夢一夜鈴蘭
目覚めた時彼は一人だった―― 「ゥン………」 気の抜けた息を吐き出し、寝返りを打つ。つけっぱなしのテレビからは早朝ワイド番組の騒々しいアナウンサー達の掛け合いが流れていた。リビングでうたた寝したまま朝を迎えたらしい。不自然な体勢での眠りに寝覚めは悪く、彼はコキコキと軽い音させながら首を回した。大きく伸びしながらおもむろに立ち上がる。 空腹を満たすためにキッチンを漁ると、いつの物かわからない食パンを袋の中から一枚抜きだしかぶりついた。冷蔵庫を開き、牛乳を取り出し直接ラッパ飲みする。パック牛乳をしまう時、奇妙な違和感を覚えたが深く考えずに閉じた。 頬杖をついて、しばらくぼーっとスポーツや芸能ニュースを眺めていた彼は誰にともなく呟いた。 「することもねぇし……学校行くか」 ソファの背に放ったままの制服を着込む。玄関で靴を突っかけながら肩越しに見た部屋の中が、今日はやけに広く感じられた。何かが、というより誰かが欠けているような物足りなさ……どうしてそんな風に思うのか、不思議だった。父親からこのマンションを与えられてから、彼はたった一人で暮らしている。それを寂しいと思ったことはない、筈だった。 ドアを閉じる時、何かの微香が掠めた。それが目覚めてからずっと周辺に漂っていることに、彼は気づかなかった。 学校に着いた彼は自分の教室へ向かう、予鈴は鳴っているが上手いこと教師にも見咎められずにすんだ。 「おっ、珍しいー。お前が一限から来るなんてよ」 「うっせぇーなぁ。気が向いたんだよ」 クラスメイトがはやしてくるのに乱暴に答える。ホームルームが終わったばかりの教室、遅刻には違いないがそれでも彼にしては早い方だ。鞄を机の中に突っ込んで、授業が始まる直前のざわついた室内を見回した彼の目が一カ所に止まる。 廊下から四列目、前から三番目の中央の席がぽっかりと空いている。 「来てないのか?――が来てないなんて……」 意外そうに呟いた彼だが、一体誰を思い浮かべたのかすぐに疑問に感じて黙る。 「何言ってんの、お前。その席前から空いてるじゃん」 「そうだよなぁ……」 「慣れない早起きで寝ぼけてんだろ。雨降らすんじゃねぇぞ」 「バカ言え」 文句を言ったところに教師が来た。一限目は退屈な古文の授業。だらだらと席に着く級友達の中、―まるで朝からの自分の心の中のような―欠けた空席の事を彼は見つめていた。 ようやっと、終業を迎えた彼はいつものごとくゲームセンターに寄った。が、今日の成果ははかばかしくなく、早々に引き上げた。夕闇の街を歩くその彼を呼ぶ声がした。 「おにいちゃん!」 全開の笑顔で少女が飛びついてくる。 最近では学校にも慣れて友達も出来たときくが、彼といる時が一番楽しいとてらいもなく言ってくれる小さなガールフレンドが。 「おう、どうしたんだよ今日は」 下校途中の街での思いがけない出会いに彼も心底からの笑みで答えた。 「うん、お使い」 「一人でか? 大丈夫なのかよ」 「平気よ。もうすっかり元気になったんだから、お使いだって一人で出来るもの」 大きく頷いた少女は彼の腕にまとわりつく。身体の弱かった彼女も今ではかなり普通の生活を送れているようだ。 「そうか、じゃあ今度ディズニーランドも行けるかもな?」 「本当?! 本当に連れていってくれる? いつ、おにいちゃん」 軽い一言に興奮した彼女は腕を掴む指に力を込めて、彼を見上げてくる。 「いつって、気が早いなぁ。痛ぇよ、そんなに掴んじゃ……夕姫?」 苦笑で答えた彼と視線を合わせた途端、急に静かになった少女の名を呼ぶ。彼女はじっと彼に心配そうな瞳を向ける。 「おにいちゃん、なんだか寂しそう―――」 「――んなこと、ないよ。……そうだ、ディズニーランドのことはお母さんに訊いてから、な。約束だもんな」 彼女の不安を払うように軽く言ってみせた彼に、気を取り直したのか勢い良く頷いた。 「うん!――あのね、今度あたしのお友達紹介するね。だからおにいちゃんのお友達にも会わせて」 「えっ―――オレの?………まっ、その内な、」 無邪気な彼女に彼は慌てながら言葉を濁した。彼の友人関係はとても純真な少女に紹介出来るような立派なものではない。だいたいこんな年の離れたガールフレンドを見せでもしたら…… 「――オレ、ダチ会わせたことなかったっけか……」 ろくでもない友人達の顔を思い浮かべていた彼は、またしても奇妙な感覚に囚われて訊ねた。 「?……うん、どうして?」 その答えにフッと笑みを見せる。 「そうか、そうだよな。――よし、今日は家まで送ってってやるよ」 「ヤッター!」 彼女の小さな手をつなぎながら、彼は夕暮れの商店街を後にした。 送っていった彼女の家で恐縮しながら夕食をごちそうになって、帰宅した彼が見上げたマンションの部屋の窓には当然灯りなど点いていない。 