桧神美冬物語 前編
江戸の四谷見腑にはひとつの名物がある。
剣術道場臥龍館だ。ここの門下生たちは他の道場と比べて滅法強いのはもちろんのこと、本当の名物は他にある。
桧神美冬。臥龍館の一人娘である。彼女は美人でさらに剣の腕も立つ。特に居合を得意としていた。
居合とは、刀を鞘から抜く前、つまり「居合わせた」状態で敵に相対し、抜刀によって勝敗を決する技だ。
居合の勝負は、鞘放れの一刀にすべてが凝縮されているのである。
居合いは現代まで受け継がれており、昭和の剣聖・中山博道範士の手により体系化を成した。居合道は、夢想神伝流の名で今も残されている。
もっともこの話はあまり関係ない。要は桧神美冬はすごい人と認知してくれればいいのである。
しかし、腕が立つといっても所詮は女性。一人娘故に跡継ぎが必要である。昭和初期でも名を絶やさないために婿養子をもらう家は多かった。名家でも一般でも同じだった。
そして美冬は父親に呼び出されるのであった。
*
「何の用ですかな?父上」
美冬は仏頂面で答えた。ここは彼女の父親の部屋である。父親は50代前半の老人であった。髪の毛はすでに真っ白だが、顔つきは厳しい。
年とともに刻まれた皺の数が彼の人生が平坦でないものを語っていた。そして、その皺を増やす原因のひとつが目の前にいる娘である。娘の無礼な態度に目をぎょろりとにらみつけるが、言っても無駄なので用件を切り出す。
「美冬。見合いが決まったぞ」
「はぁ、そうですか」
美冬は父親の顔も見ないで庭を眺めていた。二人とも正座をしている。美冬は高飛車で高慢だが無礼な性格ではない。単に見合いの話になるとわざと崩す傾向があった。
父親は顔をしかめるが、話を進める。
「小石川にある霧島殿の次男坊だ。体が弱く、体が頑丈だけ取り柄のお前をもらいたいと懇願してきたのだ」
父親の言い方に美冬は物言いをした。
「体が頑丈だけ取り柄とはあまりな言い方。せめて剣の腕が立つとか言ってもらいたいものですね」
「お前はこの道場を継ぐつもりなのか?」
「もちろんでございます」
すると父親は首をふるふる横に振った。まるで忌まわしい思考を振り落とさんばかりであった。
「女が道場主では、誰も来んわ!!お前は勘違いしているようだが、門下生たちがお前をお嬢様と称えるのはワシの娘だからだ!!これがただの女なら剣の腕が立とうと見向きもされぬのだ!!お前は黙ってワシの言うとおりに生きておればよい!!」
父親の顔が真っ赤に染まった。美冬はどこ吹く風であくびをかみ殺していた。父親は立ち上がろうとしたが血圧が上がったためかよろよろと膝を突いてしまった。
「父上。私はまだ見合いをするつもりはありません。門下生たちが私に媚を売っているのもわかります。ですから私は自らの力で自分の道を切り開きたいのです。では」
美冬の屁理屈に父親は涙目であった。彼は居間にある位牌を手に、話しかける。美冬の母親の位牌であった。
「ワシは育て方を誤った・・・。もうじきワシもそちらへ向かうだろう。あの娘のせいでな・・・」
そう言って父親は位牌を握り締めたまま倒れた。そこへ下男がやってきて、介抱する。
「おいたわしい」
*
美冬は花園神社の近くを歩いていた。後ろには門下生が二人付き添っていた。二人とも貧乏武士の次男坊であった。年はまだ元服しておらず、前髪をたらしたままであった。
一人は紫暮主税(しぐれ・ちから)という名前であった。もう一人は鳥羽数衛門(とば・かずえもん)という名前であった。紫暮はふっくらした体格で、美冬より背は低かった。武士の子というより庄屋の子に見えた。
鳥羽は見るからに真面目そうな顔をしていた。身長は男なので美冬より少し低いが似たような高さである。
美冬は道中歩きながら不満を漏らしていた。
「まったく父上は小うるさいものだ。私にはまだ婿など必要ないというのに」
