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江戸幕府(えどばくふ)による大名の支配について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【江戸幕府の大名支配 その1 〜 国がえ】
付書院

●国がえ

 大名を家臣まるごと別の国に移すことを
国がえという。これにより大名が領地の町人や農民たちと固く結びつき、江戸幕府に反抗する力をたくわえるのを防ぐようにした。大名は「将軍から土地をもらって年貢(ねんぐ 米の税のこと)をとるだけ」だからという考えによるもので、「大名を鉢植(はちう)えにする」と荻生徂徠(おぎゅうそらい)は言った。鉢(はち)は国、土は農民、植木(うえき)は大名、植えかえるのは将軍というわけである。国がえのたびに、大名は新しい領地の支配システムを作り上げるために、多大な労力と財力を使うこととなった。

【江戸幕府(えどばくふ)の大名の支配】

 江戸幕府(えどばくふ)の大名支配の基本は、いかにして大名の財力(ざいりょく)をけずるかであった。武士をやとうにも、武器や鉄砲(てっぽう)、兵糧(ひょうろう)を買うにもお金が必要であった。大名にお金のゆとりができると、江戸幕府(えどばくふ)に反抗(はんこう)するかもしれない。そのように考えた江戸幕府(えどばくふ)は、大名が財力(ざいりょく)をたくわえられないようにあの手この手を使ったのである。この方針(ほうしん)は成功し、江戸幕府がほろびるまでの間、一部の大名をのぞいて多くの大名は財力(ざいりょく)にゆとりを持つことがほとんどできなかったのである。


●国普請(くにぶしん)

 江戸幕府(えどばくふ)は、江戸城(えどじょう)、駿府城(すんぷじょう)、二条城(にじょうじょう)などの江戸幕府(えどばくふ)の城や江戸市中の大土木工事、大河川工事などを大名たちに普請(ふしん 建設させること)させた。それも、材料や労働者、材料費などは大名が用意しなければならなかった。これも大名にとっては大きな負担となった。しかも、徳川家康(とくがわいえやす)から徳川家光(とくがわいえみつ)の短期間の間に、城の建設はあいついで行われたため、大名の中には複数の城の建設を命じられ、商人に多額(たがく)の借金をする者もいた。

【江戸幕府の大名支配 その2 〜 国普請(くにぶしん)】

●改易(かいえき) … 大名を取りつぶすこと

 江戸幕府(えどばくふ)は、大名のちょっとしたミスを探し出し、大名を取りつぶす口実(こうじつ)とした。特に徳川家康(とくがわいえやす)のころは、まだ豊臣氏(とよとみし)に恩を感じている大名がいて、江戸幕府(えどばくふ)の土台が安定していなかったため、さかんに改易(かいえき)が行われた。

 子供のいない大名の中には生きている間にあとつぎを決めていなかった理由から改易(かいえき)になるものも多かった。子供のいない大名は、養子(ようし)をとることになるが、その後、自分に子供ができた場合、あとつぎ争いがおこる心配があった。当然、あとつぎ争いがあった場合も改易(かいえき)になる。そのため、子供のいない大名はぎりぎりまで養子(ようし)を決めていないことが多かったのである。

【江戸幕府の大名支配 その3 〜 改易(かいえき)】
         改易(かいえき)
された大名数
改易(かいえき)
された大名の石高
徳川家康〜家光の時代 198家 1612万石
徳川家綱の時代 22家 67万石
徳川綱吉の時代 33家 135万石

●武家諸法度(ぶけしょはっと) 

 大名や武士が守るべきルールを
武家諸法度(ぶけしょはっと)という。江戸幕府(えどばくふ)は1615年に13カ条からなる武家諸法度(ぶけしょはっと)を制定した。この武家諸法度(ぶけしょはっと)の内容はたいへん厳しいもので、この内容を聞いた大名はふるえあがったという。

 この内容は江戸幕府にとっては、大名を取りつぶす口実(こうじつ)を手にしたといえる。武家諸法度(ぶけしょはっと)に違反した大名は公然と改易(かいえき)できるからである。一方で、武家諸法度(ぶけしょはっと)を守っても大名は財力的に弱められることになる。大名が守っても守らなくても、江戸幕府(えどばくふ)にとっては損にはならない内容となっていたのである。

 この武家諸法度(ぶけしょはっと)は2代将軍の徳川秀忠(とくがわひでただ)によって出され、1635年に3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)によって改正された。その際に13カ条から21カ条にふやされ、
参勤交代(さんきんこうたい)が義務化(ぎむか)された。

【江戸幕府の大名支配 その4 〜 武家諸法度(ぶけしょはっと)】
   武家諸法度(ぶけしょはっと)の内容
学問や武道にしっかりはげむこと。
集まって酒を飲んだり、遊びにふけったりしてはならないこと。
法度(はっと 決まりのこと)に違反した者を国々にかくしておかないこと。
国々で反乱をおこしたり、人を殺したりした者がいた場合、すみやかに国から追い出すこと。
他国の者を自国内におかないこと。
城をなおす時には必ず幕府に申し出ること。新しく城を造ってはならないこと。
となりの国で反乱を計画する者がいたら、すみやかに申し出ること。
大名の間で勝手に結婚してはならないこと。
諸大名はその石高に応じて、領地と江戸にかわるがわる住み、参勤(さんきん)をすること。
10 服そうは身分に応じて区別すること。
11 身分の低い者は勝手にこし(乗り物のこと)に乗ってはならないこと。
12 倹約(けんやく)をすること。
13 すぐれた人を用いること。
   大きな船を建造(けんぞう)してはならない。

●参勤交代(さんきんこうたい) 〜 武家諸法度(ぶけしょはっと)第9条 

 大名が領地と江戸の間を1年ごとに行き来することを
参勤交代(さんきんこうたい)という。3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)によって義務化(ぎむか)された。

 大名は1年間江戸で将軍のために働く(参勤 さんきん)すれば、次の1年間は領地ですごすという生活を送った。もちろん、大名の妻(つま)と子供は人質(ひとじち)として江戸で暮らしていた。大名の交代時期は、2月の者と、9月の者がいた。加賀(かが 石川県)の前田氏(まえだし)は100万石の大大名であったため、4000人もの行列で江戸と加賀(かが)とを行き来した。その参勤の費用は行列の費用だけでも5000両であった。九州の薩摩(さつま 鹿児島県)の大名である島津氏(しまづし)の場合、海と陸の1600kmの道のりを往復しなければならず、その参勤の費用は全体で1万5000両にも及んだとされる。その割合は島津氏(しまづし)の支出(ししゅつ)の5%になった。当然、大名は領地と江戸での2重生活を送ることになり、より一層、費用がかかることになった。この参勤交代(さんきんこうたい)も大名の財政(ざいせい)を苦しめた。

〈 参勤交代(さんきんこうたい)の幕府にとっての利点 〉
 @ 江戸で妻と子供を人質にすることで、大名の幕府への反乱を防ぐ。
 A 江戸と領地を行き来させることで、大名の財力(ざいりょく)を減(へ)らす。
 B 大名が行き来することで、街道(かいどう)が整備され、安全になる。

【江戸幕府の大名支配 その5 〜 参勤交代(さんきんこうたい)】