【小原安正先生 生誕100年に寄せて】
私が小原先生の門を叩いたのは1977年の正月でした。
その時先生は63歳でしたが、小柄で痩身ではあるものの眼光鋭く、門下生たちが「震え上がる」という噂を聞いたことがありましたが
妙に納得したのを覚えています。
最初の会話は「石井君いつくかね?」「20歳です」「う〜ん、遅いねぇ」・・・・
私がギターの初心者で、これからはじめると思ったようでしたが。「何か弾けるかね」ということでA・ラウロのヴェネズエラワルツを弾いたところ、
「そのギターじゃ駄目だから、良いギターを紹介するので買ってきなさい」・・・で、晴れて小原門下に加わることになりました。
初めのうちはよく弾けると「うん、良いね」、練習が足りないと「もうちょっとだね」だけで、レッスンが終わってしまっていたので、
高校1年のときから学んでいた音楽理論と表現法を先生にぶつけてみたら、次のレッスンから全然違うものになりました。
小原先生のレッスンは生徒が何を表現しようとしているか見極めて、枠からはみ出さない程度に自由にさせてくれていたと思います。
弾き方一つとっても、型にはめるようなことはありませんでした。
あれから37年の歳月が流れましたが、未だに私の耳の奥にはっきりと残っているのは、たまに鳴らしてくれた先生のサントス・エルナンデスの
とんでもない!音!!です。大地を揺るがすかのような低音の響き、珠のように輝く高音・・・
あんな音のサントスは、その後何十本と弾いていますがひとつもありません。
その後の私のギター選びと、ギターの音色に対しての嗜好の大きな要素になっていることは間違いありません。
イエペス先生が来日すると門下生に召集がかかって、小原先生に指名されて「石井君弾きなさい!」と言われて即席のレッスンになったりしたのも、
懐かしい思い出です。
小原先生と二人で小山の小さな美術館へ行って、ジョイントコンサートをしたこともありました。それぞれの独奏と二重奏でしたが、
「小原先生と二重奏をしたんだなぁ!!」と、今思えば本当に貴重な体験でした。
わざわざ私を指名して下さったのも、先生の激励だったのだとあらためてありがたく思い出されます。
二度の次席を経て、東京国際ギターコンクールで一位になった年の暮れ、先生は脳血栓で倒れますが、
翌年の早春には「スペイン大使賞をいただいたお礼に、大使館にあいさつに行こう」と、一緒にスペイン大使館へ行って下さいました。
まだすこし言葉に不自由なところがあったものの、お元気になった先生の生徒に対する深い愛情に感激したことを覚えています。
小原先生が亡くなって24年。天国から先生は今のギター界をどうご覧になっているでしょうか。
生誕100年を迎えて、改めてギター界における小原安正という人間の偉大な足跡に想いを馳せて、
未来のギター界の指針としていければと思います。
2014年4月1日 (4月1日の小原先生の誕生日に記す) 石井 弘
【ブロウェルのこと】
小原安正門下生で組織していた「ギタリスタス20世紀」では、ギターの新しいレパートリーを開拓するために常に現代音楽を志向していましたが、
私が目をつけたのはブロウェルの作品でした。
現代音楽の勉強はピエール・ブーレーズの考え方を基本にしていましたので、ブロウェルの作品群(特に前衛的なもの)は非常に明快で、
理論的にも感覚的にもすごく共感できる部分が多かった。
その後のブロウェルの活躍(現代のギター音楽を代表する作曲家として)は周知のとおりですが、
舞踏礼賛、永劫の螺旋、黒いデカメロン、ソナタ、トロント協奏曲、悲歌風協奏曲etcなど20世紀のギター史に残る作品を数多く生み出しています。
'80年の初来日のときの講習会でレッスンを受けましたが、彼とは'92年のハバナ国際ギターフェスティバルで再会することになります。
【イエペスの思い出】
初めてナルシソ・イエペスの名前を知ったのは、中学生のとき受けていた通信教育「東京音楽アカデミー」のゲスト教授としてでした。
そのときの主任教授が小原安正先生だったので、まさかこの二人が本当に自分の先生になろうとは夢にも思っていませんでした。
初めてイエペス先生の演奏を聴いたのは1974年の来日のときで、なんとちゃっかりサインなんかもらっていました。
小原先生の門下生になってから何度か来日の折に門下生たちに召集がかかり、小原先生から指名されてイエペス先生の前で演奏させていただいたり、
コンクールの二ヶ月ほど前には講習会で「みっちり!?」レッスンをしていただいたのが、イエペスという偉人との素晴らしい出会いであり、
ギターの鳴らし方の大きなヒントを得た転機になったのです。
'84年の講習会でイエペスの指導を受ける。
'97年に69歳で亡くなるとは思ってもいなかったので、
私が一緒に写っている写真はこれだけになってしまった。(雑誌に掲載されたもので鮮明さにも欠けますねぇ。当時のカメラマンに問い合わせたのですが、
引越しした際に紛失したとか??)
