浪人からのし上がった戦国大名 北条早雲 (ほうじょうそううん) |
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● 活やくした時代 1432年~1519年 戦国(室町)時代 ● 活やくしたこと 1432年 伊勢新九郎(いせしんくろう 北条早雲のこと)が生まれる。 1467年 応仁の乱(おうにんのらん)がおこる。 ↓ 北条早雲は、駿河(するが 静岡県)の大名の今川義忠(いまがわよしただ) の側室(そくしつ)になっている姉の北川殿(きたがわどの)を頼って、今川家 に身を寄せていた。 1476年 今川義忠が殺され、あとつぎ争いが起こる。 ↓ 北条早雲が駿河(するが 静岡県)の守護大名の今川氏(いまがわし) の内乱をおさめる。 ![]() 【今川家のあとつぎ争い】 今川義忠の子の竜王丸(たつおうまる)と一族の今川範満 (いまがわのりみつ)とのあとつぎ争いがおこった。今川家 の家臣は2つに分かれて争いになったが、北条早雲が「今、 2つに分かれて争ったのでは、家がほろびてしまう。」と説 得し、家臣を一つにまとめ、竜王丸を後つぎにした ![]() ↓ 1487年 北条早雲が今川範満(いまがわのりみつ)を討ち、その功績により、 興国寺城(こうこくじじょう)の城主になる。 ![]() 【御由緒家(ごゆいしょけ)】 北条早雲とともに苦労をともにし、「一人でも大名になったなら、 残りの者は、その家来となって大名をになった者をもり立てよう。」 と約束した6人の武士たちのこと、その一族は家老となって北条氏 を支えた。6人は・・・ 大道寺太郎(だいどうじたろう)、多目権平(ためごんべい)、 荒川又次郎(あらかわまたじろう)、荒木兵庫(あらきひょうご) 山中才四郎(やまなかさいしろう)、在竹兵衛(ありたけひょうえ) ![]() 1491年 堀越公方(ほりこしくぼう)の内乱にじょうじて、韮山城(にらやまじょう)に入り 伊豆(いず 静岡県の一部)を支配する。 ↓ 北条早雲は年貢(ねんぐ 米の税金)を軽くし、農民たちの心をつかんだ。 ![]() 【北条早雲の夢】 広い野原にそびえていた2本の大きな杉の根をネズミがかじり だした。やがて、大きな杉はたおれ、ネズミは大きな虎(とら)に姿 を変えた夢を北条早雲は見た。これは、関東を支配している2つの 上杉家(うえすぎけ)をたおし、ネズミ年生まれ北条早雲が関東を 支配する夢だと語った。 ![]() 1495年 北条早雲が小田原城(おだわらじょう)をおそい、城主の大森藤頼(おおもり ふじより)を追い出し、小田原城に入る。 ![]() 【小田原城(おだわらじょう)の攻略(こうりゃく)】 難攻不落(なんこうふらく 攻め落とせない城のこと)といわれた 小田原城(おだわらじょう)を攻略(こうりゃく)するために北条早雲は 計略をめぐらした。まず、伊豆(いず)の鹿(しか)やいのししが小田 原の方に逃げ込んだため、伊豆へ追い返すために狩人(かりゅう ど)を小田原に入れる許しを大森藤頼(おおもりふじより)からもらっ た。北条早雲は狩人に変装させた兵士を小田原にいれ、多数の牛 の角にたいまつを取り付け、小田原城に突入させた。火の大波が 押しよせるような光景に小田原城は大混乱し、やがて落城(らくじょ う)した。 ![]() 1501年 北条早雲が甲斐(かい 山梨県)に入り、武田信綱(たけだのぶつな)と戦う。 1516年 北条早雲が三浦義同(みうらよしあつ)をほろぼし、相模(さがみ 神奈川県) を支配する。 1518年 北条早雲が隠居(いんきょ)し、子の北条氏綱(ほうじょううじつな)が後をつぐ。 1519年 韮山城(にらやまじょう)で病死(88才) ● 人 物 評 北条早雲は、一代で関東を支配する戦国大名にのし上がった人物である。だが、それまでの苦労をした生活を忘れることはなかった。苦労をともにした6人の仲間たちを家老にして、北条家を支える存在とした。また、年貢(ねんぐ 米の税金)を軽くするなど、農民への配慮(はいりょ)も忘れなかった。北条家はこれ以後、関東の農民たちから慕(した)われることになる。北条氏は豊臣秀吉(とよとみひでよし) によってほろぼされるまで、関東を支配することになるのである。 |