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投稿   夏期キャンプ早天礼拝 声明とグレゴリオ聖歌


       
浪花 だより        
                             
21.電車内
                             
20.赤とんぼ荘    19.竜舌蘭
                             
18.中国の旅  17. 鈴木商店 16.時計
                             
15船ヶ淵(とうせんヶふち)について
                             
14.自転車   13バブルの塔(バベルの塔?) 
                  12.庭木の剪定     11.紹興のこと 

                             
].冤罪       \.環境破壊  
                             
[.2007年元旦  Z.中国・四姑娘  
                             Y.小鳥の死      X(06'1.1)
                              W(05'12.8) V(04'7.4) UT. (01'9.25)



投稿 夏期キャンプ早天礼拝        10'8/23
         (マタイによる福音書
6章9〜11節

                   2010年8月13〜15日 池田五月山教会JCキャンプ

マタイによる福音書6章9〜11節

だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。私たちに必要な糧を今日与えてください。私たちの負い目を許してください、わたしたちも自分に負い目のある人を許しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

「私たちに必要な糧を今日与えてください」というこの箇所について、お話したいと思います。
皆さんが毎週教会でこのところをお祈りする時には

「わたしたちに、今日もこの日のかてをお与えください。」といのりますね。

聖書が書かれた時代、ガリラヤ地方の人々は、ローマという大きな国に支配されて、人々は大変困っていました。この日のかてというのは、その日に食べるものということで、今晩はビフテキにしてくださいとか、ハンバーグにしてくださいというのではなく、最低限のパンを与えてくださいというお祈りでした。

このような生活は大昔のことだけでしょうか?

私が皆さんよりも小さい3歳ぐらいの時です。家族そろってお隣の国の中国の東北地方にあった満州というところに居ました。そのころ日本はアメリカや中国やイギリスと戦争をしていました。日本は戦争に負けて、私の家族は満州から日本に帰ることになりましたのですが、食べるものがなく私のお母さんも弟も満州で亡くなってしまいました。
私とお姉さんはお父さんとおばあさんに連れられて、やっと日本に帰ってきましたが、お姉さんは、すぐに亡くなってしまいました。それは食べるものがなかったからです。
食べるものがなくてなる病気を栄養失調といいますが、栄養失調になると、髪の毛が束になってバサット抜けます。3歳の私は何にも分らずに、お姉ちゃんそんなに髪の毛をひっぱたらあかんでと 言ったことを今でも覚えております。

私たちはご飯を食べる前に感謝のお祈りをしますね! 

今日食べるご飯それは神様が与えてくださっています。私たちはご飯を食べないとどうなりますか?
そう死んでしまいますね。
私たちは三度、三度ご飯を食べます。
そのたび毎に このご飯を、そして私たちの命は神様が与えてくださったものであることを思い出し、
心から感謝していただくようにしましょうね。

                            K Shindo

投稿  声明とグレゴリオ聖歌

T あるとき何気なくテレビを見ていたとき、永平寺の僧たちの生活ぶりが紹介されていました。その中で僧たちがいっせいに声明を唱えるシーンがあり、その迫力に感じ入りました。テレビの画面ですらそのような迫力を持っているのなら、現場で接すればどれだけ霊的な力を持っているだろうかと、人の声の持つ力を感じました。振り返って私達は毎日曜日教会で讃美をいたしますが、あのような迫力を持って歌っているだろうか。讃美歌21には、何曲かはグレゴリオ聖歌からの曲があるようですが、グレゴリオ聖歌の歴史を返り見て、キリスト教世界での讃美に言及してみたいと思います。

U  世界の諸民族の宗教儀礼をみわたす時、そこに「人間の声」と「楽器の音」が常に介在しており、特に声はさまざまの様態で、儀礼の中に取り込まれ、その儀礼を時間的に推し進める主役を演じています。イスラム教では、礼拝の呼集係が、イスラム寺院の尖塔に登って、その高い所からきれいな透き通った声で呼びかける「アザーン」があり、キリスト教会の鐘と同じ働きをしますが、楽器類を用いず「人の声」で礼拝への呼びかけがなされます。
次に仏教儀礼でも楽器は使われますが、旋律楽器は含まれず音声に依存する傾向が著しく、その音声部分を構成する代表的なものが声明であり、呂(りょ)律(りつ)中曲(ちゅうきょく)という音階、施法に関する概念があり、宮(きゅう)商(しょう)角(かく)徴(ち)羽(う)という音階構成の五音が有る。
ユダヤ教の場合も声は常にそのすべての礼拝形態の中心的役割を担ってきました。
旧約の時代には、特にエルサレムの神殿の儀礼で、合唱に混じって楽器の音が鳴り響いていた事がわかっています。それらの楽器の種類は管、弦、打楽器とさまざまです。弦鳴楽器としてはリラであり、特徴的なのはその弦を弓でひくのではなく、指ではじく撥弦楽器で、詩人であり武将であるダビデは、リラの一種のキノールを演奏しサウル王のうつ病を癒したと旧約の記事にもあります。今日の音楽療法の走りではないでしょうか。
撥弦楽器は音が長く伸び旋律をかなでる弓で弾く弦楽器より、声のアクセントを手助けし、祈りと讃歌のために発せられる声を妨げず、宗教儀礼において非常に有効であります。
余談になりますが、オルガン一辺倒の日本の教会にギターによる讃美か伴奏は一考に値するのではないでしょうか。

