元(げん)について
元寇(げんこう)について
【元(モンゴル)について】
13世紀のはじめのころ、中国では宋(そう)の時代にあたります。その宋(そう)の国の北に住む遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)のモンゴル族からチンギス・ハンという人物があらわれてモンゴル民族を統一した。チンギス・ハンは中央アジアに攻めこみ、西遼(せいりょう)、ホラズムという国を征服(せいふく)した。
チンギス・ハンの死後もその子どもたちは、ユーラシア大陸のあちこちに攻めこみ、中国、西アジア、ヨーロッパのいろいろな国を征服(せいふく)した。これにより、モンゴル帝国はユーラシア大陸にまたがる巨大な帝国となった。
その後、この巨大な帝国は、上の図のようにチンギス・ハンの子どもや孫たちによって大きく5カ国に分けられた。それぞれキプチャック・ハン国、オゴタイ・ハン国、チャガタイ・ハン国、イル・ハン国、フビライ・ハンの支配した国である。
そのうちのフビライ・ハンの支配した国が中国名で元(げん)という国となった。元(げん)は、日本だけでなく、東南アジアのミャンマーやベトナム、インドネシアにも攻めこんでいる。
【モンゴルの攻撃(こうげき)】
元(げん)は、1268年に日本に使者を送り、降伏(こうふく)を呼びかけた。だが、鎌倉幕府(かまくらばくふ)の執権(しっけん)の北条時宗(ほうじょうときむね)はこれを拒否(きょひ)した。
これをうけて、フビライ・ハンは1274年と1281年の2度に渡り、北九州に攻めこんできた。これを元寇(げんこう)と呼んでいる。特に1274年の攻撃(こうげき)を文永の役(ぶんえいのえき)、1281年の攻撃を弘安の役(こうあんのえき)と呼ぶ。2度とも暴風雨で元(げん)の大軍は、船がしずむなどの大損害を受け逃げだしたため、日本はかろうじて国を守ることができた。
フビライ・ハンは、3度目の日本攻撃(こうげき)を計画していたが、1287年にベトナムへの攻撃に失敗したため、日本に攻めこむゆとりがなくなり、3度目の日本攻撃(こうげき)は行われなかった。
元寇(げんこう) |
戦闘(せんとう)の様子 |
文永の役
(ぶんえいのえき)
地図の赤色の線 |
1274年10月3日、元(モンゴル)兵の3万人と900せきあまりの船団が朝鮮(ちょうせん)を出発し、10月5日には対馬(つしま)をおそった。
そして、10月14日には壱岐(いき)を占領し、10月19日には博多(はかた)に姿をあらわした。
10月20日には、元(モンゴル)兵は博多(はかた)に上陸した。武士たちは必死に戦うが、集団で戦う元(モンゴル)軍に対し、一騎(いっき)うちでいどむ武士は苦戦(くせん)し、結局、太宰府(だざいふ)まで退いた。
元(モンゴル)軍も夜になると船に引き上げたため、その日の戦いはここまでで終わった。その夜、大暴風雨が元(モンゴル)の船団をおそい、元(モンゴル)軍は大損害を受けて、朝鮮へと逃げ帰った。
元(モンゴル)軍の被害は1万数千人におよんだという。 |
弘安の役
(こうあんのえき)
地図の青色の線 |
1281年、フビライ・ハンは元(モンゴル)軍を2つに分け、2方向から日本に攻めこんだ。高麗軍(こうらいぐん)は4万人、船900せきあまり、江南軍(こうなんぐん)は10万人、3500せきという大軍であった。このことからも、フビライ・ハンの日本征服の決意が分かるであろう。
まず、高麗軍(こうらいぐん)が博多(はかた)にあらわれたが、今回は武士たちも海岸に石築地(いしついじ)をつくり、防衛(ぼうえい)を整えていたため、元(モンゴル)軍は上陸できず、いったん壱岐(いき)に退いた。
7月の終わりごろに江南軍(こうなんぐん)が到着し、鷹島(たかじま)で2つの軍が合流して戦いの準備をしていたが、7月30日の夜、またしても元(モンゴル)の船団は大暴風雨におそわれ、ほぼ全滅した。残った元(モンゴル)軍は命からがら逃げ帰った。
元(モンゴル)軍の被害は10万人あまり、船4000隻あまりが海にしずんだという。 |
高麗軍
(こうらいぐん)
江南軍
(こうなんぐん)
【元寇(げんこう)の影響(えいきょう)】
大暴風雨のおかげで、かろうじて元(モンゴル)の大軍を追いはらった鎌倉幕府であったが、鎌倉幕府にとっても頭の痛い問題が残った。
@ 元(モンゴル)の3度目の攻撃にそなえて、北九州の防衛(ぼうえ
い)に備えなければならず、費用がかかるようになった。
A 勝つことはできたが、元(モンゴル)から土地を取ったわけではない
ため、元(モンゴル)との戦いで功績のあった武士たちに与える領地
がなく、武士たちの信用を失った。
B 元との戦いで借金(しゃっきん)をした武士たちを救うために、借金
のかたに取られていた土地をただで武士にかえせという徳政令(とく
せいれい)を出したため、かえって、武士たちにお金をかす人がいな
くなり、武士の生活が苦しくなった。
これらのことから、鎌倉幕府への武士たちの信用はなくなり、鎌倉幕府の滅亡(めつぼう)へとつながることになる。
元(モンゴル)軍
日本の武士
石塁のあと