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島原の乱(しまばらのらん)について





歴史で知りたいテーマのいちらん

【島原の乱(しまばらのらん)の原因について】
付書院

 1634年以来、天候がよくなく、凶作(きょうさく)となり、米があまりできなかった。島原(しまばら 長崎県)の大名であった松倉勝家(まつくらかついえ)は、米や麦の他にたばこやなすの実まで年貢(ねんぐ)として厳しく取り立てた。

 また、松倉勝家(まつくらかついえ)は、年貢(ねんぐ)をおさめない者がいると、みのを着せ、そのみのに火をつけて火だるまにして苦しめたり、妻(つま)や子をつかまえて水びたしの牢屋(ろうや)に沈(しず)めたりして苦しめた。

 島原(しまばら)はもともとキリシタン大名の有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地であったため、農民の心の中にキリスト教が根強く残っていて、農民の中にはキリスト教の信仰(しんこう)を守るために武士という地位を捨て農民になった者もいた。

 有馬晴信(ありまはるのぶ)にかわってこの地方の大名となった松倉勝家(まつくらかついえ)は、
キリシタンの取りしまりと年貢(ねんぐ)の取り立ての2つで成果を上げるために農民に厳しく対応したのだった。

【島原の乱(しまばらのらん)について】

 農民たちは、この松倉勝家(まつくらかついえ)の厳しい対応にじっとがまんをしていたが、1637年、とうとうがまんしきれなくなって代官(だいかん)を殺すという事件がおこった。これがきっかけとなって、農民たちの暴動(ぼうどう)は村々に急速に広がり、これをしずめに出向いた松倉勝家(まつくらかついえ)の軍を逆にうち破り、島原城の大門(だいもん)までやぶられる事態となった。

 この島原の乱(しまばらのらん)におくれること10日後、島原と海をへだてた天草(あまくさ)でも同じような暴動(ぼうどう)がおこった。もと武士であった益田甚兵衛(ますだじんべえ)とその子 天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を中心に島民の4分の1が暴動(ぼうどう)に加わり、代官を殺すという事態となった。

 この暴動(ぼうどう)に驚(おどろ)いた江戸幕府(えどばくふ)の老中(ろうじゅう)の松平信綱(まつだいらのぶつな)は、三河(みかわ 愛知県)の大名の板倉重昌(いたくらしげまさ)に命じ、幕府軍を派遣(はけん)した。

 天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)を総大将とする3万7000人の暴動を起こしたキリシタンと農民軍は、島原の南にある原城(はらじょう)に立てこもった。板倉重昌(いたくらしげまさ)の幕府軍は、原城を取り囲み、何度となく攻めこんだが、原城の農民軍の守りは固く、落とすことができなかった。それどころか、幕府軍の先頭に立って戦っていた板倉重昌(いたくらしげまさ)が鉄砲に撃(う)たれて戦死するという事態となった。

             ↓ 島原の乱(しまばらのらん)の様子













 老中(ろうじゅう)の松平信綱(まつだいらのぶつな)は、その状況を見て、幕府軍12万4000人で原城(はらじょう)を取り囲み、兵糧攻め(ひょうろうぜめ)にした。その上で長崎にきていたオランダ船の力をかりて、海からの砲撃(ほうげき)まで加えた。だが、キリスト教の信仰(しんこう)でかたく結びついたキリシタン農民軍を落とすことはできなかった。

 しかし、翌年1638年の2月が過ぎると、原城(はらじょう)の食料がなくなりキリシタン農民軍の戦う意欲が弱くなってきたため、老中(ろうじゅう)の松平信綱(まつだいらのぶつな)は2月17日に幕府軍に総攻撃を命じた。幕府軍は原城(はらじょう)についに突入(とつにゅう)し、キリシタン農民軍は幕府軍の手でみな殺しにされ、島原の乱はおさえられた。