前置きが長くなりましたが、音楽、音声が礼拝儀式に重要な役割を担っている事をふまえ、中世のカトリック教会においてのグレゴリオ聖歌の成立から、果たした役割などについて、考察してみたいと思います。

  グレゴリオ聖歌の起源は三千年の歴史をもっているといっても過言では有りません。それは旧約時代の礼拝、賛美、祈願と歌の継続であるからです。キリスト教はギリシャ人の世界、ローマ人の世界の音楽を取り入れて豊かになっていったと思われます。今日まで歌われているグレゴリオ聖歌はこのような古代の音楽の種々の要素を統合したものです。音楽は音を使って私達の霊魂の中に動く思いと感情とを表現するのに役立つ言語であります、すなわち音楽は一つの言葉であります。しかし普通の言葉より力強く色調の高い言葉であります。全ての民族が、全ての時代において単なる言葉を歌に変え、あるいは少なくとも、その助けを借りて神にふさわしい賛美を捧げようとしています。旧約聖書で詩篇は祈りであり、典礼の聖歌であり、エルサレムの神殿では、早くから専属の歌手がいて、これを歌っていました。ヤーウェの祝祭はおどりと詩篇の合唱とを伴っていたし、いけにえを捧げる時は詩篇が歌われていました。

詩篇はその後新約の祈りとなります。キリストが十字架上で叫ばれた最後の言葉「主よわが魂をみ手に任せ奉る」というのも詩篇31−6にある祈りで、キリストは詩篇の祈りを唱えて息を引き取られたという事になります。そしてその祈りは今、終課で歌われているグレゴリオ聖歌そのものになっています。

 六世紀の後半聖ベネディクトはモンテ・カシーノに修道院を建て「聖ベネディクトの戒律」を制定しましたが、その中で典礼聖歌が詳細に定められています。その後戒律はいろいろな形で国や時代に適応させ、トラピストやベネディクトの修道院では、その聖務日課は「修道院の交唱集」「賛歌集」「修道院の詩篇集」などの聖歌集に収められ今日まで唱えられています。

グレゴリオという名は七世紀ローマ・カトリック教会の教皇聖グレゴリウス一世に由来しており、彼が纏め上げたものをグレゴリオ聖歌という。

既に述べてきましたが、グレゴリオ聖歌の大部分は聖書の言葉です。最初は聖書を修道士や司祭が読み上げる事から始まり、それに節がついて、聖書を「唱え」始めたのが、グレゴリオ聖歌の原型となります。故にグレゴリオ聖歌は「祈りの言葉」であって「音楽」ではないという意見もありますが、音楽的に分析しますと、これらの旋律や音は人間の耳にとって、ストレスのない自然な音「純正率」になっております。

グレゴリオ聖歌は、現在の記譜法の基礎になったといわれています。初めは修道士たちの口承によって伝えられていましたが、年をへるにつれて、どうしても記憶に頼る解釈には微妙なずれが生じます、間違いを防ぐため修道院に1〜2冊しかなかった貴重な羊皮紙の聖書に記号を使って歌い方を記すようになりました。それらの書付は古ネウマと呼ばれ、これがまさに現代の五線譜の先祖になります。
このネウマ譜には二種類あり、ソレム修道院他フランス系のネウマと、ザンクトガレン、アインジーデルン他ドイツ系のネウマがあります。しかしその両方はほとんど解釈の違いは有りません。車も鉄道もなかった千年前に高いアルプスをはさんでも尚寸分たがわず伝えられた聖歌は、修道士達の信仰による口承の確かさと、熱心さによるところ大ではないでしょうか。

記譜法の確立によって音階というものが出来たわけですが、その音階というものは、人間の耳に合わせたのではなく、科学的に一オクターブを12個に分けて、すべての調を平均的に演奏するために調整されたもので、これを「平均率」と言いますが、バッハ以降の音楽はほとんどが平均率で、平均率は純正率の音階に比べて全ての音が微妙にずれているために人間の耳にはストレスになってしまうようです。

V 東洋に声明、西洋にグレゴリアンありきで、グレゴリオ聖歌は、ヨーロッパ音楽の基礎を築いたといわれていますが、グレゴリオ聖歌を芸術、音楽として捉えるのではなく、グレゴリオ聖歌は神の言葉を伝える手段の一つであり、敬虔な修道士達が特別に訓練を受け、長い歴史の中懸命に「神の言葉」を一字一句として漏らさぬように大切に伝えてきた賜物である。
 その成立過程を見ても分るように、先に音が出来たのではなく、まず「神の言葉」の聖書が存在したのである。グレゴリオ聖歌は信仰心という神に対する畏敬の念をもって唱えられねば、どれだけ解釈し、うまく歌ったとしても、それはただのやかましい音になってしまう。肝心なのは歌唱の方法ではなく、まさに「心からの祈り」である。          
                                       以上

[参考文献]

「儀礼と音楽」       水野信男 責任編集  東京書籍
     「グレゴリオ聖歌のこころ」 岳野慶作       創風社出版
     「グレゴリオ聖歌」      ジャン・ド・ヴァロワ 白水社
     インターネット

     http://jpn.ccc.eu.int/japanese/ourope-mag/1999_0102/buttons18.htm


浪花だより 21.電車内                12'2/4

1月20日久しぶりに上京することになり、新大阪駅に向うべく阪急池田駅から乗車し、吊り輪を持って立っていると、前に座っている40歳代の男性が、左右どちらかに席をずらせば、もう一人座れるのに両側を空けたまま、メールかゲームか知らないが携帯をいじくっている人がいました。

