平安時代の貴族の
くらしについて
【貴族の服そう】
貴族の男性の服そう
これは、貴族が儀式に着るときの束帯(そくたい)である。位によって服の色が変わり、黒は高い位にあたる。かんむりをかぶり、手には笏(しゃく)を持ち、刀をこしにつける。
束帯(そくたい)は、内側に袴(はかま)と下襲(したがさね)をつけ、大きなそで口のゆったりとした袍(ほう)を上から着る。そのため、貴族の服は動きにくい。
束帯(そくたい)には、裾(きょ)というはばが広く長い布を3mくらい引きずっているため、移動はたいへんだった。
貴族の女性の服そう
これは、貴族の女性が儀式に着る十二単(じゅうにひとえ)である。色は違うが同じ形の服を何枚も重ねて着るので十二単(じゅうにひとえ)という。
何枚も重ねて着た後で、最後に大きなえりでたけの短い唐衣(からぎぬ)を着る。後から、こしに白く長い裳(も)をつける。
女性は丸顔で白い顔が美しいとされた。そのため、顔を白くぬり、まゆ毛をぬいて、ぼかしたまゆをかき、くちびるを赤くぬった。
貴族の女性の十二単(じゅうにひとえ)
何枚も重ねて着ているのが分かる。
【貴族の食事】
貴族の食事の様子
貴族の食事は、奈良時代以上に種類がふえ、豪華(ごうか)になっている。
こわめしをはじめ、魚やきじ・かもなどの肉、タケノコなどの山菜や野菜、お吸い物、みかんなどの果物、酒などが食事の内容である。塩はあったが、さとうはまだなく、みつやあまずらであまみをつけた。
ぜいたくなことに貴族は出された食事に少しだけはしをつけて食べ、後はかたづけてしまうことが習慣となっていたらしい。
車宿
(くるまやどり)
北対
(きたのたい)
中庭
(なかにわ)
中島
(なかしま)
東対
(ひがしのたい)
寝殿
(しんでん)
釣殿
(つりどの)
寝殿造(しんでんづくり)
貴族は寝殿造(しんでんづくり)とよばれる屋敷(やしき)に住んでいた。中央の寝殿(しんでん)には主人が住んでいた。庭には船遊びができる大きな池があり、池には釣殿(つりどの)とよばれるバルコニーのある建物がはりだしていた。北対(きたのたい)には、多くの場合、妻(つま)が住んでいた。
釣殿(つりどの)
池にはりだしたバルコニ
ーのある建物、月見や魚
釣りなどを行った。
←実際の寝殿造(しんでんづくり)の様子
10円玉にほられ、藤原頼通(ふじわらのよりみち)によって建てられた宇治(うじ)の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)にも寝殿造(しんでんづくり)の形式が取り入れられている。↓
【寝殿造の内部の様子】
貴族の屋敷(やしき)の内部
貴族はたたみの上で生活をした。天井からは御簾(みす)とよばれるすだれをさげ、日よけにしたり、部屋のしきりにしたりした。
また、きちょうや屏風(びょうぶ)でも、部屋のしきりをし、このころには障子(しょうじ)はなかった。
一段高いたたみと、脇息(きょうそく)
脇息(きょうそく)は、ひじをかけて休むための台
側に置かれた調度品(ちょうどひん)
写真の左奥には屏風(びょうぶ)、右奥にはきちょうがある。
【貴族のはなやかな生活】
貴族の生活
午前3時ごろに起きる。起きると、自分の星の名前を7回となえる。その後、ようじで歯をみがき、西に向かって祈る。きのうのことを日記に書き、朝食をとる。かみをとかした後、木浴(もくよく)をする(木浴は5日に一度くらいであった)。
午前7時に出勤し、朝廷(ちょうてい)で仕事をする。多くの場合、仕事は10〜11時ごろには終わり、自分の屋敷に帰宅する。正午までに昼食をとり、その後、午後4時ごろに夕食となる。
貴族は午後からは、よほどのことがない限り仕事がなく、比較的自由に過ごした。貴族にとっては遊びや儀式が生活のすべてであったといってもよいくらいであった。午後からは和歌や音楽、花見、月見、けまり、すごろく、貝あわせ、歌あわせ、絵あわせなどをして過ごした。
1月 |
年賀のあいさつ |
7月 |
七夕祭 |
2月 |
神社での花祭り |
8月 |
名月をながめる会 |
3月 |
曲水(ごくすい)のえん |
9月 |
菊の花を見る会 |
4月 |
衣がえ(夏の服そうへ) |
10月 |
衣がえ(冬の服そうへ) |
5月 |
たんごの節句(せっく) |
11月 |
神社での秋祭り |
6月 |
大はらい |
12月 |
大はらい |
貴族の1年間の主な行事
貴族の屋敷で行われた宴(えん)
貴族の屋敷の庭では音楽や演奏、おどりが行われていた。そんな宴(えん)を貴族たちは大いに楽しんだ。
【貴族の生活の様子(絵巻物より)】
紫式部(むらさきしきぶ)によってかかれた源氏物語(げんじものがたり)は、平安時代の貴族のはなやかな生活や貴族文化も表現されている。