室町幕府(むろまちばくふ)の滅亡(めつぼう)について
【室町幕府(むろまちばくふ)最後の将軍、足利義昭(あしかがよしあき)ついて】
付書院
13代将軍 足利義輝(あしかがよしてる)が三好長慶(みよしながよし)と松永久秀(まつながひさひで)に殺されると、弟の足利義昭(あしかがよしあき)は、命の危険を感じ、越前(えちぜん 福井県)の朝倉氏(あさくらし)を頼って落ちのびた。
ここで、足利義昭は、室町幕府(むろまちばくふ)を立てなおすために、越後(えちご 新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)、甲斐(かい 山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)、安芸(あき 広島県)の毛利元就(もうりもとなり)などの戦国大名(せんごくだいみょう)に応援を頼んだ。だが、どの戦国大名も四方に敵をもち、京都に兵を出して、反逆者の三好長慶(みよしながよし)や松永久秀(まつながひさひで)を討つゆとりはなかった。
そこで、足利義昭は、今、売り出し中の織田信長(おだのぶなが)を頼って1568年に美濃(みの)に向かった。織田信長は、この年に大軍を率いて京都へ出発し、戦わずして三好長慶や松永久秀の軍を降伏(こうふく)させた。そして、この年、足利義昭は織田信長によって第15代将軍になることができた。足利義昭は織田信長を「父」と呼び、副将軍にしようとした。だが、織田信長と足利義昭との仲もこの時までであった。
【織田信長包囲網(おだのぶながほういもう)について】
足利義昭(あしかがよしあき)がめざすものは室町幕府(むろまちばくふ)の権威回復(けんいかいふく)と秩序(ちつじょ)の維持(いじ)であった。一方、織田信長がめざすものは、織田信長自身が主君となる新しい全国支配であった。そのため、この2人の間に対立がおこることは当然のことであった。
何の政治的な実権をもたない足利義昭は、ついに織田信長を討とうと計画した。織田信長の周囲の戦国大名に声をかけ、織田信長包囲網(おだのぶながほういもう)をつくりあげた。東の武田信玄(たけだんしんげん)、北の浅井長政(あざいながまさ)、朝倉義景(あさくらよしかげ)、西の石山本願寺(いしやまほんがんじ)、毛利氏(もうりし)と手を結び、織田信長の領地を包囲(ほうい)したのである。
織田信長はこの四方の敵に対して一時的に苦戦をする。武田信玄(たけだしんげん)の出陣(しゅつじん)とともに、足利義昭は京都の二条城(にじょうじょう)で兵をあげるが、武田信玄(たけだしんげん)は途中で病死し、逆に織田信長の兵に二条城を包囲され降伏(こうふく)をした。織田信長は足利義昭を京都から追放し、1573年に約240年におよぶ室町幕府(むろまちばくふ)はほろびることになった。
足利義昭はその後、毛利氏を頼って中国地方にのがれた。
【室町幕府(むろまちばくふ)の滅亡の意味するものについて】
織田信長によって打ちくだかれた室町幕府(むろまちばくふ)や比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)は古い秩序(ちつじょ)の象徴(しょうちょう シンボルのこと)であった。政治の象徴(しょうちょう)が室町幕府であり、宗教の象徴(しょうちょう)が比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)であった。この2つの象徴(しょうちょう)を打ちこわすことによって、新しい秩序(ちつじょ)の時代が到来することを民衆に知らせたのである。
また、朝廷(ちょうてい)などの古い勢力に対しては、その勢力にしがみつくことへの危機感(ききかん)を与え、「革新」に乗り出した織田信長のすることへ、反対することを封じることになった。