西中島南方で下車し新大阪駅まで歩きましたが、途中パチンコ屋が新装開店の看板を出しており、その前に朝早くから40〜50名の人が並んでいるのに出くわしました。

東京での用事をすまし、帰宅後朝食時に毎日新聞の朝刊(23日)に目を通しておりましたが、余禄に韓国の大学教授・李 根元(イ クンウオン)氏が次のように書いておられます。「自国の文化を愛し、他国の文化に偏見を抱くな、文化を愛し合えば誤解も解け、心と心の交流ができる」と教授の指導理念を語っておられます。

その教授の日本人論に「ここ何年かで日本が劣化した印象がある」と。たとえば

以前は乗客の多くが本を読んでいたが、その姿が携帯、スマホの天下に様変わりしたのを教授は惜しんでおられ、電車内の光景でも、「周りに気を使わない自己中心的な人が増えたようだ」と指摘されています。

小生が接した車内の人、パチンコ屋に並ぶ人、日本人論といえば大げさかもしれませんが、何かおかしい感じがしたのでメモって見ました。

       2012年2月1日               (筆)進藤 和彦



浪花だより 20.赤とんぼ荘

小生、趣味で山登りを楽しんでおり、社会人の山岳会KONK(北大阪のぼろう会)に所属し50年が経過いたしました。

KONKは、1981年の国際障害者年に日本勤労者山岳連盟主催の立山障害者登山にサポータとして参加いたしましたが、以降KONKは会独自で、春は日帰りのハイキング、秋はバスをチャーターしての一泊どまりで、年2回障害者の方たちとの交流ハイクを実施しております。

 昨年(2010年)の春は生憎の雨模様でしたが、浜寺公園でバーべキュウに舌鼓を打ち、その後バラ園で美しい花を愛でる一日を過ごしました。

秋には、10月23日(土)総勢52名梅田よりバスに乗り、播磨の小京都と呼ばれる龍野に向い「赤とんぼ荘」に一泊しました。宴会では会員のハーモニカに合わせ、全員で「夕焼け小焼けの赤とんぼ〜〜〜」を歌い、心温まるひと時をすごし、翌日24日には龍野城址、醤油資料館などを巡り、楽しい二日間の旅を終え、無事帰阪いたしました。
        
                          (記 進藤和彦)

  


 浪花だより 19.  竜舌蘭

 小生毎朝5時半に自宅を出て、箕面の滝まで自転車を漕ぎます。
6時半には、五月山公園で4〜5名の方とラジオ体操をし、帰宅後のシャワーを楽しんでおりますが、体操のメンバーのお一人から、五月山の市民体育館の前のバス停のすぐ上に50年に一度しか開花しない竜舌蘭の花が咲いていると聞き、デジカメを片手に出かけてみました。

 竜舌蘭を辞書で引いて見ますと、ヒガンバナ科の常緑多年草。

メキシコ原産。葉は長さ1〜2m多肉で緑、先端に刺がある。稀に4〜8mの巨大な花茎を出し、多数の淡黄色の花をつける。結実して枯死。観賞用。葉の繊維は綱などとし、汁から酒(テキラ)を作る。万年蘭。アガペ。           K・Shindo

  

(下図 10’9月13日撮影)

  




浪花だより 18. 中国の旅                   
09'7/31

小生、3歳まで旧満州の牡丹江に住んでおりました。28年前に生前の親父と訪れたことがありますが、今回は中国語の出来る娘に連れられ、再び訪問いたしました。28年前人々は全員人民服で、駅前には旧大和ホテルなどもあり、昔の面影が残っておりましたが、今回はすっかり街の様子は変わってしまっており、高層ビルの立ち並ぶ大都会になっておりました。
 牡丹江に行く前に長春(旧満州国の首都で、当時は新京と呼ばれていました)に行き、東本願寺に立ち寄りました。といいますのは引き揚げの途中、ここの境内で、一緒にやっと日本にたどり着いたのに、栄養失調でなくなった姉が、ここでよく手毬歌を歌っていたと言っていた父親の言葉を思い出したからです。
私たちだけでは、到底探し出すことは出来なかったと思いますが、娘の長年の知り合いの張さんが長春に居られ、彼の自家用車ワーゲンでたどり着いたというわけです。現在は中学校の校庭の隅にあり、学校の職員(教師だったかも)に依頼して、校内に入らせてもらいました。引き揚げ当時何日かここで過ごしたと思いますが、お寺には地下室があり、そこには人魂がでるといわれており、真っ暗なそこに肝試しで入ったことを思い出しました。先ほどの職員に地下室はあるのですかと尋ねると、あるとのこと。 

  学校の校庭の隅にある東本願寺       引率者の娘と

7月3日に関空を立ち二週間、北京、長春、牡丹江、その他各都市を回りましたが、それぞれの街で、バスや地下鉄を利用した時、乗車して小生が手すりを持つとすぐに、前に座っていた若者が立ち、席を替わってくれました。そのような経験が一度ならず四回もあり、阪急電車の中での若者の態度、足を投げ出し、だらしない座り方、すこし詰めればもう一人座れるのに両脇を開けたままゆったりと座っている人、堂々と車内で化粧する女性などなど、彼我の差を強く感じた次第です。少し大げさですが日本の学校あるいは家庭の教育が間違っているのではと考えさせられました。 2009/07/29




