DEATH NOTE 後編

 DEATH NOTEのCMで流れていた歌(主題歌ではない方)が好きだった。
 しかし、映画であの音楽を聴くことはできなかった。

 CM専用の曲だったのだろうか?

 映画からの帰り、うっすらと残るCMの記憶を頼りにCDを購入しようと店に立ち寄った。
 しかし、見つからなかった。

 やはり、タイトルかアーティスト名にレディか何か「」を意味する言葉が入っていたという記憶だけでは見つからない。

 帰宅後、調べると「ブンブンサテライツ」というアーティストの「Girl」という歌だった。

 確かに「少女」を意味する言葉がタイトルだった。
 でも、何故その部分のみ記憶していたのかが自分でもわからん

 しかもアルバムにしか収録されていない曲だと知り、購買意欲が無くなった。
 一曲のためにアルバムを買う気勢はない。

 シングルで出してくれないのだろうか?



 今回も、以前ワシが「施設自体は新しいが、辺鄙な場所にあるため人が少ない」と称した映画館に行ってきた。
 しかし、今回はワシにとっては嫌な奇跡が起こっていた。

 ほぼ満席だったのだ。

 公開日とはいえ、この映画館で満席になる可能性はないと軽くみて、開場20分前にやってきたワシは端の席で映画を見る羽目になった。

 ちくしょう、1週間前の「DEATH NOTE 前編」放映のせいか?
 日●レの目論見、大成功だよ。

 もう少し早く来れば良かったというワシの後悔と共に映画は始まった。



 海砂の寿命延長話(メスであるはずのレムがやけに男前に見える)の後、DEATH NOTEのルールを説明しつつ、前編のダイジェストが表示された。

 原作を知っている人が、この後編で1番注目するのは、
「ノートの所有権を失うとデスノートに関する記憶も失う」
というルール関連だろう。

 しかし最後に分かる事だが、この後編で最も注目するべきルールは、
「二冊以上のデスノートに同じ人間の名前が書かれた場合、
 記してある死亡時刻には関係なく、一番先に書かれたものが優先される」
 コレだろう。

 なるほどと思ったが、この件については感想を最後に記述しようと思う。



 前編で死亡した詩織の葬式が行われていた。
 葬式がとても盛大なのは何故だろう?
 詩織は有力者の娘か何かだったのだろうか?
 それとも、日本では珍しい銃殺だから報道でもされたのだろうか?
 (実際に記者が来ていたし)

 葬式にやってきた月は気落ちした顔をしている。

 オイオイ、本当はへこんでなんかいないだろう。
 落ち込んでいる振りをし続けなければいけないとなると、別の意味で心労になりそうですな。


 詩織の仇をとるという名目で捜査本部に潜入(?)した月。
 本部は施設の地下にあった。

 あれ?
 ワシは本部が施設の最上階付近にあるのかと思っていた。
 でも、地下の方が秘密の捜査本部っぽいか。

 この捜査本部もそうなのだが、後編はやたら原作の施設に雰囲気を似せている。

 捜査本部に初潜入(?)した月に対して、Lが結構唐突にキラではないかという探りをいれてきた。
 こんな事を言われたら普通だと怒りそうだが、月は笑っている。

 う〜む、そう考えると月はこの時点で既に怪しいのかもしれない。

 原作・月はこういう探りに対して微妙に怒る時もあった。
 原作の月の方が、キラと疑われないための演技は上手いのだろう。


 若干の違いはあるが、今回の後編もラストシーン以外の流れはほぼ原作準拠だ。

 最初から海砂が「第2のキラ」を名乗っているという違いはある。
 しかし、キラと会いたいがために騒動を起こしたのは一緒だ。

 ココで原作ではそれなりに活躍していた模木が海砂にあっさりと殺された。

 も、模木っ!

 そして、模木が死ぬ瞬間を目の前で見ていた粧裕が第2のキラに向かって逆上した。
 しかし、ワシは命の尊さを力説する粧裕に若干の違和感を感じた。

 粧裕はこんなに熱い奴だったっけ?

 確かにキラ肯定派ではなかったと思う。
 しかし、それはキラのせいで父親が家に戻って来れないから、死ぬかもしれないから嫌いとか、その程度のものだった気がする。
 その無邪気さが中学生・粧裕の魅力だと思っていたのはワシだけだろうか。

 人として優れているのは間違いなく映画版・粧裕だろう。
 しかし、優れていなくていいので「ぎゃっ」と言う粧裕が見たかった。

 粧裕を迎えに来た月を海砂が見つけ、月がキラである事に気がついた。

 その後、月の家に押しかけて協力したい・彼女にしてほしいと言ってくるのは原作と同じだ。
「月に近づく女の子は殺しちゃうよ」
と言っているのも原作と同じだ。

 前編で殺されていなくても、月の幼馴染の詩織は死亡しているかもしれない。


 海砂との出会いの後、大学で講義を済ませた月の元にLがやってきた。
 無闇に人に顔を見せないために「ひょっとこの面」持参だ。

 「ひょっとこの面」を被るLに映画館内からクスクスと笑い声が聞こえた。

 何故ひょっとこ?
 しかも、別の場面でも被ってたし。
 気に入ったのか?


