星羅棋布

闇色の瞳

 【1/3】 



 窓の外の風の音もドアを隔てた廊下を行き交う寮生達のざわめきも…室内の思い沈黙を和らげる効果はなかった。
(まただ……)
 チリ――、と刺すような視線が若島津を射ぬく。
 先に練習中に感じたのと同じ感触…いや、それよりももっと前から――? 何時からであったかを思い起してみるが、それははっきりとはしなかった。
 一向に去らないこの頭痛と共に、薄く靄が掛かったかのような不確かな感覚が若島津を悩ませていた。



ACT.1 彼女

 煩雑に掛けられたカーテンでは、陽光を完全には遮れずに埃っぽい室内の所どころに光の束を落していた。

 【準備室】と札が掛かったその小さな部屋は、実際には体のいい物置き。大掃除の時にしか風の入らぬ黴臭い小部屋にも、昼休みの喧噪は届いていた。それが置き去りにされたようなこの空間に、唯一時の経過を運んでくるようであった。

「若島津くん、そっち持ってくれる?」
 鮮やかな緑色のリボン揺らして槙原彩子が振り返った。側の若島ズに呼び掛ける彼女の動きに連れて、軌道を描くポニーテールが時々肩を掠める度に爽やかな香りが漂った。
「そんなに持ちきれないだろう。それも貸せよ」
 両手に教材を抱え荷物の間から顔を覗かせている彼女から、一番重そうなスクリーンを若島津が抜き取った。
「えっ、でもそれ重いのに。悪いから…」
「だったら尚更持たせられないだろ。それに全然重くなんかないぜ」
 右手にスクリーンを持ち、すでに持っていた映写機を軽々と持ち上げてみせる若島津に、心配そうだった彼女の表情が和らいだ。
「うん、そうね。私が持つより危なげないみたい」
 丈の長いそれは槙原の手に余る。彼女も低い方ではないが、若島津と比べればゆうに10センチは身長差があった。
「あたり若島津くんと日直で得しちゃったな」
 ニコニコっと、書き文字したくなるような笑顔で槙原が云った。
「うちのクラスの男子って、大抵女子に任せっきりでしょう。高等部の校舎って特に広いから、取りに行くのにも時間がかかるじゃない。一年の時は苦労したわ」
 彼女の愚痴に若島津は同意を示して苦笑した。気を良くしたのか彼女はなおも云い募る。
「反町くんは例外としても…あとね、無愛想だけど頼めばちゃんと手伝ってくれるのが日向くんかな」
 何気なく口にされたその名に若島津は一瞬ギクリとした。思わずスクリーンを握る手に力が入る。
「恐そうって皆敬遠してるけど、あれは気が回らないだけみたいだから…」
 幸いなことに自分の話に気をとられている槙原はそれには気付かなかったが、彼の沈黙を別な意味に取った。
「――あ、ごめんね。別に日向くんの悪口言ってるんじゃないのよ」
 反応のない若島津に槙原が気まずそうに様子を伺った。
「いや、悪口だなんて思わないよ。どうして……?」
 彼女が自分に謝る理由がわからずに、逆に訊ね返す。
「だって日向くんと親友じゃない? やっぱり友達が色々言われてたら気分悪いものね」
「―――そういうもんかな」
 相アミに若島津は応えた。自分と日向との関係を表すのに、“親友”などという云葉は的確ではないと思ったが口にはしなかった。
「そう思えばうちのクラスって結構人材豊富なのよね」
 フフッと思い出したように槙原が瞳を細めた。
「でも一番はやっぱり反町くんかしら、女子にはやたら親切だし」
 大きな瞳をクルッとさせて笑う。話題が日向が自分の事から逸れたことと、彼女の言外に含まれる面白がる響きに若島津もホッとして笑う事が出来た。