浪花だより 17.   鈴木商店            09'1/20

小生、リタイヤして6年になりますが、現役時代は環境音楽「MUZAK」を、職場に提供する仕事に携わっておりました。神戸製鋼所もお得意さまで、真っ赤に焼けたレール状の鋼材が、ローラーの間を通るごとに細い線材に加工されて行く線材工場のコントロール室に、緊張を強いられる職場の方たちの疲労軽減に少しでも役立てばと、環境音楽を15分流しては15分休止するという断続演奏を提案し受け入れられました。

今 鈴木商店をテーマにした小説、「お家さん」を読んでおりますが、
たまたま1月18日の朝観たNHKのTVで、阪神大震災の時、神戸製鋼所の高炉の被災と再建の話をやっておりました。話の内容は、神鋼しか製造できない自動車のエンジン部分に使用するばねの材料の鋼材が作れなくなり、自動車メーカーに迷惑をかけないために、その鋼材の製造にかかわるノウハウを、他の製鉄会社に教えて、自動車メーカーに迷惑をかけずに済んだという内容でした。
神戸製鋼所の灘浜工場に少しでも関わらせていただいた者として、鈴木商店の経営の精神が、平成の今も脈々と流れているのを、感じさせられうれしく思いました。



浪花だより 16. 時計                08'9/2

 以前、浪花だより14で、毎朝のトレーニングはジョギングをやめ、自転車を漕いでおりますと書きましたが、少し負荷をかけようと思い、最近は自宅のある桃園から箕面の滝までを往復しております。帰宅後シャワーを使い朝食を済ませ、NHKの朝の連続ドラマを見ております。かなり前になりますが、連続ドラマのあと「夜は胸きゅん」という番組がありました。ある子連れで離婚した女性が、世話になった大家さんの家の柱時計の時刻を告げるボーン・ボーンと鳴る音に自分の人生を振り返るという話であったと思います。
 昔のゼンマイ式の柱時計には、小生も亡くなった祖母の思い出が重なります。戦後満州から引き上げてきて住んだ川西市の借家には、竈があり風呂も薪で焚いておりました。その薪を祖母と二人で花屋敷の山に、御伽噺ではありませんが、枯れ木を集めに出かけたことをよく覚えております。その祖母が、柱に掛けたゼンマイ式の時計の螺子を、踏み台に乗って巻いていたことを思い出しました。
 最近は電池で動き、螺子巻き式などはほとんど見かけません、また電波時計など、まったく時間の狂わないものもあり、それはそれで良いのですが、小生は祖母の思いでも重なり、自分の部屋には昔ながらの柱時計を愛用しております。(この時計は、池田五月山教会の会員の年配のご婦人に、ゼンマイ式の時計が好きなんですと、何気なく話した時に、それでは一つ差し上げましょうと言われて、いただいたAICHITOKEIと書かれた年代ものです)この時計は1週間に1度螺子を巻くのですが、振り子の長さを少し調整するだけで、正確に時刻を告げてくれ、1秒ごとにカッチン・カッチンと心臓の鼓動のように聞こえ、温かみを感じさせてくれます。
 ついでにもう一つ時計の思い出ですが、40年ほど前に亡くなった親父がスイスに旅行に行く時、土産は何がいいかと聞いてくれましたので、懐中時計を頼みました。買ってきてくれたのは金縁のずっしりと重い螺子式のものです。時々オーバーホールに出すのですが、安物の時計が一個買えるぐらいの値段がしますが、今も愛用しております。
 最後にもう一つ、趣味の登山用にデジタルの腕時計を購入いたしました。
之はなかなか使いこなせませんが、時刻は勿論のこと、高度計、気圧計、方位、温度、曜日、など全てが表示されます。小生が知らないだけで機能はまだあるかもしれません。

 くだくだと時計について申し上げましたが、ここまでお読みいただき有難うございました。


浪花だより 15.  船ヶ淵(とうせんヶふち)について                08'8/13

 猪名川中橋の10mほど上流の左岸に「船ヶ淵(とうせんヶふち)」の石碑が建てられています。(旧城山の校舎からまっすぐ西に向かってゆけば中橋です)写真添付。

 応仁天皇37年に知使(ちのお)加使(かのお)が天皇の命によって、呉の国に渡り、織姫、縫姫をもとめて帰国しました。当時は海が大きく入り込んでいて、現在大阪城のある上町台地から、大小の島々が見える海原であったといわれていますが、瀬戸内海を通り、武庫の浦まで来た船が池田までたどり着いたと考えられないことではありません。
二人の姫は
(あやはとり)(くれはとり)といいますが、中国から渡ってきた時海上の護身のために身に付けていた、「薬師如来像」が唐船ヶ淵に沈められていたのを、僧 行基が託宣を受けて引揚、これを本尊として祀ったのが呉服橋東詰めにある「寿命寺」で、われら10期生の国語と習字の教師、中谷先生の居られたところです。

 現在、中国の蘇州市は呉の国が都を築いたところですが、池田市と蘇州市は姉妹都市の関係で、昨年卒業50周年の同窓会の後、都合のつく人、数名で訪れた水月公園にその碑があります。また松浦さんの絵手紙の展覧会も蘇州市で開催されました。

 もう一つのんべえの筆者から、だいぶ前になりますが、池田の地酒「呉春」は地酒品評会で一位になりました。それから現在の為奈の湊は添付した写真のように、阪神高速道路の大きなつり橋「ビッグ・ハープ」が覆いかぶさっています。

