鎌倉幕府の基礎(きそ)を築いた名執権(めいしっけん)

  北条泰時 (ほうじょう やすとき)
  
● 活やくした時代   1183年〜1242年
                鎌倉時代(かまくらじだい)

● 活やくしたこと

  1183年 北条泰時が北条義時(ほうじょうよしとき)の長男として生まれる。

  1192年 源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となる。

        
           頼朝が自分の前で無礼(ぶれい)なことをした御家人(ごけにん)を
         罰しようとしたとき、北条泰時は逆に強くかばった。源頼朝は、「幼いな
         がら、やさしい心の持ち主だ。」と北条泰時をほめ、刀を与えた。
        

  1199年 源頼朝が死ぬ。

  1203年 2代将軍源頼家(みなもとのよりいえ)が伊豆(いず 静岡県)に流され、
         源実朝(みなもとのさねとも)が3代将軍になる。

  
1205年 父の北条義時(ほうじょうよしとき)が祖父の北条時政(ほうじょうときまさ)に
         かわって執権(しっけん 将軍を助ける役目)になる。


  1213年 執権の北条氏が政治を動かすことに反対した和田義盛(わだよしもり)が反乱をおこす。
            ↓
         北条泰時が和田義盛(わだよしもり)の反乱をおさえる。

  1219年 3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺される。

  1221年 
承久の乱(じょうきゅうのらん)がおこる。

        
          【承久の乱(じょうきゅうのらん)】
             朝廷が鎌倉幕府から政権をとりもどそうとした戦争
   
           [ 朝 廷 ]    対    [ 鎌倉幕府 ]
            後鳥羽上皇         執権 北条義時
                                 北条政子
        
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         北条泰時が鎌倉幕府の大軍に率いて京都に攻めこみ、後鳥羽上皇の軍を破る。
            ↓
         北条泰時が京都で六波羅探題(ろくはらたんだい 朝廷を監視する役職)になる。

  1224年 父の北条義時の急死により、北条泰時が執権(しっけん)になる。
            ↓
         鎌倉幕府を支えてきた北条政子(ほうじょうまさこ)や大江広元(おおえのひろもと)
         が亡くなり、鎌倉幕府を北条泰時が一人で支えることになる。

  1225年 北条泰時が叔父(おじ)の北条時房(ほうじょうときふさ)を
        
連署(れんしょ 執権を助けて協力する役職)にする。

         北条泰時が
評定衆(ひょうじょうしゅう)を置く。
            評定衆(ひょうじょうしゅう)…重要な政務を話し合いで決める役職

  1232年 北条泰時が
御成敗式目(ごせいばいしきもく)を決める。 

        
          【御成敗式目(ごせいばいしきもく)】
             最初の武士の法律 51か条からなる実用的な法律
             裁判(さいばん)の基準、領地の支配の基本などが決めら
             れている。
        

  1242年 病死(60才) 


● 人 物 評

 源頼朝(みなもとのよりとも)が築いた鎌倉幕府の土台を安定させたのは、北条泰時といえるだろう。
北条泰時は、だれよりも源頼朝を尊敬(そんけい)し、彼を手本にしたという。もしかすると、源頼朝のあとつぎは、彼の息子の源頼家(みなもとのよりいえ)や源実朝(みなもとのさねとも)ではなく、自分だという思いがあったのかもしれない。その思いのとおり、北条泰時は鎌倉幕府を安定させるためのしくみを作り上げていく。鎌倉幕府を育て上げたのは北条泰時と言えるだろう。

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