鍵を開けて、電気を点けないまま中に入る。ベランダからの月明かりだけが差し込む部屋は、朝出かけた時と何一つ変わらなかった、脱ぎ散らした服やパン屑が床を汚しているのもそのままだ。もちろん片づける気もない。 「――――」 何の音もない、空間に微かに漂うものがあった。探すように巡らせた彼の瞳に映ったのは、一輪の花。 ひっそりとその存在を示す窓辺の花。彼が名前も知らない美しい花を見つめているうちに視界がぼやけた。 寂しい、哀しい、そして懐かしい………。そんな感情がいっしょくたにこみ上げて―― いつしか、彼の頬を雫が伝う。溢れては落ちる、その涙を拭いもせずに彼は立ち尽くしていた。 昨日も、今日も、彼は一人でこの部屋で暮らしてきた、そして多分明日も。以前から何一つ変わりなく。 学校に行き、街に繰り出し、仲間達とバイクを転がし、小さな夕姫と遊びにでかけ―――そんなことが何一つ変わりなく。 だが、この胸の中の空白はなんだ……? 何かが抜け落ちたような、失ったかのような切なさ、その理由は彼には全く覚えのないことだった。 やがて、彼を照らす月明かりさえも雲間に隠され、もう涙を光らせはしなかった―― 「――っ、………」 耳を打つざわめきが少しづつ大きくなり、彼の眠りを破った。 「――る、透。いい加減に起きなよ。もう授業は終わったよ」 誰かが肩を揺する。その動きが段々と激しくなりぼんやりした頭で彼はゆっくりと眼を開いた。目線が低い。 「し、東雲……?!」 身体を起こした彼は、ガシッと友人の肩を鷲掴みにした。 「な、なんだい、急に……」 鬼気迫る形相で間近に迫ってくる彼に東雲は慌てた声を上げる。 「おまえ、――東雲、だよな。……蕾も、薫さんもちゃんと、いるよな……!」 眼を見開いて瞬きをした東雲はわずかの沈黙の後に、冷静に答えた。 「何言ってるんだ透………ここは学校だよ、二人がいるわけがないだろう」 「だー、もう!……そういう意味じゃねえよ!」 真剣な自分の問いを簡単に受け流され、脱力して透は机に突っ伏した。 「また寝るのかい? そろそろ昼食の時間だ。どうせなら昼寝は食べてからにしたらどうだい」 「ちげぇーよ、まったく……たまに人がマジでいりゃあ――」 ぶつぶつと文句をいいながら、彼はホッとしていた。 あれはただの夢だ、透の口元には自然と笑みが浮かんでいた。その彼の前に白いハンカチが突き出される。 「何だかわからないけど透、笑うのは涎を拭いてからにした方がいいよ」 「うっ、うっせい!」 出されたハンカチを無視し、制服の袖でゴシゴシと口を拭く。苦笑してその様子を見守っていた東雲は、やれやれとばかりにハンカチをしまう。 「君といい蕾といい、人の好意を無にするのだからね」 「そりゃ、おまえに貸しつくると後が恐そうだからだろ」 ニヤリと下品に笑う透に東雲は片眉を上げて不快そうな顔をしてみせる。 「――飼い犬は主人に似るって言うからね、仕方ないけど。一緒に住んでるからって口の減らないとこまで似なくてもいいよ」 「誰が犬で、どっちが主人だ!――ったくよー、口の減らないのはどっちだよ」 口を尖らす透の頭を東雲が何かでポンと叩いた。 「なんだこれ……げっ、漱石?」 「よくお休みでいらした透どのに進呈しましょう。感想は来週提出するように」 渡された薄い文庫本を手に透は大袈裟に眉をしかめた。パラパラとめくっている彼を後目に、じゃあと席を離れる東雲の背を透はケッと呟いて見送った。 出された課題を確かめる為に黒板に眼をやる。透が居眠りをしていたのは現国の授業、初めの方の記述には記憶があった。両手の甲に顎を乗せ、それをしばらく眺め彼は呟いた。 「………百年待ってください――か」 (あいつら相手じゃ洒落にならないな…) と、東雲が離れた後に彼はこっそりと本音を漏らした。 しかし、透の気持ちは意外にさばさばしていた。考えたって始まらない、奴らと自分は違うのだ。だったら、人間さまの身ではなかなか味わえない貴重な体験を楽しむまでだ。 立ち上がった彼は手近な級友を見つけ、告げる。 「これでオレふけっから、後はよろしくな」 鞄と東雲に渡された本を片手に、透はさっさと教室を後にした。 帰ったら、蕾や薫にこの話をしてやろう。蕾は笑うか、『くだらん』とでも言うだろう。薫は、きっと驚いて……だけど真剣に聞いてくれる。東雲は、 (――まぁ、あいつは置いといて……) そんなことを考えながら、自宅のマンションに帰る透の足はどんどん速まっていった。 透と東雲の教室の黒板に、所々掠れた白墨の文字が連なっている。 夏目漱石 【夢十夜】 そのシンプルなタイトルのわずか三十頁にも満たない短編の簡単な内容と共に、印象的な冒頭の書き出しが書かれていた。 透が友人達に語るであろう第一声と同じ一言目が、 『こんな夢をみた。』――と。 ◆神葉樹譚 目次◆ |