藤原氏で最初の摂政

   藤原良房 (ふじわらのよしふさ)
 
● 活やくした時代    804年〜872年
                平安時代

● 活やくしたこと

   804年 藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)の次男として生まれる。

   814年 藤原良房が嵯峨天皇(さがてんのう)の皇女(こうじょ)潔姫(きよひめ)と結婚する。

   826年 父の藤原冬嗣が亡くなる。

   836年ごろ 藤原良房が権中納言(ごんちゅうなごん)になる。
           → 仁明天皇(にんみょうてんのう)の女御(にょうご 天皇の妃)となっていた
              藤原良房の妹の順子(のぶこ)が出世の力となる。 

   842年 承和の変(じょうわのへん)が起こる。
             ↓
         道康親王(みちやすしんのう)が皇太子になる。
        
         【承和の変(じょうわのへん)】
           伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)が、仁明天皇
          (にんみょうてんのう)を退かせて、恒貞親王(つねさだしんのう)を天皇に
          しようとした事件。伴健岑(とものこわみね)と橘逸勢(たちばなのはやなり)
          は流罪となり、恒貞親王(つねさだしんのう)も皇太子をやめさせられる。
                    ↓
           これにより、藤原良房の妹の順子(のぶこ)が生んだ道康親王(みちやす
           しんのう)が皇太子になった。
        

   848年 藤原良房が右大臣になる。

   850年 仁明天皇(にんみょうてんのう)が亡くなり、道康親王(みちやすしんのう)が即位(そくい)
         して文徳天皇(もんとくてんのう)になる。
         (藤原良房は文徳天皇(もんとくてんのう)の叔父(おじ)になる)

   857年 藤原良房が太政大臣(だいじょうだいじん)になる。

   858年 文徳天皇が亡くなる。
            ↓
         文徳天皇と藤原良房の娘の明子の間に生まれた惟仁親王(これひとしんのう)が
         即位(そくい)して清和天皇(せいわてんのう)になる。
         (清和天皇は藤原良房の孫ということになる。)
            ↓
         藤原良房が9才の清和天皇にかわって政治を行う。

   866年 応天門の変(おうてんもんのへん)がおこる。
        伴善男(とものよしお)が伊豆(いず 静岡県)に流される。
            ↓
        貴族の名門の伴氏(ともし)や紀氏(きし)を朝廷から追い出し、
        藤原氏の優位を確立する。
            ↓
        藤原良房が摂政(せっしょう)になる。

   872年 病死する。(69才)


● 人 物 評

 藤原良房が摂関政治(せっかんせいじ)の基礎をつくったといえるであろう。藤原良房が摂政(せっしょう)になるまでの過程を見てみると、天皇家と親戚(しんせき)関係となり、やがて幼い天皇の祖父となり、天皇にかわって政治を行うというものである。この手法は、以後、藤原氏によってたびたび使われる手法である。藤原道長(ふじわらのみちなが)もこの手法によって摂政(せっしょう)となった。そして、この手法がうまくいかなくなったとき、藤原氏による摂関政治が終わることになるのである。


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