「大海に 嵐な吹きそ しながどり

        為奈の湊に 船はつるまで」   万葉集 第7巻

            * しながどり  猪名川の枕詞
          * 為奈の湊   船ヶ淵(とうせんヶふち)

                参考文献   中岡 嘉宏 氏  「池田歴史探訪」

 



 
浪花 だより  14.自転車                    08'6/28

ある日、テレビで永平寺の紹介があり、多くの僧たちの腹の底から唱える声明の迫力に驚いたことがありました。小生東京での単身赴任時代、毎日新聞フルートクラブでフルートの手ほどきを受け、リタイヤした今も梅田でレッスンを受けておりますが、先生は唇ではなく腹で吹けといわれます。又、山登りのトレーニングのための早朝のジョギングも三十五年になりますが、右膝に痛みを覚え、中学時代に同窓であった整形外科医に診てもらうと、軟骨が減っているので、ジョグも登山もやめろとのこと。しかし最近下っ腹に力を入れて走りますと、膝の痛みを感じなくなり、気を良くしております。何をするにも、腹を据えてやらねばと感じる今日この頃です。

と偉そうに08年の年賀状に書きましたが、最近膝だけでなく腰にも痛みを覚え、65歳の年齢を感じておりますが、膝にショックを与えるジョギングはやめ、自転車を毎朝1時間ほど漕ぎ、6時半五月山公園で、小生より年配の方たちとラジオ体操をし、帰宅後のシャワーを楽しんでおります。



浪花 だより  13. バブルの塔(バベルの塔?)          08'3/10

小生リタイヤしてもう5年が経過いたしましたが、1965年(昭和40年)入社以来ずっと今も宮崎歯科でお世話になっています。(勤めていた会社は大阪市北区の新ダイビルの2階にあり、宮崎歯科は地下1階にあります。)
創業当時の総務部長が、「わが社はソフトを扱う企業なので、大阪で一番立派なビルに入居しよう」と決断し初任給が2万円ほどの時、そして売り上げが0の時に、大阪で一番家賃の高い新ダイビルに200坪(月額家賃200万円)のスペースを確保した次第です。

 
先日奥歯に少し痛みを感じるので久しぶりに新ダイビルに行き、同窓会の話をしながら、彼に治療してもらったのですが、そのときの話で、一年後にこの新ダイビルは取り壊され、高層ビルに建て替えられるとのこと。
 
治療を終え梅田駅に向かいながら、宮大工の棟梁であられ法隆寺を守ってこられた西岡常一氏の本を思いだしました。皆さんご存知のように法隆寺は一千年の歴史がありますが、一千年かかって育った檜を使って建てた建物は一千年の寿命があるとのことで、鉄筋コンクリートの建物はせいぜい百年か良くもっても二百年だろうとのこと。

  話は変わりますが、旧約聖書の創世記11章にバベルの塔の記事があります。少し引用いたしますと、3節 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代りにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。4節 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。後は省略いたしますが、神はそれを良しとされず、人間はお互いの言葉が通じなくなったと記されています。天まで届く塔は人間の傲慢だと思われたのではないでしょうか。

  広い廊下に広いエレベータホールゆとりと品格のある新ダイビル、40年間通った懐かしさもありますが、効率だけを求めて高層ビルに建て替えることが、果たして良いことなのか、ビルの経営に携わらない第三者の戯言と聞き流してください。



 
浪花 だより  12.庭木の剪定          07'10/19

  小生、仕事が現役の時は庭の手入れを、親父の代から、細川(池田市の細川は植木の産地で有名)の植木屋さんに頼んでいたのですが、毎年30万円ほどかかっていました。しみったれた話になりますが、年金生活を始めるようになって、よしそれでは自分でやってやれと、剪定を始めたわけです。松の木は特に手間がかかります。

  軍手の人差し指と親指の先を切り取り、腕には事務用品の腕カバーをはめ松の葉がチクチク刺さらないようにし、取り掛かります。勢いよく伸びた古い枝を切り、その下から芽を出した、新しい枝を残すわけですが、疲れてきてちょっと気を抜いたり、乱暴に扱ったりしますと、残さなければならない新しい枝も切ってしまい、後の祭りです。会社での人間関係でも同じではないでしょうか、上司の不用意な一言で、伸ばさなくてはならない部下のやる気をなくさせてしまい、いい枝振りの仕事ができなくなります。お隣は、市のシルバーセンターに依頼し剪定に心得のある人を派遣してもらっているようですが、そこのご主人曰く、勿論お世辞ですが、「進藤さん、うちのより上手いですな」との事。女房に俺に30万円払えやといいますと、せせら笑っていました。

  脚立の届かない楠のような背の高い木の場合は、山登りの用具をフルに活用します。小生ロッククライミングはやりませんが、一応道具は持っていますので、ゼルブスト(岩登りの時体に取り付け、それをザイルに繋いで転落した時に確保するもの)を身につけ、ザイルを木の上部の枝に固定し、万が一墜落した時には、地上に激突しないようにしております。と言うわけで、楽しみながら少しづつやっております。



  
浪花だより 11紹興のこと       (07'6.22) 

  浪花だよりZ.にも書きましたが、昨年夏上海に居た娘を訪ね、四川省の山四姑娘から帰ってきてから、長年の夢であった紹興の町で老酒の地酒を飲みたいと思い、上海から、二階建ての新空調軟座特快車(乗車賃は一人64元)に乗り込み紹興へ向かいました。紹興駅に着き、タクシーでまず、蘭亭へ向かいましたが、ここは王義之が353年「蘭亭序」を書いたところで、記念に拓本を購入いたしました。パソコンで王義之の記事をコピーしましたのでご覧下さい。