「それをきっぱり啖呵を切ったわけですね。さすがお嬢様は気風がいいや」
紫暮が褒め称える。媚を売るというより、本心から喜んでいる。美冬がガキ大将で、紫暮がその取り巻きといったところか。そこを鳥羽がとがめる。
「ですが師範代の心配はもっともです。美冬さまは一人娘で大事な跡継ぎ。もしものことがあれば一大事でございます」
「それは・・・、承知しておる」
美冬の顔が曇った。
美冬の母親は産後の肥立ちが悪く、すぐ亡くなった。当時は医療設備が悪く、妊婦はおろか幼児すら死亡する確率が高かった。
幸い美冬は元気に育った。彼女の母親は病弱であった。子供を産めたこと自体奇跡とも言われていた。
だからこそ父親は彼女を厳しく育てた。1853年、浦賀沖でアメリカのペリー提督が開国を迫ってきて以来、日本は大混乱に陥った。
昭和時代に流行った大学紛争みたいなもので、若者たちは我よ我よと参加していた。問題なのは紛争ではゲバ棒を使用しており、警官隊は放水や催涙弾を使用していたが、この時代は刀を使用されていた。つまり死亡率は大学紛争の倍以上であった。
安政の大獄で有名な井伊直弼は、1860年に水戸藩士によって暗殺された。桜田門の変である。
京都では京都守護職の松平容保が新撰組を編成した。そして幕府に逆らうものは片っ端から殺されていったのである。
暴力による言動封鎖。話し合うより殺しあうのが手っ取り早いといわんばかりの時代であった。
父親としては江戸に住んでいてもいつ命を落とすかわからない。だからこそ剣術を教えたのである。美冬の実力は女の身でありながら、道場一番になっていた。それは父親も認めている。
しかし、年頃の娘としてはどうか。綺麗な着物を着飾るわけではなく、かんざしの代わりに腰に刀を佩いている始末だ。そして無責任な若い娘たちは歌舞伎の女形みたいに騒ぎ立てる。
美冬としては自分は剣で身を立てたいと思っている。しかし、現実は厳しい。門下生たちは自分を褒め称えるが裏では何を言っているかわからない。故に裏表のない紫暮と、言うべきところはきちんと言う鳥羽を重宝していたのだ。
美冬が父親に反発するのは、ただの反抗期である。女だからと馬鹿にされたくないが、女として扱われることも反発する。そのムジュンの中、美冬は悶々としていたのだ。
「美冬さま。前方に何か不審なものが」
鳥羽が小声で言った。
長屋の間で浪人たちが何やら揉め事を起こしていた。前方には3人の男女がいる。遊女のような色気のある妙齢の女。白と黒の生地をあしらった男に、元服前の子供という組み合わせであった。
浪人たちは何やら彼らと口論していた。そして刀を抜き出したのである。
これには美冬も腹が立った。刀を持たぬ相手に抜刀するとは何事か。美冬は瞬時に浪人たちを気絶させた。
「ふん。恥知らずめが・・・」
美冬は気絶した浪人たちを見下ろしながら吐き捨てた。
「あらあら強いネェ。助けてくれてありがとよ」
遊女が礼を言った。どこかおどけている感じで美冬は気に喰わなかった。
「礼など無用。無手のものに刀を向けるこいつらが気に喰わなかっただけだ」
「それにしてもあっという間に3人も気絶させちまうなんて、すごいもんさ。アタシの名は桔梗。あんたの名前は?」
「・・・臥龍館の桧神美冬だ」
相手が名乗ったのなら、自分も名乗った。それだけである。
「へぇへぇ、あんたが臥龍館のお嬢様かい。さしずめ後ろの二人は太鼓持ちってとこかねぇ」
「何を!!」
鳥羽が刀に手をかけた。
「あっはっは。元服前の前髪如きに斬られる桔梗じゃないよ。まあ、あんたらは命の恩人だ。ここは退くとしようか」
「えーっ!?こんなクソ生意気な女はぶっ殺したほうがいいんじゃねぇか!!どうせ刀なんざ飾りにすぎねぇよ」
小さい子供は不服をあげた。それを聞いた紫暮と鳥羽は刀を抜く。
