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享保(きょうほう)の改革について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【享保(きょうほう)の改革とは…】
付書院

 享保(きょうほう)の改革とは、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が行った江戸幕府の政治の立て直しである。徳川吉宗(とくがわよしむね)は、江戸幕府(えどばくふ)の政治を立て直すために、支配体制の強化を行った。

【具体的な改革の内容】
 @ 
質素倹約(しっそけんやく)を進める。
 A 武芸(ぶげい)と学問を進める。
 B 
公事方御定書(くじがたおさだめがき)を決めて、裁判の公正をはかった。
 C 
目安箱(めやすばこ)を置き、民衆の意見を聞こうとした。
 D 
新田開発を行った。
 E 
上米の制(あげまいのせい)を定めた。

  ※ 質素倹約(しっそけんやく)
      ぜいたくなくらしをせず、お金を使わないように節約すること

【幕府政治の立て直しの基本 〜 質素倹約(しっそけんやく)】


 戦争が続く世の中では、いつお金が必要になるかわからないため、民衆はぜいたくをやめ、お金を節約し、いざというときに備えてお金をためようとした。
 
 だが、平和な時代が続くようになると、人々はぜいたくな生活をすることになれ、お金を湯水のように使うようになった。それは、武士も同じことであった。武士もはでな衣服を身につけ、金銀をちりばめた高価な刀や生活道具を使うようになり江戸幕府の財政は苦しくなっていた。一方で、武士の中には馬に乗れない者や刀ややりをうまく使えない者まであらわれた。

 そのため、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)は、ぜいたくなくらしをいましめ、節約を中心としたむかしの武士の生活を基本として、質素倹約(しっそけんやく)を進めた。将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)自身が、はでな衣服を着ず、もめんのそまつな衣服を着続けた。また、刀も金銀のはでな物ではなく、銅と鉄で作られた実用的な物を身につけた。また、 食事も白米ではなく、玄米(げんまい)を食べ、魚肉をあまり食べず、おかず一皿とお吸い物一杯の一汁一菜(いちじゅういっさい)を中心とした。

 このように自分が率先して質素(しっそ)な生活を行うことで、徳川吉宗(とくがわよしむね)は、武士や民衆にも質素な生活を進め、平和にゆるみきった武士の意識を引きしめたのであった。

【上米の制(あげまいのせい)について】

上米の制(あげまいのせい)とは、

  大名は1万石(まんごく)ごとに100石の米を江戸幕府に出させるという制度である。その代わりとして、参勤交代(さんきんこうたい)で大名は半年間だけ江戸でくらし、1年半は領地でくらすようにし、大名の参勤交代の負担を少なくした。


 幕府の財政(ざいせい)を立て直すには、
  
@ お金の支出(ししゅつ お金をはらうこと)を減(へ)らす。
  A お金の収入(しゅうにゅう はいってくるお金のこと)を増やす。

しかない。上の質素倹約(しっそけんやく)は@に当たる。

 しかし、これだけでは江戸幕府の財政難は切り抜けられなかった。そのため、徳川吉宗(とくがわよしむね)は幕府の収入(しゅうにゅう)も増やそうと考えた。そのために
上米の制(あげまいのせい)を行った。









 このようにして、江戸幕府(えどばくふ)は、全国の大名から55万俵(約17万石にあたる)の米を集め、一時的に幕府の財政を立て直した。

【新田開発(しんでんかいはつ)について】


 江戸幕府(えどばくふ)の財政の根本は「米」である。幕府に入ってくる米の量が増えれば、幕府の財政もよくなることになる。そのため、新しい田を開くことを進めていった。16世紀末には全国で150万ヘクタールであった田が、18世紀前半には2倍の300万ヘクタールになり、明治時代の初めには450万ヘクタールにまで増えた。しかし、これはかえって米の値段を下げることになり、給料を米でもらい、その米を売ってお金にかえていた武士にとっては、逆に収入をへらすことになり、下級武士の生活が苦しくなることになった。

 下のグラフを見てもわかるように、1722年には米もお金も支出が収入を上まわっているが、江戸幕府の収入の増加がはかられ、お金はその後、収入が上まわるようになっている。また、質素倹約(しっそけんやく)の成果もあり、お金の支出もおさえられている。グラフではわかりにくいが、合計的には米の収入も支出を上まわるようになっていた。

【目安箱(めやすばこ)について】


 民衆の意見・不満・希望などを聞いて政治にいかすために作られた。1721年に江戸城の竜ノ口(たつのくち)評定所(ひょうじょうしょ)の前に置かれた。この目安箱(めやすばこ)の意見の中から小石川養生所(こいしかわようじょうしょ 公共病院のこと)の設置や町火消しの設置が取り上げられた。

【公事方御定書(くじがたおさだめがき)について】


 8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が江戸町奉行(えどまちぶぎょう)の大岡忠相(おおおかただすけ)に命じて作成された法律。公正な裁判(さいばん)を行うための基準(きじゅん)を決めた。
 この公事方御定書(くじがたおさだめがき)は上下2巻に分かれていた。上巻は司法(しほう)・警察(けいさつ)に関する法律が書かれている。下巻には訴訟(そしょう うったえのこと)・刑罰(けいばつ)に関する法律が書かれている。

【享保の改革(きょうほうのかいかく)の成果について】


 8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が行った享保の改革(きょうほうのかいかく)の成果は、
 
@ 米やお金の収入が増え、幕府の財政は一時的に立ち直った。
 A 幕府の政治体制の引きしめがはかられ、その仕組みが改善された。

その一方で、
 
@ 米の収入を増やすために年貢(ねんぐ)の率を5公5民から引き上げたため
  に、農民の生活 はいっそう苦しくなり、一揆(いっき)がふえた。
 A 新田開発で米の収穫が増え、米の値段(ねだん)が狂い、民衆の生活も苦し
  くなり、打ちこわしなどが起こるようになった。


 結果として、徳川吉宗(とくがわよしむね)の享保の改革(きょうほうのかいかく)は、一時的には幕府を立て直せたものの根本的な解決にはならなかった。