 原作でニアが被っていた面が普通に見えてくるじゃないか。

 ココも「ひょっとこの面」以外は原作とほぼ一緒だ。

 海砂が会いに来て、Lと顔を合わせた。
 そして、海砂はLの本名を見た。

 海砂を見つけた学生が集まってきて、そのドサクサに紛れておそらくLが海砂の尻を触った。
 …まあ、尻を触るのが目的ではなく携帯電話を失敬するのが目的だとは思うのだけどね。

 そして、その直後に海砂は第2のキラ容疑で捕まった。

 ところで、詩織が亡くなってからさほど時間が経っていない気がするのだが、海砂を彼女と紹介していいのか?
 詩織を失いキラに憤りを感じるから捜査本部に入ったという建前なのに、次の彼女ができるのが早すぎだ。

 海砂が捕まった後も原作とほぼ同じなので特に書くこともない。

 ただ、この辺りは必要以上に原作の再現がされていた気がする。
 子供はこのシーンに恐怖を感じ、大人の1部の方々はピンクな感情を抱くだろう。

 

ワシ半分桃色。


 この後、海砂が所有権を放棄したノートはヨツバ社員のあの人ではなく、原作でいう清楚高田の手に渡った。
 社会人だという事を考慮すると、月よりも年上の設定だ。

 月と面識がないのは、原作の高田さんからするとさぞ不本意だろうな。

 コチラの高田さんはヨツバ社員のあの人の役を兼ねているためか、私欲にデスノートを使った。
 (自分と馬の合わない先輩キャスターを事故死させた)
 そして、その結果捜査本部に目をつけられた。

 ココで監視カメラが役に立つ。

 高田は監視カメラの前でデスノートに名前を記述したため、犯人だと断定されてしまった。
 そして、罠にはめられた。

 その流れも某ヨツバ社員を追い詰める時とほぼ同じだ。
 原作よりも松田が不審者ではあるが、現・キラを追いつめるために松田を利用するのも一緒だ。
 現・キラが確保された後に、月に殺されるのも一緒だ。

 今回の前半部分は3〜7巻の流れそのままだなぁ。

 ただし、原作で月は現・キラを殺害したデスノートの切れ端を飲み込んで処分している。
 (実際に描写されてはいないが、月なら隙を見て実行しているだろう)
 こちらの月は使用した切れ端を時計に収めたままである事が最後にわかる。

 確かに原作の最終巻では1度使用した切れ端を処分せず、裏面を再利用するというエコロジーな使い方をしている。
 しかし、それは単に他に手持ちがなかった可能性がある。

 他にもラストに近づくにつれ、映画版月は原作と比べてボロが色々と出てくる。

 所有権を取り戻し、記憶の回復した月は海砂に埋めたデスノートの場所を教えた。
 掘り返したデスノートで海砂も記憶を取り戻す。

 ここで疑問。

 映画版では原作であったような死神同士でノートを交換して、憑く死神を変更する作業を行っていない。

 つまり、海砂が掘り出したノートは一切海砂が関わっていないノートだ。
 しかし、海砂はしっかり記憶を思い出している。

 原作では自分が関わったノートでないと、記憶は思い出せなかった。

 その辺りは映画化するにあたって変更されたのかもしれない。
 それを実行する理由を説明するのは結構面倒だしね。
 (憑く死神を交換する理由を理解するのに何回も読み直す必要があったワシ)

 このノートを使い、海砂は自宅で犯罪者を裁いていく。



 これがラストを決定する最大の要因になった。



 以降の流れは、表面上はほぼ原作と一緒だ。

 海砂の解放直後、再開された「裁き」。
 その事でLは再び疑いを海砂に戻す。
 海砂を心配するレム。

 結果、レムは海砂の犯罪が明白になる前にLとワタリをデスノートに記した。
 そして、その事が海砂の寿命を延ばす結果となったため、レム自身も死んだ。
 ただし、月が自分のノートを使う事を防ぐため、こちらのレムは死に際に自分のノートを燃やして炭にした。

