新宿魔界学園第三話『雨水』

 

世界は闇に染まっていた。自分の体は寝ているのか、宙に浮いているのかわからない。指を伸ばしても何も触れることができない。暑くもなければ寒くもない。

そもそも本当に闇の中なのか、目を開けていても、何も映らない。匂いもなく、音もない。すべては無の世界であった。

その世界に風が吹いた。生臭い風であった。

頭上から何か光が発した。一つ一つが太陽のように強烈な光を放っていた。玉虫色の球体の集積物のように見えた。沸騰するように泡立ち続けていた。その奥底に触覚を備えた無定形の怪物が顔を潜めていた。

懐かしい。胸の中に懐かしさを覚えた。異形のものなのに、懐かしさを感じていた。いったいどこで会ったのだろうか?あのような不可思議なものと出会うのは初めてのはずなのに、懐かしいと感じるのはなぜだろうか?

そして意識は引っ張られていく。魚が釣り針に引っ張られるとしたらこんな感覚なのかもしれなかった。

 

 

土黄龍治は目を覚ました。不思議な夢を見た。龍治は周りを見回した。身体を包むのは暖かい毛布だ。体の下は真っ白なシーツの上である。後頭部には固い枕が置かれてあった。部屋には消毒液の匂いがした。そして白いカーテンで仕切られていた。たぶん保健室なのだろう。自分はいつの間にかここに運ばれていたらしい。

龍治はなぜ自分がここにいるのか考えてみた。確かクラスメイトの幸徳秋保が校内を案内してくれた。そこへ昨日、見かけた佐原森が絡んできた。龍治は面識がないと思っていたが、向こうは自分を知っていた。

彼は昨日二年生の白金虎一と喧嘩した。実際は佐原が一方的に絡んできただけだ。白金はあっという間に佐原たちを気絶させた。鮮やかな勝利であった。

佐原は龍治が目撃していたことを知っていた。そして誰かが手紙で自分のことを書いたらしく、佐原は頭に血が上り、龍治を校舎裏へ連れて行った。

そこで龍治はリンチに遭った。佐原は秋保も痛めつけると宣言し、龍治は気を失った。

「……!!幸徳さんはッ!!幸徳さんはどこ!!」

龍治は大声を上げた。身体に痛みはない。不思議に思ったが今はそれどころではなかった。

「静かにしなさい」

物静かだが、言葉に怒気が含む声がした。カーテンが引かれるとそこに見知った顔があった。

年齢は二十代前半といったところだ。メリハリのある身体で、胸は満月のように膨らんでいた。腰もぎゅっと引き締まっており、臀部は胸という月に照らされ大きく引き締まっていた。

髪は天然パーマなのか、肩まで伸びていた。切れ目で鼻筋は伸びており、口は大きかった。彼女は担任教師の小角陽子に似ていた。しかし着ている服や雰囲気が違う。黒いスーツの上に白衣を身に付けていた。黒縁のメガネをかけており、陽子に較べると地味な印象を受けた。同じ造詣でも着ているものと身に付けているもので見た目がまるっきり違うのだ。

「小角先生?」

「小角月子(こずみ・つきこ)です。陽子は私の双子の姉です」

彼女はそう名乗った。秋保が陽子には双子の妹がいると言っていたが、まさかここまで似ているとは思わなかった。だが雰囲気は違う。陽子が太陽ならば、月子は文字通り月に見える。どちらがいいというわけではなく、陽子には華やかな艶があり、月子は儚い艶があった。

