星羅棋布

闇色の瞳

 【3/3】 




ACT.4 若島津


 ラジオから流れる脳天気なDJの声が、この場に酷く不似合いで非現実的だった。

 我に返った日向が最初に見たものは、自分の足元にゆっくりと崩れ落ちる若島津の身体だった。
 血液の脈打つ様子と、締め付ける指先を押し返す肉の感触が蘇る。呆然と見つめた両手の所々に地が滲んでいるのは、若島津の抵抗の生々しい証…。
 慌てて抱き起し薄く開かれた唇に指を当て、呼吸がある事を確かめた。胸の鼓動が規則的に音を刻むのが、寄せた耳に伝わって日向は安堵の息を漏らした。
 ただでさえ白い肌が血の気を失って青ざめている、若島津の首筋に刻まれた赤い痕がなおも日向を責めていた。
 ぐったりと力のない身体を二段ベッドの下段に押し込んで、意識を無くした若島津に毛布を掛けてやる。一心地ついて、疲れきった日向は床に座り込んだ。
 安らか…とはいかないまでも、寝息を立てている彼の顔を見ていると、さっきまでのささくれ立った感情が信じられなかった。

『俺とあんたの間に何があるんです』
 あれ以上聞いていたくなくて、気が付けば若島津の首を――締めていた。
(莫迦な事を…)
 本当に殺してしまったのかと思った、――若島津を。
 日向は床に座り込んで、立てた片膝の上に額を押し付けた。確かに自分に若島津を怒る権利などないのかもしれない。大体自分が何をあんなに怒っていたのか、訊ねられても応えられなかった。
 嫉妬ではない、と思う。若島津を独占したいなど、露ほども思わない。本気で誰かを好きだと云うのなら、それは構わなかった。
 だが、彼が本当に槙原を好きだとは思えない。自分に見せつける為だと、理屈では無く本能で日向は知っていた。無意識ならば余計に厄介だが、簡単にのぼせるような女を選ばなかったところなど、その証拠だ。
 何事もないと平然を装いながら、チラチラと見え隠れする怯えた表情…。それが日向の癇に障った。
 何より、若島津があの夜を忘れた振りをしているのが我慢ならなかった。これを他人がどう呼ぶかは、日向の知らぬ事だ。


 クッ…、とくぐもった笑い声がした。
 物思いに耽っていた日向は、それが最初は若島津の物だと気付かなかった。
「あんた手加減知らないから―――」
 背後から掛けられた笑いさえ含んだ声に、ギョッとして振り返る。日向が呆けている間に部屋の照明は落されていたが、つけっぱなしにされたデスクライトでなんとか相手の顔を見て取る事は出来た。
 暗闇の中で半身を起した若島津が日向を見つめていた。乱れた髪の幾筋かが顔に掛かる。妖しい光りを宿す瞳と相まって酷く艶っぽい。
「……起きて平気か? もう消灯だ。そのまま寝ちまえ」
 一瞬見愡れて云葉を失った日向は、やっとそれだけ口にする。大丈夫かなどとは白々しくて訊けない。まして、謝る気などありはしなかった。憮然として応えると、日向も眠るために立ち上がった、が……。
「あんたのベッドはこっちですよ」
 その云葉と同時に若島津が日向の左腕を引いて動きを止めた。
「構わねぇよ。動くの面倒だろう、俺が上で寝る」
 日向のベッドは下段だったが、これ以上下らぬ問答を続ける気はなかった。自分の腕を掴む若島津の手を外そうとして、何故だか急に違和感を覚えた。
 争った時に着崩れた襟元を若島津は直そうともしない、普段の彼からは考えられない。
 大体若島津は怒っていないのだろうか? さっきとは反対に自分を見据えたまま伏せられない瞳に誘われるように、ベッドに屈みこんだ日向の手がまだ消え残る首の赤味に触れ…そのまま若島津の鎖骨を辿った。
「悪かったな、痕になっちまってる」
 知らずに謝罪の云葉が口をついた。自分の怒りは別にしても、夏服のカッターでは隠れそうにないそれには、さすがに申し訳なく思う。
「心配しなくても朝には消えてますよ」
 何でもないような若島津の口調に、逆に日向は声を粗げる。
「気休め言うな、薄くても一日、二日は残るだろ。大体お前傷とか治りにくい性質……!」
 突然、日向はその不自然さに気が付いた。
 若島津の身体の痣はチームメイトの誰よりも多い。キーパーというもっとも過酷なポジションの所為もあるが、擦過傷など日常茶飯事。前日の木津が治る間も無く増えてゆく。
 酷い物では三、四日濃い陰を落していた。それが……。