 ここから話が原作とは全く異なってくる。

 検証をするため渡米した父親の手元にあるデスノートを得るため、海砂が持ってきたデスノートに父親の名前を書いた。
 両親を殺害された海砂からすると、さすがにコレは動揺せざるをえなかったらしく、声を少し荒げた。
 しかし、月は新世界のためならば自分の父親の命ももはやいとわない。

 原作よりも冷酷かもしれないな、この月さんは。


 ノートに記述したとおり、父親・総一郎はすぐに月の元に戻ってきた。



 しかし、月がデスノートを得る事はなかった。



 月が父親の名を記した海砂のデスノートは偽物だったからだ。

 最初は月と同じく、ワシも海砂の裏切りを考えた。
 (父親を記した時に、月に従順な海砂にしては珍しく反抗していたし)

 だが、海砂は裏切っていなかった。

 ただ単にノートが偽物にすりかえられていたのだ。
 海砂は自宅で「裁き」を行っていた。
 監視カメラを用意していれば、海砂がデスノートを得た事を知るのは容易だ。

 後で読み直したが、原作で月は海砂に、
「自宅での記入は避け、出先のトイレ等、監視カメラのない場所で記入する」
ように念押ししている。

 この一言って結構重かったのだね。






 そして、レムのデスノートに名前を書かれたはずのLも生きていた。






 この感想の最初の辺りで記したルール、
「二冊以上のデスノートに同じ人間の名前が書かれた場合、
 記してある死亡時刻には関係なく、一番先に書かれたものが優先される」
が適用され、Lは今生きている。

 レムに名前を書かれる前から、Lはデスノートに自分の名前を記していた。
 だから、後でLの名を記したレムのノートはその効果を発揮しなかったのだ。

 間違いなくLの死は決定されてしまった。
 しかし、その「死」は今ではない。
 だから、Lは今生きている。

 Lが死んだと思ったからこそ、月はボロを出した。
 まさに命を懸けて、Lは月がキラである証拠を得たのだ。

 言い逃れようのない証拠を目の前に、月は自分がキラである事を認めた。

 月の最後も原作の月の最後とほぼ同じだ。
 松田に撃たれる事も、リュークに自分の、「夜神月」の名前を書かれてしまう事も同じだ。

 違うとすれば、そこに父親がいたという事だろうか。
 例え犯罪者だとしても、大量殺人鬼だとしても、自分の死を悲しんでくれる人がそこにいた。

 ただし、それが月の最後に何か変化を及ぼしたかと言われれば、無い。

 父親に自分の正しさを認めてほしいと訴えて死んだのは原作と異なる。
 でも、月の信念は原作でも映画版でも最後まで変わることは無かった。

 キラの最後を見届け、総一郎達の事後処理を見届けたLもデスノートに書かれた日に死亡した。

 月は表面上はキラに殺されたと処理され、父親を除く夜神家の面々もそう思っている。
 夜神父の死亡している原作でも、夜神一家はこのような理解なのだろうか?

 原作で海砂は、月の死から1年と少し後に死亡している。
 しかし、映画版では最後まで生きている。
 (しかもデスノートの記憶が無いので、罪に問われているかがわからない)

 映画版では月と実際に交際した時間が浅いので、そこまでダメージを受けていないという理解で正しいのだろうか?

 最後に、デスノートの所有者の最後を見届け死神界に戻ったはずのリュークが馬鹿笑いしているシーンでこの映画は終わる。

 リンゴ食いに来たのか?



 L対月の感想だが、前編ほど頭脳戦という感じがしなかった。
 海砂の登場で、互いが作戦を練っているシーンが少なかったからかもしれない。
 片方が何らかの行動を取り、片方が何か企んでいる事が多かった。

 そして、勝敗を競うという意味では、これはLの勝ちなのだろうか?

 ワシは「引き分け」に思える。

 この戦いは自然と「死」ぬ事が負けとなっていた。
 そうすると死亡した月はもちろん、己の死でしか月をキラと断定できなかったLも敗者だ。

 だが、原作ではキラの支配が何年にも及んでいる事を考えると、短期でキラの企てを阻止したのはLの勝ちと言えるかもしれない。
 キラが世界に及ぼす影響も原作ほどではないだろう。

 今回の最終的な感想を1文にまとめると、
 やっぱりL死ぬのか。
 ですな。



 この世界では、今後メロとニアの血みどろの後継者争いが始まるのだろうな。

 あ、いや、こちらのLは死ぬまでに後継者を誰にするか決定する余裕があるか。
 たぶん、ニアだろうな。
 メロは可哀想だが、諦めもつきやすいから、早々に後継者とは別の道を選んでいるかも。
 と、話がずれてだした所で、映画の感想終わりやす。

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