 「幸徳さんは無事です。あなたが気絶した後偶然私が通りかかりました。佐原君はそのまま逃げて、後に残ったのがあなたと幸徳さんだけでした」

「幸徳さんは無事なんですね。よかった」

「ええ。彼女はあなたを心配していましたよ。とりあえず彼女は帰しました。彼女が見舞ってもあなたの怪我は治りませんからね」

「そうですか。でも、ボクの身体はちっとも痛いところがないのですが」

「きっと、佐原君の蹴りは急所に当たっていなかったのでしょう。彼と喧嘩して五体満足だった人はいません。白金君を除いてはね」

龍治は蹴られた部分をさすってみた。痛みをまったく感じなかった。佐原の蹴りはまるで杵を振り落とされたらこんな感じだろうと思わせる、重い蹴りであった。蹴られるごとに内臓に衝撃が走り、骨が軋んだ。頭の中はかき回され、意識がテレビのスイッチを切ったようにぷつりと途切れたのだった。

龍治の頭の中には悔しさがこみ上げてきた。佐原が不条理かつ理不尽な暴力を振るったことではない。秋保を危険に晒したことが許せなかった。男は女を守るものだと龍治は考えていた。龍治はいつも清美に守られていた。清美は、家事全般は万能でなんでもできた

龍治は家事を手伝ったことはなかった。家事はすべて清美がやった。だからといって清美は龍治を甘やかしているわけではない。勉強やスポーツはおろか、躾に関しては厳しかった。

虫などの首をむしりとったり、犬をいじめたりすれば清美は烈火の如く怒った。まるで彼女が雷神になって雷を落とすかのようであった。挨拶はきちんとする、ゴミをポイ捨てしない、周りの人がルールを破ってもそれを真似してはいけないなど、躾には厳しかった。

清美は龍治を叱るだけでなく、自らも実践していた。ゴミを捨てたり、迷惑行為をした人間に厳しく注意した。もちろん、女性なので舐められたり、馬鹿にされたり、逆に怒鳴られたりするが清美は毅然とした態度を取っていた。

そのときの清美は童話に出てくる自愛に満ちた女神様ではなく、地獄に住む鬼のような目つきと雰囲気を出していた。たまに手にしたボールペンを相手の咽に突き刺そうとしたりした。そして相手を罵倒せず、尊厳を保ちつつ、話は終わる。氷のように冷たい雰囲気から一気に暖かくなるのだから、不思議に思いつつ、清美をすごいと思った。

清美はそのあと龍治に自分の真似をしてはならないときつく約束させた。自分は強いから注意できるが、弱い人間が真似をすればしっぺ返しを喰らうというのだ。中には逆恨みして自分を殺しに来るかもしれないとも含めた。自分は強い。それは龍治を守るためだからだ。龍治を守るため、そして龍治を立派に教育するために自分は強くならねばならない。そして誰よりも強く、優しい人間に育ってほしいと願っているのだ。

幼少時の記憶は乏しい。両親の顔はよく思い出せない。前にいた学校はおろか、小中学校の記憶すらうすらぼんやりであった。しかし、清美のたくましい背中と、力強い言葉は覚えているから不思議だ。

龍治は秋保を守れなかった。彼女が傷つかなかったのは、月子のおかげであった。

龍治は悔しかった。涙がこぼれた。

「悔しい?そうよね。男の子ならやられっぱなしは悔しいものね」

月子は龍治の涙を別の意味で解釈しているようだ。龍治は口を挟もうとしたが月子はさえぎった。

「土黄君。私はね、ある古武術を習得しているの。誰も知らない、私の実家しか知らない戦うための武器。それをあなたに教えてもいいのよ」

「え?別に教えてもらわなくても」

龍治は断ろうとした。月子を嫌うというより、清美を気にしたからだ。彼女は嫉妬深い。月子が古武術を教えてくれるのはいいが、彼女は女性だ。しかも美人。陽子とは違い、退廃的な美があった。名前の通り月のような女性であった。

「遠慮しなくてもいいわ。正直言えば私はあなたを一目見たときから、ヒトメボレしてしまったの」

月子がにじり寄ってきた。なにやら雰囲気が変わった。龍治を見る目がとろんと熱を帯びたようになった。ぺろりと舌を出して舐める。まるで肉食獣が獲物に狙いを定め、舌なめずりするように見えた。

