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奈良時代の貴族の

     くらし
について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【貴族の服そう】
【貴族の住居】
貴族の男性

 刀をつけ、くつをはいて、笏(しゃく)をもつ。服の材料は絹(きぬ)である。位の高い人の笏(しゃく)は象牙(ぞうげ)でできていた。
貴族の女性

 上半身はうすいあい色の衣服をはおり、その上に背子(はいし)とよばれるベストを重ねる。その上にスカートのような裳(も)をはき、帯でとめた。肩からは領巾(ひれ)とよばれるショールをかける。頭には、かざりをつけ、手にはおうぎをもった。
 
貴族の屋敷(やしき)の内部

 
貴族の屋敷(やしき)

 柱を赤くぬり、かべは白く、屋根は青いかわらをふいている。中国の唐(とう)の建築をまねている。
【貴族の食事】
貴族の屋敷(上から見た所)

 貴族の屋敷(やしき)には、かべで囲まれた屋敷内に池があり、噴水(ふんすい)や水路、木を植えた庭園などもあった。
● たけのこ、菜の花、ふきなどの野菜、
● えび、さけ、たこ、かきなどの魚貝
● きゅうり、なすなどのつけもの
● カモの肉のしる
● ごはん
   など、さまざまの料理が出され、ぜいたくであった。

 なかでも、牛乳(ぎゅうにゅう)から作られた蘇(そ)は
チーズのようで、たいへんぜいたくな食べ物であった。
【貴族の生活】

 このころ、公地公民(こうちこうみん)のため、土地と民衆は国(天皇)のものであった。貴族は土地や民衆を直接所有していない。そのため、貴族の生活は、農民からの税金(租・庸・調)でまかなわれていた。

 貴族たちは役人として、国(天皇)のために働き、国(てんのう)から給料が与えられていた。貴族には、位や役職に応じて、農民がおさめる租・庸・調(そ・よう・ちょう)の一部が与えられた。太政大臣には位封(いふ 位に対する給料のこと)として300戸の農民がおさめる庸・調(よう・ちょう)と租の半分が与えられた。また、季節ごとに絹(きぬ)、綿(わた)なども与えられた。正一位太政大臣になると年収(ねんしゅう)になおして6億円、正五位ならば3000万円、正六位だと700万円になった。

 貴族は税金をおさめなくてもよかったので、農民と貴族の生活の差はくらべようがなかった。このころの貴族の生活は、農民によって支えられていたのである。
貴族の食事
農民の食事
おうぎ
くつ
【奈良の都 〜 平城京(へいじょうきょう)】
平城京(へいじょうきょう)の全体像
中央の大通りは朱雀大路(すざくおおじ)
中央の門は羅城門(らじょうもん)
平城京の中央の様子
天皇の住居や天皇や貴族などが政治を行う役所のある大内裏(だいだいり)がある。
平城京にある寺院の様子
民衆などの住居
【平城京(へいじょうきょう)】

 奈良の都の
平城京(へいじょうきょう)は中国の唐(とう)帝国の都 長安(ちょうあん)を手本にして建設され、710年に移された。平城京(へいじょうきょう)は、南北4.8km、東西5.9kmあり、碁盤(ごばん)の目のように道で区切られていた。

 平城京(へいじょうきょう)には僧、貴族、役人、商人、職人などの住居の他に田や沼(ぬま)などの田園風景(でんえんふうけい)も広がっていた。平城京(へいじょうきょう)には20万人くらいの人が住んでいたと思われる。(日本のこのころの人口は700万人くらいと考えられている。)

 平城京(へいじょうきょう)には市があり、都の人々は市でお金を出して食料や衣服などを売り買いしていた。お金の代表的なものとして
和同開珎(わどうかいほう)とよばれるものがあった。はじめのころは、お金は都でしか通用せず、都を一歩でると通用しなかったとされる。