  念願の紹興酒は魯迅博物館の近くのレストランで、夕食時にいただき、大満足の一日でした。 

書聖王義之

307?〜365?(西晋,永嘉1?〜東晋,興寧3?)中国,東晋の書家・文人。字は逸少。琅邪臨沂(山東省臨沂市)の王氏の出身。王曠の子。宰相王導の従子。はじめ秘書郎となり,寧遠将軍・江州刺史をへて,351年に右軍将軍・会稽内史となったが,4年で官を辞した。この官名から王右軍とも呼ばれる。当時の知識人の風潮でもあるように,彼も早くから隠遁の志を抱いており,官を辞したのちも都の建康には帰らず,会稽郡に永住して59歳で卒したという。その間,353年には当時の名士である謝安や孫綽らと山陰の名勝蘭亭(浙江省紹興県)に会して詩を賦し,みずからその序文「蘭亭序」をつくった。幼少より書をよくし,漢魏以来の諸家の書を集大成して芸術にまで高めた。隷書をはじめ,楷・行・草にもわたって古今書家の模範とされる。日本でも奈良・平安時代の書は王羲之を源流としている。楷書の「楽毅論」「黄庭経」,行書の「蘭亭序」,草書の尺牘を集めた「十七帖」などが著名であるが,真蹟と称すべきものは現存しない。その子の王献之とともに二王と称される。
当時、王羲之の人柄を慕って、全国の名士達が会稽という土地の山陰の蘭亭に40人近くも集まり宴で盛り上がっていたときに書かれたものだと伝えられている。つまり蘭亭で行なわれた詩会の序文ということで蘭亭叙。その時、王羲之は酔っ払っていたまま書いたので、少し大きさなどが不ぞろいの部分もあるが、全体としてはやはり素晴らしい。後で王羲之が何回も同じモノを書いたが最初の作品よりうまいものは書けなかったという伝説がある。
王義之は「書聖」と現代でも慕われている存在である。

列車 王義之の拓本  紹興酒の飲み屋  

  
浪花だより ].冤罪                    2007.4.30

  
先日、3年半も収監されていた人が、刑期を終えて出獄した後で、真犯人が見つかったとのニュースに接し、小生が30年ほど前に経験したことを思い出しましたので、少し記憶をたどってみたいと思います。

 学校を卒業し入社して営業職に就き毎日車を使用しておりましたが、ある日

大阪市北区にある会社の近くで、中ノ島の日本銀行大阪支店の前の堂島川沿いの路上のパーキング場に、車を停めようと空き場所を探すべく、車をバックさせました。堂島川の堤防沿いに100mほどが駐車場になっているのですが、バックさせた距離は20〜30m程あったかもしれません。ちょうどその時若い巡査が来て、一方通行違反だといって、違反切符を切りました。駐車場に車を入れるのにバックして何が悪いのだと文句を言いましたが、次の顧客との約束の時間が気になり、仕方なくサインをしました。

 後日交通裁判所から呼び出しがあり、サインした内容に誤りはないかと糾されましたので、その時の事情を話し、小生に誤りはないことを告げました。そうしたらその簡易裁判の担当者は、声を荒げてお前は自分の侵した罪を認めないつもりかと、居丈高に言いました。その声を聞いて10名ほどいた交通裁判官が、全員小生の周りを取り囲み威圧してきました。小生は自分に誤りはないと確信しておりましたので、駐車場に車を入れるのに、5mのバックなら良くて、20mならだめだという法律など聞いたことはないと反論しました。そんな法律があるなら、文章を見せろと開き直りましたら、以前北海道で同じような事例があったとの事。そんな判例など自動車学校で習ったこともない(小生が免許を取ったのは学生時代で自動車学校など行っていませんでしたが)と反論すると、最終的に今日はお帰り下さいとのことで、一件落着しました、しかし冤罪の恐ろしさをひしひしと感じた次第です。
    

  浪花だより \.環境破壊                     2007.3.2

以前山仲間と京都北山の小野村割岳に千年杉を見に行った帰りに、山道で1m平方の枠を作って地面を見つめている人がおり、その人に何をしているのですかと尋ねたところ、その枠の中に何個のぶなの種があるのか、またその種に発芽能力があるかどうかを調べているとのこと。その人の話では地球温暖化で種の数が減ってきており、その種を割って中を調べてみると、ほとんど発芽能力のない種だとのこと、その山でぶなの幼木を見つけたのはたった1本だけで、それも最近枯れてしまったとのことでした。このまま温暖化が進めば各地のぶな林は、現存のぶなの寿命が尽きれば消滅するだろうとの話しでした。

 小生の所属している山岳会(KONK)は大阪府勤労者山岳連盟のメンバーですが、連盟には自然保護委員会があり、大阪近郊の各山で毎年NO2の測定を続けております、大阪で排出されたNO2が奈良方面に飛ばされ大峰山系の木を枯らしているのではとの推測をしております。写真を添付いたしますが、近畿の最高峰 弥山の山頂の木々の立ち枯れは目を覆うものがあります。そのようなことを考えておりましたところ、先日我らの同期、中川慶子さんの翻訳された本「戦争はいかに地球を破壊するか」を読ませてもらいましたが、核爆弾の実験によるオゾン層の破壊が、環境の破壊に拍車をかけているのではと学ばせてもらいました。