「本来なら幼稚園児しか興味が沸かないのよ。それなのに、あなたは私の好みにぴったりと嵌ったのよ。あなたが4歳児にしか見えないの。肉体的ではなく、精神的な意味ね。思わず守ってあげたくなるような保護欲が湧いてくるの。ああ、こんなに胸がときめくなんてひさしぶりだわ。中央公園の噴水で男の子たちが素っ裸で水浴びしているところを、見学してもここまで胸の鼓動が高まることなんてなかったわ」

ものすごく危ない発言である。そういえば転校初日に陽子が言っていたことを思い出した。確か妹は4歳児が好きだとか。こういう趣味の人をなんと言っただろうか?

「先生はロリコンですか?」

龍治がそう言うと、突如ドアが乱暴に開かれた。紅いメイド服に、買い物籠をぶら下げた女性であった。童顔で清楚な雰囲気だが、体全体から怒りの炎が伝わってくる。頭の上から陽炎が浮かんできそうであった。夏目清美であった。

「あれ?清美さんじゃない。どうしたの?」

龍治は真顔で言った。

「ぼっちゃまが学校で倒れたと電話がありましたから、買い物の途中で駆けつけてまいりました」

清美は息を切らしながら言った。つまりメイド服で買い物に行っていたというわけだが、本人は気にしていない。清美は龍治の手を握る月子をにらみつけた。にらみつけただけで人が殺せそうなオーラを放っているが、月子はどこ吹く風であった。

「離れなさい!!ぼっちゃまの白くて暖かい手は私だけのものです!!」

「あーら、まるで土黄君はあなたの所有物みたいな言い方ですね。あなたは誰ですか?コスプレ腐女子ですか?」

「コスプレではありません!!私はぼっちゃま、土黄龍治に仕えるメイドでございます」

「メイドって、土黄君の趣味かしら?」

「いいえ、私の趣味です。ちなみにこの服も自前で、手作りなんですよ」

「どうでもいいですが、本来あなたは部外者ですよ。私が警察を呼んだらあなたは不法侵入罪で逮捕されますよ」

すると清美は高らかに笑い声を上げた。

「あなたは私の話を聞かなかったのですか?私はぼっちゃまに仕えるメイド。つまり、ぼっちゃまの関係者です。食事の支度はもちろん、掃除に洗濯、家事全般は私に任されております」

「なるほど。あなたは土黄君の脱いだ下着の匂いを嗅いでいるというわけね。さらに土黄君が使った箸を舐めたりするんだわ」

「まあ!!なんでそれを知っているのですか!!」

清美は大声を上げた。しかし、月子はニヤニヤ笑っているだけだ。清美の顔が赤くなった。カマをかけられたのだ。

「ボクも知ってるよ。清美さんがいつもそうしているのを見たことあるもん。清美さんは主君の忠誠心を保つためとか言ってたっけ」

「あらあら、ご主人様も承知というわけね。まったくこんなかわいい子を洗脳するなんて、あなたはとんだ魔女ね。その分厚い化粧の下には、ヘンゼルとグレーテルを太らせて食べようとする醜い老婆の皺を隠すためなのだわ」

「失礼な!!私はまだ27です!!」

「私は24歳です。うふふ。私のほうが若いですね」

月子は勝ち誇ったように笑った。月子の顔は溶岩の如く真っ赤になった。このままいけば噴火しかねない。龍治は自分のせいでふたりが喧嘩していることが耐えられなかった。もっとも、どういう理由で喧嘩をしているのかはわかっていないが。

「そうだ。今度ボクは月子先生に古武術を教わるんだよ」

龍治は横から話題を挟んだ。それを聞いた清美は一瞬怪訝そうな顔になった。

「古武術ですか?いきなり、なんで?」

「今日ね、ボクは同じクラスの幸徳さんと校内を見学していたんだ」

龍治は今までの経緯を話した。自分が昨日白金と佐原の喧嘩を目撃したこと。そして、佐原は自分のことを見ていて、自分が他の人にしゃべらないように痛めつけられたこと。秋保は月子に助けられたことを話した。