'85年のスペイン留学の時には個人レッスンを受けるべく、電話で直に!!連絡をとって約束をしていたのですが、直前にご子息の不幸があったので、
遠慮してレッスンをお願いすることはあきらめました。
【加藤周一氏との出会い】
思えばスペインへの留学のとき、唯一スーツケースに忍ばせていった本が愛読書の「芸術論集」/加藤周一著だった。
何度繰り返して読んだことだろう。私の青春期の芸術・文学・哲学への指針であり拠りどころでもあった「知の巨人」だった。
我が家の書架にある「加藤周一著作全集」を開く度に、その圧倒的な知識と揺らぎない信念に触れて
いつもため息をつくしかない自分に苦笑するのが常なのです。
@2008年12月5日に亡くなった評論家の加藤周一氏との出会いは、何かに引き寄せられるような「強い引力とも縁(えにし)」とも感じるものでした。
20歳の頃ギターを弾いていく上で理論の師匠から突きつけられた、「美」とは「芸術」とは何だ!というテーマに明確に返答できないことに気付き ・・・・
まずは知識として学べるものを片っ端から追い求めてみようと、いろいろな本を読み漁っていました。
そんな中で出会ったのが加藤周一著の「芸術論集」と、山本安英の「日本語の勉強会」でした。
山本安英女氏は木下順二作の「夕鶴」を1000回以上公演した名女優でしたが、当時神田の岩波ホールの一室で「日本語の勉強会」を定期的に開催していました。
同時に柳 宗悦氏をはじめとする民芸活動の芹沢_介、棟方志功、河井寛治郎、バーナード・リーチ、浜田庄司などの作品を好んで鑑賞していました。
そんな私の乱学??がまたまた不思議な出会いを結ぶのです。(つづく)
A小原安正先生に師事して2・3年したころ「石井くん歌の伴奏をしないか?」ということで、映画監督の山本薩男氏の講演会で歌うことになっていたソプラノ歌手の
相川マチさんを紹介されました。無事、はじめての伴奏の舞台を終えて何日かして、その相川先生から「石井さんまた伴奏していただける?」とご連絡を頂いてから続
くお付き合いはあしかけ30年になろうとしています。
22・3才の私が勉強とステージを重ねていく上で、ギタリスト石井 弘の「育ての母」ともなっていただきました。
その相川マチさんは前述の民芸の柳 宗悦氏の奥様で声楽家の柳 兼子先生の一番弟子ともいえる方だったのです。
B東京国際ギターコンクールで一位になって、スペインへ留学する前にその相川先生に紹介されたのが印刷会社をリタイアして喫茶店をはじめていた小川健一さんでした。
小川さんは会社を経営していたときに従業員の慰労にオーケストラを呼んだり、落語会を企画(六代目円生や彦六の円蔵がご贔屓だったとか)したりするほどの文化人
で、加藤周一さんや江藤文夫さんの公演会に度々ご一緒しました。
また喫茶店で何度も私のコンサートをさせていただいたり、小川さん所蔵の芹沢_介の型絵染めの作品を拝見したりしました。
【コンクールの記録】
’84年12月の第27回東京国際ギターコンクールで一位になる前に、二年連続で次席(4位)になりました。
3年連続で「東京国際」の本選に残ったのですから、安定した実力がなければできませんね。
我ながら大したものだと感心したりして・・・・・?
この次席のときは本選の審査員の評価が分かれていたので、何が足りないのかを徹底的に考え、工夫しとにかく練習しましたね。
一位になった年はコンクールの2ヶ月前に思い切って楽器を替えたことと、イエペス先生のレッスンを受けて大いに参考になることがあったのが
自信につながったと思います。
本選での熱演。(第一生命ホール/日比谷)
このときの楽器は三浦隆志でした。
結果がどうあれコンクールはこのときでおしまいにするつもりだったので、控え室からステージに向かう階段や照明の風景を目に焼き付けておこうと
思ったのを覚えています。
本選ではこころとからだと音楽が一体になり、もう一人の自分が冷静に自分を見つめているような感覚になって、これぞ至福の時間!でした。
こんな体験をしたのは後にも先にも、もう一度だけ・・・さて、それはいつだったでしょう?!
表彰式で挨拶する石井。
審査員席前列左から4人目が恩師小原安正先生。