ACT.2 友人


「何だって?」
 隣で同じように柔軟していた反町のお喋りを適当に相槌打っていた若島津が、その動作を止めて顔を上げた。
「チェッ、お前俺の話なんか聞き流してたくせに、そこんとこだけはしっかり聞いてるのな」
 反町の云葉にムッとした顔を向けた若島津を制して、そのまま続ける。
「いいけど―――日向さんさ、最近機嫌悪いんじゃない? 何か苛立ってるみたいで…。お前心当たりな?」
 反町が屈伸を続けている若島津の横で、座り込んだ膝に顎を乗せ上目使いに問う。
「さあな――。何で俺に聞くんだよ」
 反町の珍しく真面目な瞳にはわざと気付かない振りで、素っ気無く若島津は応えた。
「まあ、変なのは日向さんだけじゃないけどさ」
 不満そうに反町は呟いた。含みのある云い方に、幾らか剣のある口調で若島津が訪ねると、
「何だよ」
「別にィ」
 と一端は返した反町だが、すぐに何事か思い付いてシナを創って若島津にすりよってきた。そして、
「だって、若島津くんと日向くんって親友じゃない」
「――! お前、」
 荒げた声に一瞬周囲の者が顔を上げたが、すぐにそれぞれの練習に戻る。
「盗み聞いてたな」
 若島津が周りを気にして声を潜め、反町を睨み付ける。
「人聞きが悪いね。たまたま通りかかったら聞こえただけ。廊下なんかで話してるからさ。いいじゃん、聞かれて困る事言ってたわけじゃないだろ?」
「当り前だ」
 不機嫌に応える若島津の肩を、反町がポンポンと両手で叩く。
「そんなに目くじら立てないでよ。でもさ冗談抜きにして、良い雰囲気だったから声掛けそびれたんだぜ」
「別に……」
 そんな事はない、と否定しかけた云葉は、続けられた反町の科白によって止まる。
「お前が愛そういいのは知ってたけど、何か仲良さそうでさ。日向さんも驚いてたみたいだから」
 身体の強張りを隠しながら、反町を眼を合わせた。
「そうだな。槙原はいい子だよ…」
 一体何を喋っているのだろうか…。若島津は思う。口だけが別な生き物のように勝手に云葉を綴っている。
「珍しい。お前がそんなにはっきり褒めるなんてさ」
 本気で驚いている反町に殊更に余裕の表情を作ってみせた。
「何の話しだい。反町、岩見キャプテンが柔軟終ったらフォーメーションに入れってさ」
 いつの間にか傍にきていた島野が指示を伝える。
「いい所に来た、島野。聞いてくれよ。健ちゃんに春が来た話」
「春? 今は夏だよ」
 何処か惚けが調子だが、付き合いの良い島野は律儀に会話に参加する。
「反町」
 たしなめる若島津をものともせず、島野の首に腕を回してその耳に反町が囁いた。
「うちのクラスの槙原知ってるか」
「槙原…? ああ、あの割と美人の。それが若島津の春なのか」
 少し考えて、それに該当する女生徒を思い浮かべた島野の答えに満足して反町は続ける。
「勘がいいじゃないの、島野君。そうそう、俺も前から眼をつけてたんだけど。まあ、相手が健ちゃんじゃ譲ってあげようかと思ってね」
「譲らなくても最初から相手にされてないって」
 幼馴染みの突っ込みにに、反町が島野の首を締めつけている。と――
「反町! 何やってる!!」
「わ、ヤベっ…。はいっ、スイマセン!」
 岩見の怒鳴り声に島のを離して慌てて駆け出す反町を見送って、ホッと息をついた島野は若島津に向き直った。
「反町に言ってたの、いいのか?」
 噂になるのを承知しているのかと問うている。会話の最中に一度も槙原に対する否定の云葉を云わなかった若島津に、噂になるぞ…といかにも心配性らしい島野が訊ねた。だが、
「そうだな、物怖しないし、馴れ馴れしくないところとか気に入ってるかな」
 意外そうな顔をする島野に、若島津も笑みさえ浮かべて見せた。
 確かに嘘ではない。槙原の性格と好ましいと思っている。けれど、それはあくまでも友人としての事で…これでは本当に誤解してくれと云っているようなもだ。
「好きだな。ああいうタイプ」
 けれども云葉は止まらなかった。ダメ押しのように呟いた若島津は、同時に背に突き刺さるような視線を感じる。振り返らなくても解る、日向だ。
 無関心を装いながら眼の端でずっとその姿を捉えていた。
 今の話を聞いていた? 多分、そうなのだろう…。振り向けないのは、自分が異常なほど日向の動向を気にしているから―――。
「俺達も練習に入ろう」
 そう促す島野の声に、上の空で若島津は頷いた。

 ズキッ、微かな頭痛――。自分は何かを忘れている。
 何故かは解らない。けれど若島津は自分が追い詰められている、と思った。




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