星羅棋布

闇色の瞳

 【2/3】 




ACT.3 日向


 ギシッ、スチールの椅子が嫌な音を立てて軋んだ。
 静かな部屋に異様に響くそれに、若島ズの身体に緊張が走った。
 自分と同じように机に向っている日向が、僅かに足を組換えただけらしい。
 沈黙が息苦しくて、コホッと漏らした自分の咳がやけに大きく響いて更に若島津は身を縮こまらせた。
 若島津の机の上に開かれた教科書の頁が先ほどから少しも進んでいないのを、日向はとっくに気付いているだろう。
 こんな風にまるで時間を過ごしているのはきっと自分達だけだろう。時計は十時半を少し過ぎたばかり、寮生達にとって消灯を待つだけの今時が一番に寛げる時間であるはずなのに、張り詰めた空気が重い。
 だが、何処かに逃げ込もうにも食堂も娯楽室も締められてしまっている。

 若島津も日向も、普段から一緒に居ても云葉を交す事は少ない。云葉を惜しんでいるわけではないが、必要な事以外、いやひょっとしたらそれさえも口にしなかったような気がする。
 kれどそれを不自然だと感じたことはなかった。云葉など無くても自分達は解りあえている、明確にではなく信じていたと思う。確かに周りが二人を親友だというのも、それならば理解出来た。
 ではこの状態は――。息を詰め、日向の一挙一動に神経を擦り減らしている自分。何時から…、何故?
 押しつぶされそうな圧迫感に若島津は殊更に派手に音を立てて立ち上がる。その行動を追う日向の視線を十分に意識して、棚の上のラジオのスイッチを入れた。
 たわいもない話題を高いテンションで語るDJに、舌足らずなアイドルの歌。どうせ聞いていないのだ、この沈黙を紛らわせてくれる物なら何でも良かった。
「―――!」
 日向が、見つめていた。
 振り向いたまま出会った真正面からの視線に、さすがに知らぬ振りは出来なくて云葉を投げた。
「何…ですか」
「別に――用が無いと見ちゃいけないのか」
 ぎこちない若島津の態度に冷笑さえ浮かべて、逆に日向か訊く。
「いえ、そんな事ないですよ。……厭きたならコーヒーでも入れますか?」
 湯飲みを入れたガラス戸棚に手をかける。上手い口実を思い付いた、ポットのお湯がないのを若島津は知っていた。取り敢えずこの部屋から逃げ出すことが出来ると思った矢先…。
「いらねぇよ。第一厭きたわけじゃやないからな」
 椅子に片膝を立て、その上に軽く顎を乗せた姿勢の日向は一度も若島津から視線を逸らさない。
「珍しい事もあるもんだ、随分熱心ですね。明日あんた、当るんですか」
 出鼻を挫かれて所在なげに佇んでいた若島津が、幾分緊張を解いて不機嫌な声でからかう。
「勉強なんざしてねぇよ」
 口許を皮肉気に歪ませながら、立ち上がった日向が若島津の方へと一歩踏み出した。
「――お前見てたんだからな」
「………」
 反射的に若島津は顔を背けた。無造作にポットを掴む。
「あんたがいらなくても俺は飲みたいんで、ちょっとお湯取ってきます」
 聞こえない振りで、日向に背を向けた若島津が出て行く為にドアノブに手を掛けた。
「――――!」
 回しかけたその手を、彼とは色を異にする陽に焼けた日向の腕が押し止めた。咄嗟の異に対応しきれずに若島津の身体が硬直する。
「待てよ」
 日向がその耳元に低い声で囁いた。
「何処行くんだ。もう給湯室、閉まってるぜ」
「あんた何言って……」
 寮のボイラーの灯が十一時まで落されない事を、日向が知らない筈はない。思わず振り返った若島津は、日向の真剣な瞳に口籠った。
「閉まってるんだよ。――俺がそう決めた」
 トンッ、と日向か右手をドアについた。左手はノブを握る彼に手に重ねられ、若島津は完全に動きを封じられる。
 ただでさえ間近に感じるのに、日向が喋る度に頬に当る息遣いを避けるように若島津が俯いた。