「―――痕が、無かった、……」
 呆然と日向が呟いた。自分の物とは信じられない程に気の抜けた声で。
 若島津の肩に置かれた指に思わず力が籠る。
「もう一度殺されかけちゃ、堪りませんよ」
 日向の手にやんわりと彼の手が重ねられ、相変わらず底の見えない微笑みを浮かべたまま自分を見上げている。
「あの時、―――お前を抱いた次の朝…何も、残っちゃいなかった……。一つも、一つもだ!」
 吐き棄てる日向から瞳を伏せた若島津が俯いた。これは困った時の彼の癖。まだ逃げるのかと、日向がその頤を掴もうとした刹那、彼の瞳が見開かれた。
 日向は気付いた。若島津の行為が何時もの表情を誤魔化す為のものではなく、笑いを堪える為であったことに。
「――――っ」
 この若島津はまるで別人だ、突然閃いた思考が謂われのない事とは思えなかった。
「日向さん。本当に覚えていないんです。だからあんまり―――苛めないで下さいよ」
 挑発するような微笑みを浮かべたまま、彼が日向の手をそっと握ると自分の髪に押し付けた。これは若島津ではない、そう思い乍らも目が離せない、手を振りほどけない。
 普段よりも赤く濡れた若島津の薄い唇、心なしか青味が差した肌は透き通って見える。長い黒髪が何気ない動作にサラリと溢れた。潤んだ夜の瞳は日向を映す、獣のように飢えた瞳の日向を――。
「この、……性悪!」
 低く押し殺した声でやっとそれだけ呟いた。日向の手が髪の中に差し込まれ項を探り始める。
「あんたも懲りないね。――俺は明日になれば忘れてるよ」
「………うるせェ」
 日向は若島津の上に乗り上げ、緩くその身体を抱き締めた。柔らかな髪に頬を埋める、あの日と同じように……。
 充血した首筋に舌を這わせると、若島津はくすぐったそうに肩を竦めた。クスクスと自分の腕の中で声を立てる彼を、日向は忌々しいと思った。自分を抱き返さない若島津。けれど陽の許で見る、自分を見ようともしない彼よりずっとマシだ。日向はその手に力を込めた。
 そうしたところで―また、この若島津を抱いたとしても―自分の胸の焦燥は消えはしないだろう。だが、触れずにはいられなかった。たとえ一夜の幻だとしても……。
 若島津が全てを夢にしてしまうというのなら尚の事、自分は覚えていなければならない。
「多分、お前が……」
 耳朶を軽く噛んで囁いた日向の告白は、若島津の耳に届かず、そのまま夜の闇に溶け込んだ。




 闇を映していると思った。それが若島津だったのか、彼の瞳が映した日向であったのか、確かめる事は出来なかった。



END

(1990.07 脱稿分を改訂)

 【3/3】 



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後書き

凄くよくある話…。ヤ○イもヤってんだかヤってないんだか…って、まあヤってる――つまり関係有りの設定です(下品ですみません __;)。友人達が皆絵書きで、その手の話(もしくは匂わせる)を描いていたので、チャレンジしたくなった気がします。今じゃ(昔でも)生温くてお話になりませんが、当時の私にしたら結構頑張ったんだろうな――。でもやっぱりこういう話、嫌いじゃないな…(だから乙女受けしないのだわね)。それでも今書けばもうちょっと描写(?)に力が入れられるとは思います。そうして人は大人になってゆくのですよ(ふふふ)。
季刊発行だったので、その都度単発(シリーズとかじゃなく)の小次健を書き散らしていましたが、珍しくこれは続編「あさまだき」があったりします。

 鈴蘭 



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