   

  浪花だより [ (07’年元旦)
 
    あけましておめでとうございます。
  小生リタイヤしてもう四年になりますが、東京での単身赴任時代に所属していた毎日新聞フルートクラブが解散するとのことで、昨年末久しぶりに上京し、最後の発表会で 「下手の横笛」 を吹かせてもらいました。会の前日、宿をお願いした友人宅に向かう途中、品川駅で乗り換えて、横浜に向かおうと、駅員にプラットホームの番号を尋ねたとき、「品川行きはどこですか」と聞いてしまいました。「ここが品川ですが」と哀れむような目つきで返事が返ってき、あわてて横浜行きはと尋ねなおしました。
山手線の車内で 「明日の記憶」 を読んでいたところですので、おもわず苦笑してしまいました。
ボケ防止のため、フルートの練習と、古代ギリシャ語の学びは続けてゆきたいと願っております。

  本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
     2007年 元旦


  浪花 だより Z (中国・四姑娘)         2006.12.12

 067月上海にいる娘を訪ね、以前から一度登ってみたいと思っておりました中国 四川省(パンダの生息地があります)にある四姑娘山群の第三峰の二姑娘山(5200m)を目指しました。上海から四川省の首都成都まで二時間東方航空CA4502便で飛び、成都から路線バスで7時間登山口の日隆(リーロン)の村に着き、そこでガイドと馬三頭を雇いました。日本での山行では20kg前後のザックを担ぐのですが、ここでは全部馬の背に乗せ、娘も馬に揺られて小生は空身での、大名旅行の気分でのスタートでした。こんな楽な山行は無いと思っていましたが、標高4000mあたりから、10歩歩いては息を整えまた10歩と、尺取虫のような行動しかできませんでした。4200mのベースキャンプでは先行していたガイド達がテントを張って待っていてくれましたが、夜寝ていても通常55/分の脈拍が、125/分もあり、完全な高山病となりました。翌朝少し楽になったので、テント場から少し登ってみて何とか順応したかと思いましたが、娘はまだ酸素ボンベを放せない状態で、お父さん一人で登ってきたらと言ってくれましたが下山を決定し、山の雄大さ、お花畑の楽しさを満喫して帰ってきました。

 日隆から成都への帰りのバスで、小生と娘が離れ離れの席になり、仕方ないと思っていましたが、運転手が気を利かせ、小生の白髪をみて70歳の老人が通訳と離れて7時間のバス旅行は気の毒だからと乗客に頼んでくれ、二人は運転席のすぐ後ろの一番いい席で帰ることが出来ました。

   

  


   
浪花 だより Y (小鳥の死)                2006.8.17

 
8月16日の朝NHKの連続ドラマを見終わった後、スイッチを切らずに起きましたら、「ちょっと変だぞ日本の自然」という番組で地球温暖化の話をやっておりました。

その番組に興味を持ったのは、去る5月ゴールデンウィークに30年来の山仲間と春山合宿で槍ヶ岳に登ってきましたが、ルートの槍沢の登りで、ヒヨドリくらいの大きさで、ブルーの羽の色も鮮やかな小鳥が雪上に死んでいるのを見つけ、今年の冬は雪が多くてえさが少なかったのかと思っておりましたら、翌日槍小屋からの下りで、今度は雀くらいの多きさの小鳥が二羽雪上に横たわっていました。雪渓上の細いルート上で三羽の小鳥の死に出会いましたが、帰阪し毎日新聞の記事に目を通していると、北海道で約1500羽の雀の死が認められたとのこと。広い槍沢全域でどのくらいの小鳥の死があるのかを想像すると、恐ろしくなったことを思い出しました。



                     
 浪花 だより X                2006年 元旦
    
     新年あけましておめでとうございます。
 小生、趣味の山登りは40年、フルートは15年になります。山の会(KONKと称します)では、比良山の麓にメンバーの1人が所有する山荘によく出かけます。そこにもフルートを持参し時間を見つけては練習するのですが、山の仲間は、「なあお前、俺達は仲間だから我慢するが、隣の小屋には聞こえないようにしろよ」 と親切な忠告をしてくれます。       KONKでは、毎年2回障害者の方達と共にハイキングを楽しんでおり、夜のリクレーションの時間には笛を吹かせてもらっています。
 一昨年のことですが、演奏が終った時、車椅子で参加され、言葉の不自由なYさんが、涙を流して喜んでいたよと、山仲間のKさんが教えてくれました。
忠告をしてくれる山仲間もありがたいですが、Yさんは下手な笛を励ましてくれる、小生の影の先生です。昨年の交流ハイクでは、Yさんに「天使のセレナーデ」をプレゼントいたしました。

  

           浪花 だより W                    05/12/8

 小生、東京での単身赴任の時、毎晩飲み歩いていては、いけないと思い、毎日新聞フルートクラブに入部させていただきフルートの練習を始めましたが、2時間ほどの練習が終わると、パレスサイドビルの地下1階の中華料理屋で飲み会が始まり、楽しくて;普段よりおおく飲む羽目になってしまいました。
普段の練習はマンションでは迷惑だと思い、江戸川の堤防で音を出しておりましたが、ある日、小学4〜5年生ぐらいの女の子が二人寄ってきて、おじさん!どうぞと言って手作りのクッキーをプレゼントしてくれました。