「だからボクは強くなりたいんだ。強くなれば清美さんだって守ることができる。清美さんも賛成してくれるでしょう?」

龍治は無邪気に語った。しかし清美は無表情のままであった。顔をうつむくと、ぼそりと口を開いた。

「強くなる必要はありません」

清美はきっぱりと言った。龍治は信じられないと思った。清美は龍治が興味を示すものなら、犯罪以外は許してくれたからだ。

「ぼっちゃまは私が守ります。ぼっちゃまの身になにかが起きればすぐ駆けつけてまいります。ですから、ぼっちゃま自身が強くなる必要はありません」

あんまりといえばあんまりな物言いであった。

「どうして!ボクは強くなりたいんだ!強くなって清美さんを守りたいんだ!強くなれば誰でも守れるはずなんだ!!」

龍治はむきになって反論した。しかし、清美の目は冷めたままであった。ため息をつく様は子供のわがままに辟易する母親を連想させた。

「ぼっちゃま。強くなるということは敵を増やすのと同じでございます。話に聞いた佐原という人を、ぼっちゃまが半殺しにしたといたしましょう。その佐原という人はこの学校では嫌われているようですが、同時に好意を持っている人もいるかもしれません。絶対にいないとは言い切れないでしょう。その人がぼこぼこにされたらどう思いますか?どう思わないかもしれない。でも、もしかしたら中にはあなたを仇と付け狙うかもしれない。それに佐原という人にも家族はいるでしょう。人に暴力を振るっても、わがままを撒き散らしても、親にとっては大切な子供。自分の片割れ、自身の腹を痛めた子をぼろ雑巾にされて喜ぶ親は、義理の親だけですよ。幼児虐待のほとんどは再婚相手で、もう片方は嫌われたくないために、嫌々参加させられているのです。強くなって私を守る?笑わせないでください。もし、殴った相手が逆恨みして、ぼっちゃまの身内である私を人質に取るかもしれない。殺してぼっちゃまへの当てつけにするかもしれない。そういう可能性があるのですよ。現実は漫画やアニメと違うんです。たとえ理不尽な暴力を受けても生きていれば警察に訴えることはできます。それに人を傷つけて楽しむ人間は、同時に敵を作りやすくしています。その報いは遅かれ早かれその身に返ってくるのです。あまり馬鹿なことは言わないでください。さきほども言ったとおり、ぼっちゃまは私が守ります。世界中がぼっちゃまを敵視し、殺意を向けても私は死ぬまでぼっちゃまの味方でございます」

清美の話を聞いて龍治は涙がこぼれた。清美の言うことはもっともだ。しかし、頭では納得できても、心は納得できない。秋保をもう少しで傷つけてしまうかもしれなかったのだ。自分の不甲斐なさ、自分の弱さに龍治は泣けてきた。清美自身も強い。腕力というより、周りの空気を読み、相手を畏怖させ、相手を侮辱せず、場を治める。人を暴力で屈服させることが戦いではない。喧嘩をしないことも戦いなのだ。それでも龍治は納得できなかった。龍治はシーツをぎゅっと握り、涙を落とした。その姿を見て胸がきゅんとなったのか、月子は腰をくねらせ、舌をぺろりと出した。

「土黄君は勘違いしているみたいだけど、私は教えてもいいといったけど、無条件で教えるつもりはないわ。私が示す条件を満たしたら教えてもいいわよ」

月子が言った。龍治は月子のほうを見た。龍治の表情は太陽のように明るくなった。清美は腕を組み、やれやれと首を振った。

「そういう話ですか。条件を満たさなければ、その古武術を教えることはできないと言うわけですね」

月子は首を縦に振った。

「その条件とはなんですか?」

清美の問いに、月子は龍治を見た。

「その条件は、真海四天王と戦って勝利することです」

 

続く

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2010年6月19日