「じゃあ、他で貰ってきますから、退いて下さい…」
「ダメだ」
 間髪を入れずに強い口調で否定されて、初めて若島津は日向を睨み返した。
「何の権利があって――! あんたにそんな事言われなきゃならないんです」
「お前こそ、何考えてんだ。出ていったら今夜は帰ってこないつもりだろ」
 一向に怯まずに云い返される、見透かされたようで若島づは瞳を伏せてしまう。
「――どうしてそんな事、俺がしなくちゃならないんです」
 そう応える云葉には全く力がない。一旦は怒りを覚えた若島津だが、何故だか日向には己の方が正当だと思わせてしまうところがあって、彼は何時も分が悪いと思う。
「それは俺も聞きたいぜ」
 云いながら日向の手がノブを掴んだままの若島津の手をゆっくりと外し、二の腕を引いて対峙するように向き直らせた。
「……本気で槙原と付き合う気なのか?」
「―――」
 応えない若島津に焦れた日向が、その両肩を握りしめた。普段日向であれば彼の古傷を思いやって、決してこんな不用意に力を加えてくるような真似はしなかった。その煮詰まり具合が知れた。
「またいつもの気紛れか? 本気で惚れてるわけでもねぇくせに」
「いつもって、何のことです。大体、俺がどうしようが――ツッ!」
 睨みつける若島津を許さず、日向が彼の方を握る指に力を込めた。
「関係ねえ、てか……ここんところのお前の態度にはいい加減イライラするぜ」
 日向は吐き捨てるように云うと、若島津を乱暴に壁に叩き付けた。
「―――何をそんなに怒ってんです。これ以上理由のわからない事を言うなら、あんただって容赦しませんよ」
 若島津が苦しい息の下から非難の眼を向けた。壁に叩きつけられた背の痛みより、痕が残る程にきつく掴まれた肩を庇う。
「面白れぇな。どう容赦しないか教えて貰おうじゃないか」
 壁に寄り掛かる彼に不敵な笑みを浮かべる日向。延びて来る腕に反射的に身構え若島津の身体を、遠慮のない力で抱き締めた。
「な――何っ…やめろよ!」
 予想外のことに驚いて、自分の首許に埋められた日向の髪を引っ張った。なんとか日向を引き剥がそうとするがまったくといっていいほど力が入らなかった。
「どうしたんだよ。その気になりゃあ俺なんか簡単に叩きのめせるだろう」
 実際、若島津を困惑させていたのは日向の行為ではない。首筋や項を滑る硬い髪、骨ばった指が身体を這い回る感触を自分が知っている事にだった。
 反対に若島津の抵抗に、さほどイメージを感じていないらしい日向の声音には余裕さえ感じられて…。
「さっきから何だって言うんですか。ふざけるのは―――」
 云葉か続けられない。
 前にも似たような事があった…。そんな筈はないと思いながら、何度も繰り返しているような錯覚は確実に若島津を蝕んでいた。
 背に感じるあの妬きつくされるような日向の視線が、若島津の不安感をどんどん募らせていった。
「とぼけるのもそこまでいけば大したもんだな。ポーカーフェイスか…、笑わせるじゃねぇか」
 このままでは埒があかない。若島津は諦めて抵抗を止めると、恐る恐る日向を見つめ返した。
「――俺本当に、わからないんです。あんたが何怒ってるのか、悪いけど…」
「俺に怒る権利がないって訳か?」
 日向はますます機嫌を悪くしたようだが、若島津にはどうにも出来ないと言い訳をする。
「あんたと――俺の間に何があるっていうんです」
 ズキッ…、また頭の隅が疼いた。応える自分の声が震えている。
 若島津を見下ろす日向、二人の身長さはない。それが見下ろされているように感ずるのは若島津の気持ちの所為だろうか…。日向の目尻が吊り上がるのを、見知らぬ者のように感じた。




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