 大阪に帰ってからは、家の近くを流れる猪名川の堤防で音だしをしておりますが、ある日やはり小学生の女の子がやってきて、小生に五百円玉を差し出しました。ありがとうと言ってそれは返し、彼女が知っていそうな曲を演奏いたしました。またある時はやはり小学生の男の子がやってきて、「おっちゃんそれなに」と聞いてきましたので「フルートや」と返事すると「なっぼするの」と値段を聞いてきました。東京と大阪の文化の差といえば大げさですが、面白いコントラストでした。

               浪花 だより  V                         04/7/4


 田中真紀子前外務大臣の娘の離婚に関する週刊誌の記事に関して、大
橋裁判長は訴えを認めて、その週刊誌の発売停止を決定しましたが、即日新聞、テレビ各マスコミは言論の自由の圧迫だとの大合唱でした。
しかし、人のプライバシーを
面白おかしく記事にして金儲けの道具にすることが許されていいものでしょうか。
近のマスコミ全般に言えることですが、売り上げ至上主義で、広告掲載に係わる倫理規定はどうなっているのか疑問に思います。民放各社は昔サラ金と呼ばれ法外な、いや法の限度ぎりぎりの金利とその取立てで弱者を痛めつけた企業の広告を堂々とゴールデンタイムに流しております。
(また、大銀行はほとんど
0に近い金利に胡坐をかき、その何十倍もの金利を取るサラ金、かっこよく消費者金融と呼んでいますが、に出資し傘下におさめています。)
戦後日本で始めて民間放送の電波を出したM社のT元社長は、戦前の言論統制が日本を戦争への道に突き進めたことを省みて、民間放送の必要性を説かれましたが、いまやマスコミ各社は売り上げ第一主義に陥り、The pen is mightier than the sword の精神を悪用しているのではないでしょう
か。
サラ金の広告を止めてから、言論の自由を叫べといいたいところです。



                    
浪花 だより   U (ちょっといい話)

 小生フルートの練習を家でやりますと、女房殿が近所迷惑だと嫌がりますので、家の近くを流れる猪名川の堤防に出かける様にしております。先日もいつもの場所に行きますと、水と餌を入れた発泡チロールの箱に白い子猫が捨てられていました。
 小生の友人で、ご自身が入院中も飼い猫の餌が気になって、医師に退院させてくれと頼んだという非常に猫好きな方がおられますが、「みーちゃん」と呼ばれていたその猫が、最近亡くなり気落ちされていましたので、その方に子猫の話をしましたところ、進藤さん子猫なら後15年は生き延びます、私の方が先に天国に行きますので、かわいそうですが飼うのは諦めますとのこと。
 翌日、同じ場所に行きますと、発泡スチロールの箱は無くなっており、ダンボール紙に綺麗な文字で次のような手紙が貼り付けてありましたので、ご紹介致します。

   『子猫を拾って下さった方へ』

 心から感謝いたします。
あの子達(2匹)は、墓地の横のゴミ箱の所に捨てられていました。
18日の夜か19日の朝に捨てられたのだと思います。
  雨にぬれていましたし、車も危ないので、この場所に移しました。
当方は犬がおりますので、家に連れて帰ることも出来ず、せめて
食事だけはと離乳食を与えておきました。
今朝拾われた事を知りホッとしました。どうぞよろしくお願いします。

 我等の母校池田付属小学校での、多数の児童の殺傷事件など、殺伐としたニュースの多い昨今ほのぼのとした雰囲気をあじあわせてくれた手紙でした。

                浪花 だより T                         01/9/25

 最近五木寛之氏の「大河の一適」という本を読み終えましたが、その中の「人は死ぬのではなく死んでゆくのだ」という章で、脳死問題がとりあげられ、一つの生命のよみがえりが、ひとつの生命の喪失の上に連続して行われることに、なにがしかの心理的な葛藤を感じずにはいられないと述べられています。
人間はただ肉体として生きるだけでなく、記憶の中にもそして人間関係の中にも生きており、その人間が生まれるのに十月十日かかったように、死が完成するのにやはり一年くらいはかかるのではないか、脳死は未完の死ではないかと言っておられます。

 また、「体の中の辺境を大切に」という別の章で、体の中心部は勿論であるが、末端が大切で、氏は毎日自分の足を「今日はくたびれただろう」と声をかけながら洗うとのこと。都市中心、東京中心の日本文化論が横行していますが、国がいきいきと活性化するには、地方と呼ばれる末端が元気でなければ駄目で、体についても心臓や脳のことだけを考えて、手先、足もと、指先など末端の毛細血管のことを忘れては困ると述べられ、記憶は医学的には脳でつかさどると言われているが、手だって足だって記憶をつかさどっているのではないかと考えておられます。

 小生フルートの練習を始めてかれこれ十年になりますが、タファネル&ゴーベールの教則本を復習っております時、アルペジオの楽譜を目で確認して脳につたえ、脳から指に指令を出してからドミソドと音が出るのではなく、指が形を覚えていて、音が出るのではないかと思うことがあります。(大阪弁でええかっこしーといいます)

 脳死からアルペジオまで、話が飛躍しましたが、自分が臓器移植でしか生きられない重い病にかかった時「人は死ぬのではなく死んでゆくのだ」と達観できるかどうか、覚悟は定まっておりませんが、地方都市を大切に、社会の中で手足となって働いておられる人を大切に、アルペジオを覚えてくれている指を大切に、生きて行きたいと思う今日この頃です。