枕草子(まくらのそうし)を書いた女性 清少納言 (せいしょうなごん) |
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● 活やくした時代 964年ごろ~ ?年 平安時代 ● 活やくしたこと 964年ころ 清原元輔(きよはらのもとすけ)の次女として生まれる。 清原氏(きよはらし)の娘なのでその「清」をとって、 清少納言(せいしょうなごん)と呼ばれる。 974年 父の清原元輔が周防守(すおうのかみ 山口県の国主)となったので、 清少納言も父とともに山口県に行く。 978年 清少納言が父の清原元輔とともに京都に帰る。 981年 清少納言が橘則光(たちばなののりみつ)と結婚する。 982年 息子の橘則長(たちばなののりなが)が生まれる。 991年 清少納言が橘則光との結婚生活に破れて離婚する。 993年 清少納言が一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮(ちゅうぐう 天皇のきさき) の定子(ていし)につかえる。 ![]() 【香炉峰(こうろほう)の雪】 ある冬の雪のふった日、中宮(ちゅうぐう)の定子(ていし)が 「香炉峰(こうろほう)の雪はどんな風でしょう。」 とたずねたときに、 清少納言は、すぐに立ち上がって、御簾(みす すだれのこと)を高く巻き上げ、 雪景色を見せた。 なぜ、そのようなことをしたかというと、中国の唐(とう)の詩人で白居易 (はくきょい)が作った詩に、 「香炉峰(こうろほう)の雪はすだれをかかげて見る」 という詩があるので、清少納言はその詩のとおりの行動をしたのです。 他の人びともこの詩は知っていたのですが、とっさにこのような行動が できたのは、清少納言だけでした。 このことから清少納言の機転(きてん)の良さを認められました。 ![]() ↓ 宮廷の生活の様子や自然、人生などの観想や評価、批評(ひひょう) などを書いた「枕草子(まくらのそうし)」を書き始める。 995年 中宮(ちゅうぐう)定子(ていし)の父の藤原道隆(ふじわらのみちたか)が死ぬ。 ↓ 清少納言は父の後ろだてを失った中宮の定子(ていし)をもり立てて、支える。 1000年 2月に定子(ていし)が皇后(こうごう 天皇の正式なきさき)になるが、12月に 亡くなる。 1001年 清少納言が宮廷(きゅうてい)を退く。 このころに「枕草子(まくらのそうし)」がほぼ完成する。 1017年 「古事談(こじだん)」に清少納言が尼として生きていたという記録が残っている。 ● 人 物 評 清少納言は女性のなかでもすご腕であると言えるだろう。学問にすぐれて、現在でも読みつがれる「枕草子(まくらのそうし)」をかき上げた人物だからである。「枕草子(まくらのそうし)」を読めば、その感覚のするどさにおどろくであろう。その感覚のするどさは現代でも通用するところがある。このようなすばらしい才能をもった清少納言ではあるが、老後は不幸であった。すっかり落ちぶれてしまい、さみしいものであったと言われている。人生はなかなかうまくいかないものである。 |