「お嬢様に対する無礼は許さないぞ!!」
「左様。美冬さまだけでなく、我らが臥龍館を侮辱されては退くことはできぬ」
すると小さな子供は構えを取った。目には抜き出しの刀を見ておびえているわけではなく、相手の喉下を噛み千切らんばかりの山猫のような目付きであった。
「やめておけ。そんなへっぴり腰では傷ひとつつけるどころか、自分の身まで傷つけるぞ」
後ろから声がした。振り向こうとすると紫暮と鳥羽は地面の上に倒れた。倒したのは坊主であった。しかし普通の坊主と違い、手には槍を持っていた。袈裟の下にはくさりかたびらを身に着けていた。
「貴様っ、よくも紫暮と鳥羽を・・・」
「峰打ちだ。気にするな」
坊主は気にした風でもなく、飄々とした態度をとっていた。そこへ桔梗が坊主を見て声をあげる。
「九桐!!あんたいつから江戸に帰って来ていたんだい?」
「ついこの間だよ。村に戻る前に王子の骨董品屋に寄っていたんだ」
九桐と呼ばれた坊主は桔梗と知り合いらしく、懐かしそうに話していた。しかし、美冬はそれでは気がすまない。門下生二人をやられて黙っているわけにはいかぬ。美冬は九桐の持つ槍を斬ってやろうと思った。坊主を殺すと罰が当たりそうだし、切捨て御免とするわけにもいかぬ。精々彼の持つ槍を使えなくしてやろうと思った。
美冬は刀に手をかけた。初発刀。居合いの基礎の技だ。相手のコメカミを狙う技だ。本来正座から始まる技だ。九桐は槍で頭を防御するだろう。そしてその槍を真っ二つにしてやるのだ。
自然に、そして風が流れるかのように刀を抜く。まず右足を前に踏み出し、鞘に残っている刃先を高速で抜き出す。刃先は九桐のコメカミを突きつける。右肩と拳を水平に、刃先はやや下を向けていた。九桐はそれを避けたが、問題はない。初太刀はあくまで機先を制するためた。そして柄に左手を添えて諸手上段から九桐の頭めがけて刀を振り下ろす。
案の定、九桐は両手で槍を構え、頭の攻撃を防ごうとした。
かつん。
槍の穂は切れなかった。鉄の刀なのに、木の穂を切れなかったのだ。
種を明かせば、九桐は刀に触れる瞬間、背をのけぞらせた。力を力で押し切るのではなく、流したのである。そうすることで衝撃を殺したのである。
美冬はしばし呆然としていた。その隙を突かれ、九桐は落ちていた紫暮の刀を拾った。そして信じられないものを見た。
初発刀。今美冬が使った技だ。それをこの男は拾った刀でやってのけたのだ。刀は美冬の額ギリギリで止まっていた。あまりの衝撃に美冬は腰が抜け、へなへなと座り込んでしまった。
「なかなか筋がいいな。居合いは初めて使うが、難しいものだ」
初めてだと?この男は居合いを使うのを初めてと言った。自分は血のにじむ努力を重ねて得た技をこの男は見ただけで会得したというのか!!
「君が俺を殺すつもりならば、死んでいたのはこの俺だ。今のでわかったが、君は人を殺したことがないな。だから一瞬躊躇してしまった。ここが戦場ならば死んでいただろうな」
九桐は教師が生徒に優しく指導するような口調で言った。
「九桐、ここには用はないよ。さっさと村へ帰ろうじゃないか」
「ああ、そうだな。お嬢さん、俺の名前は九桐尚雲だ。生きていたらまた会おう」
九桐と桔梗たちはそのまま去った。敗れた美冬などどうでもいいかのように。
美冬の目から涙がこぼれた。先に目を覚ました鳥羽が心配そうに声をかけた。
「美冬さま、大丈夫ですか」
美冬は袖で涙を拭くと、気丈に立ち上がった。
「大丈夫だ。ところで紫暮はどうなのだ?」
美冬が訊いた。紫暮は気絶していた。
「むにゃむにゃ・・・。もう食べれましぇーん・・・」
何か幸せそうな夢を見ているようだ。口からよだれが垂れている。その様子を見た美冬は微笑ましくも、つい口元を緩めてしまったのだ。
2009年10月24日