邪馬台国(やまたいこく)について
【 国の状態 】
30あまりの小さい国を邪馬台国(やまたいこく)が支配する。
【 ふくそう 】
男・・・体や顔にいれずみをしている。
かみを左右でゆい、布を頭に巻きつけている。着物は、大きな布を体に
巻きつけている。
女・・・かみを後ろでたばね、真ん中に穴があいた布をすっぽり頭からかぶっている。
【 生産しているもの 】
稲を植え、米づくりをしている。
かいこ(ガの幼虫)をかい、そのかいこがはき出す糸で布や絹(きぬ)をつくり出す。
【 食べ物 】
米やあわ、ひえを食べる。このほかに、魚の肉、貝、木の実などを食べる。
【 武 器 など 】
青銅(せいどう)、鉄、石、木でつくった剣を身につけていた。
【 身 分 】
大人(たいじん)と呼ばれる身分の高い人と下戸(げこ)と呼ばれる身分の低い人
がいる。
下戸(げこ)は大人(たいじん)に会うと草むらに入ってよけたり、地面に両手をついて
うずくまってあいさつをしたりする。
【 宗 教 】
人が死ぬと、かんに入れてうめ、その上に土をかぶせ塚(つか)を作る。
10日間は、食事をせず、家の中で過ごす。
【 卑弥呼(ひみこ) 】
邪馬台国(やまたいこく)では以前は男子の王がついていたが、数年にわたって
戦争が続いたため、女子の卑弥呼(ひみこ)を王にした。卑弥呼は神のおつげで、
人々をしたがえ、大きなやしきに住み、1000人の女どれい(めしつかい)が身の
回りの世話をしていた。夫はなく、一人の弟が政治を助けた。卑弥呼は光につつ
まれていて、そのすがたを見た者は少なく、やしきは武器をもった兵士が守って
いた。
【 卑弥呼(ひみこ)の死 】
卑弥呼(ひみこ)が死んだ時、歩いて100歩以上(60m以上)もある直径の塚
(つか)を作って、その死を悲しんだ。その時の100人のどれいがいっしょに
うめられたという。その後、邪馬台国内は再び戦争が続いたため、卑弥呼の娘
台与(とよ)または壱与(いよ)が女王となり、戦争をしずめた。
【 邪馬台国のあった場所 】
いまだに邪馬台国(やまたいこく)がどこにあったのかはわかっていない。
有力な場所として2つの説がある。
大和説によると奈良県にあり、やがて大和朝廷(やまとちょうてい)になったとされる。
九州説によると熊本県周辺にあり、大和朝廷(やまとちょうてい)にほろぼされたと
される。
卑弥呼(ひみこ)の服そう(左側)と正装(せいそう)(右側)
【九 州 説】
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【大和(やまと)説】
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【邪馬台国(やまたいこく)と魏(ぎ)帝国との関係】
邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)は、対立する狗奴国(くなこく)を従わせるために、中国の魏(ぎ)帝国に使者をおくり、魏(ぎ)の軍事力を利用して狗奴国(くなこく)を圧倒しようした。魏(ぎ)は、卑弥呼(ひみこ)に「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と呼ばれる銅鏡と「親魏倭王(しんぎわおう)」と書かれた金印を与え、邪馬台国(やまたいこく)が魏(ぎ)の友好国であることを示した。このため、日本の邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)のことが魏の歴史書の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記録として残った。