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室町時代の武士、民衆のくらしについて







歴史で知りたいテーマのいちらん

【武士の服そう】
武士の直垂(ひたたれ)
折烏帽子(おりえぼし)

 室町時代(むろまちじだい)の武士の服そうは、鎌倉時代(かまくらじだい)とほとんどかわらない。
 
 武士の服そうは、民衆の服のように動きやすい。これは武士の直垂(ひたたれ)の姿である。襟(えり)が真っ
(た)れているので「直垂(ひたたれ)という。上衣(うえのきぬ)を胸のあたりでしっかりと結び、袴(はかま)も足首でしっかりと結ぶ。太刀(たち)をこしにつける。頭には折烏帽子(おりえぼし)をかぶる。

【民衆(みんしゅう)の住居】
鎧姿(よろいすがた)の武士
腰(こし)の太刀(たち)と手に持つ弓
頭にかぶる兜(かぶと)

 鎧(よろい)を身につけるときには、普段(ふだん)の直垂(ひたたれ)よりも小さい鎧直垂(よろいひたたれ)を着る。左手には籠手(こて)をつける。頭には兜(かぶと)をかぶるが、大変重いため、戦闘中でなければ、家来(けらい)に持たせていた。

 鎧(よろい)は小さな鉄の板を何百枚と革ひもや組ひもでつないで鎧(よろい)を作る。とても重く、地上を動くことは不可能に近い。これは、馬にのって戦うときの鎧(よろい)である。



 武士の女性は、もともと下着であった小袖(こそで)に工夫をこらし、染(そ)めて表着(おもてぎ)とした。染(そ)める技術はこのころから上達し、いろいろな柄(がら)の染(そ)め方が工夫された。髪(かみ)の毛は背中あたりで切り、後ろでまとめられた。

【民衆の服そう】

 民衆の服そうは男性も女性も鎌倉時代(かまくらじだい)とほとんどかわっていない。

 民衆の女性は頭に白い布をまき、働く時にじゃまになる髪(かみ)の毛を頭の上でまとめ、つつんだ。


民衆の女性の服そう
頭に運ぶ物をのせる女性
民衆の男性の服そう
【武士の食事】

 1日の食事が2回から3回になった。品数も豊富になった。武士の家では、専門の料理人が食事を作るようになった。

 質素(しっそ)だが栄養のあるものを食べていた。主食は玄米(げんまい)をかために煮た(にた)おかゆ。おかずはあじを焼いた物、にたなすや野菜の煮物(にもの)、大根のつけ物とうめぼし。味付けにひしおや塩をつけて食べた。


武士の食事
← 玄米(げんまい)のおかゆ
食事の風景
たたみの上で食事をしているのが分かる
【民衆の食事】
いつもの民衆の食事
お祝いの日の食事(想像)

 夕食の食事である。食事の内容は、麦と米をまぜたごはん、焼き魚、ささげの塩づけ、しじみのすまし汁(しる)である。


 お祝いの日の夕食を想像した物である。食事の内容は、たいの塩焼き、こんぶ・ごぼう・いもづるの煮しめ(にしめ)、たこのなます、はまぐりのすまし汁(しる)である。

【武士の屋敷(やしき)】
銀閣寺(ぎんかくじ)の
    東求堂(とうぐどう)
東求堂(とうぐどう)の内部
内部の拡大
   〜「書院造(しょいんづくり)

 武士の屋敷(やしき)のつくりを、書院造(しょいんづくり)という。代表的なものに、8代将軍の足利義政(あしかがよしまさ)の建てた銀閣寺(ぎんかくじ)がある。

 左の写真は銀閣寺(ぎんかくじ)の東求堂(とうぐどう)の様子である。たたみ、ふすま、障子(しょうじ)、付書院(つけしょいん)、床の間(とこのま)、ちがい棚(だな)がある。

 現在の日本の和室のつくりのもととなった。


銀閣寺(ぎんかくじ)
たたみ
ふすま
ちがい棚
付書院
障子

 室町時代(むろまちじだい)の町並みな復元(ふくげん)したものである。船着き場には食べ物や焼き物、油、米を売る店が並び、その先の道の両側に長屋(ながや)風の建物がある。壁(かべ)は土で固められ、屋根は板を重ねて重石(おもし)をのせて、風で飛ばないようにしていた。右の写真では、あらった服やむしろ、おけなどの生活道具がおいてあるのが分かる。

町並みの様子
民衆の家の様子
重石(おもし)をのせた板ぶきの屋根
いろりの周辺
ねどこ
家の土間(どま)におかれたつぼやおけ

 職人の家の様子である。武士の屋敷の内部のすっきりとかたづいた様子とは大違いである。仕事の道具や生活用具などがおかれている。

【農家の住居】
農家の家の様子
 土間の内部の様子
板ぶきの部屋の内部の様子

 豊かな農家の家の様子である。わらの屋根と土壁(つちかべ)で作られている。入り口には馬小屋(うまごや)がある。土間の奥に板張りの部屋が2つある。天井には槍(やり)があり、このころの農民は、戦いになると武士として戦いに出ていった。

 馬や牛も大切な役割を果たし、田おこしやしろかきには牛を、稲束(いなたば)運びには馬を使った。重い税から少しでも生活を豊かにしようとして、農民はいろいろと工夫をした。

 米を収穫した後に、麦や小豆(あずき)、大豆(だいず)などの他の食べ物を植える
二毛作(にもうさく)も行われるようになった。肥料(ひりょう)として、灰(はい)や牛馬の排泄物(はいせつぶつ)を利用するようにもなった。また、このころから米の品種も工夫するようになり、気候(きこう)にあった米を植えるようになった。

 米づくりでも、村全体で力をあわせて行い、自分たちの生活を守っていこうと自治組織(じちそしき)ができた。この自治組織(じちそしき)を
惣(そう)と呼んだ。