための河道利用等を目的とする、いわゆる利根川の東遷工事によるものです。それまで利根川は、埼玉平野をほぼ南流し、平野一帯で利根川・荒川などが合流・派流を繰り返して乱流し、いたるところで水害と干ばつに襲われるという歴史がありました。

 乱流した河の跡に残された溜井(沼のこと。代表的なものが見沼など)や付近の小河川に頼っていた不安定な用水によるコメ野菜などの農業生産から、膨張する江戸への食糧供給増のために、消費地に近いこの地域の開発に着目した幕府は、利根川の東遷とともにこれまで用水源としていた溜井の干拓、利根川からの用水引き入れ(1728年)といった一連の事業を行いました。(用水源として見沼に代わるという意味で「見沼代用水」といった。)

そして、いま

 江戸中期に一応の原型が完成し、その後、農地も用水も幾多の改良、開発を重ねてきたことにより、かって埼玉県と東京都の一部、足立区にまでひろがる農地に潅漑する役目をもったこの用水も、近年の急激な社会情勢の変化をうけて、農地はいまでは約9,000ha程度にまで激減し、東京都の区域に用水受益地がなくなりました。

 見沼代用水の水路の一部には、サイフォンの原理を応用した河川・水路の立体交差や、閘門式の運河が同じ方式のパナマ運河より150年も前に設けられ、江戸と生産地の物流に貢献した遺構などもあり、こうした文化遺産が人々の記憶から日々遠くなっていきます。




二宮尊徳について

われわれは身近なものを、軽視しがちである。身近なものとして、最も近いのは自分であるが、それを本当に軽視している。かつて自分より身近な存在だった父母についても、その時、まったく軽視していたものだ。

しかし、われわれはこの身近なものから最も多くの影響を受けている。そんなことに気づく年齢になってきた。その父母の影響とはなにであるか?

たまたま、農学を勉強することになり、その影響から二宮尊徳を知るにつれて、父母の考え方、生き方が尊徳に大きく影響されていることがわかってきた。

そこで、少し二宮尊徳について、紹介してみたい。もし関心をもたれるようであれば、下記のURLを見てください。

 二宮尊徳のレポート

なお、この記事は、全国土地改良事業団体連合換地センター発行の「土地改良換地」No. 127,2006.3,で紹介したものを、一部修正したものです。


自分達史について

歴史は誰によって作られるのか?
それは、その時に生存した人々によって、結び合わされ、綴られるものだと思います。  そして、それは1つの大きな有機体となって、時間の中を移動しています。

この歴史は、従来、王侯、政治家、天才などによる絵模様として、後世の人が語るものでした。それは、彼らの情報が保存され、それが繋がりとして構成できたためです。

現在は、記憶媒体が人々に行き渡り、人々の記録が保存されやすくなっています。
こうして、際立った人ではない庶民が情報を残す機会が増えています。
そして、かなり多くの人が、自分の歴史を残しつつあります。将来は、こうした情報から、今までにない庶民からの絵模様を見ることもできるでしょう。 

が、その絵模様を、早く見たいとも思います。

そのため、自分の人生の一部がどのように他の人々と関わりあっているのか?
視野を広げて、情報を記録してはどうかと考えてみました。
こうした個人と他の人々との係わり合いを視点に入れた人生の記録を「自分史」という代わりに「自分達史」といってみたい、と思いました。

こうした横断的な試みは、作家の何人かは、試みています。
たとえば、19世紀フランスの、バルザックは、その小説の登場人物を、個別に取り上げ、別の小説での主人公として描写し、「人間喜劇」と呼ばれるものを構築しています。また、大西巨人は「神聖喜劇」の中で、そこに出てくる重要項目について、詳しく叙述し、人の動きが多くの過去、現在の構造の中で脈打っていることを階層的に示しています。

しかし現在では、インターネットの記述の項目に、リンクを張ることで、項目が多くの繋がりの中で位置づけできるようになっています。

こうした、インフラの整備進む中で、我々10期の人々の間での重なり合いを意識した記録を徐々に構成できたら! と、「自分達史」という耳慣れない造語を入れてみました。

     

ナイジェリア紀行

          

コングレス・ホテル4階からの風景舗装してある道路。
一歩入ると、ム舗装。
左の道路は水溜りあり。ここを通って、ホテルに入る。

交通量は多い。バイクが多い。

歩いている人は少ない。







「ふだん記」への参加

What’s New?
 下荒地勝治さんの「ふだん記」への参加

 橋本義夫著「誰にも書ける文章」―講談社現代新書―を読み、庶民が主人公の歴史こそが重要だという考えを知り、そのためには、庶民が記録をしていかなくてはならない―それは自分の記録を残しなさい−ということから、「ふだん記」の運動に関心をもっています。

その全国大会が、1020(日曜日)、八王子市の福祉会館で例年のように、「逢う日、話す日」として開催されました。その時の写真を紹介します。