さやかな青い月だった。
雲もなく、風もなく、虫の声が耳にしみる秋の夜。
都内とは思えない広い和風の庭を、浴衣で散策して縁側に戻る。
並んで腰をおろすと、ふたりはどちらからともなく手をつないだ。
「下駄履いて歩いたの、初めて」
上がり口の踏み台として置いてある大谷石にかかとをつけて、足もとを見つめたまま不二が言った。「足にあたったか?」
心配そうに手塚がのぞくと、不二は笑顔で首を振った。
「ううん。下駄も浴衣も初めて着られてうれしいって言いたかったんだよ」
「一度も着たことがないのか?」
「うん。だって僕んチじゃ似合わないでしょ」
「……まあな」
一部屋の和室もない不二の実家を思い描く。
初めて遊びにきた時には、不二は十分も正座していられなかったのだ。あの洋風の家で育ったのならしかたのないことだと思うし、あの家は不二にとても似合っていた。
けれど。
浴衣の不二も悪くないと、手塚は思った。
いや、悪くないどころか、とてもよく似合っている。初めてとは思えないほど自然に着こなしていて、この和風の家にすんなりととけこんでいた。
その姿が、あまりにもたおやかで美しくて。
手塚はそっと体を傾けると、不二の膝に手を触れた。
「え? 何?」
「いや、その、膝に…」
手塚はつい口ごもった。何、と聞かれて、何をしたかったのか初めて自覚したのだ。そしてひどく恥ずかしくなった。
「膝? ひょっとして膝枕してほしいの?」
不二が首を傾げて、そう言った。
そうだ、と肯定するのも、どうにも面映い。
つい黙り込んだ手塚に、
「いいよ。おいで」
と、不二が笑って膝をたたいた。
何を今さら照れているんだろう、と不二は思った。
一緒に暮らして、肌も合わせているのに、お互いの家族だって認めてくれているのに、今さら膝枕ぐらいで。
でも、そういうところがかわいくて愛しい。
そんなふうに思えてしまう自分は、本当にどうかと思うくらい手塚が好きで好きでしかたないんだなと、あきれもするけれど。
脚を縁側に上げて、おそるおそる不二の膝に頭を載せた手塚の顔から、不二はそっと眼鏡をはずした。
「フレームが歪んじゃうから。でも、ないと月が見えない?」
「いや、かまわない」
そうこたえて目を閉じる。
眠ってしまったわけではないだろう。
でも、手塚がひどく気持ち良さそうで幸せそうで、こんなささやかなことで手塚を幸せにできる幸福に、不二の心も満たされた。
そっとうちわであおぐと、手塚の黒い髪が額や頬の上で揺れる。
整った横顔が満足げで、不二はうれしかった。
「重くないか?」
ふと、目を開けて手塚が聞いた。
「うん。全然」
「しびれる前に言え」
「うん。ねえ手塚」
「ん?」
「月、青いね」
裸眼の手塚が、どれくらい見えるのかはわからなかったけれど、そう口にすると「ああ」と同意の言葉が返ってきた。
「大きくてきれいだ」
「手を伸ばしたら触れそうだね」
「伸ばすな」
と、不意に伸ばしかけた左手をつかまれた。
手塚の声は、鋭さはなかったけれど、断固としていた。
引き戻された左手が、しっかりと手塚の左手に握りしめられる。
「なんで?」
「迎えが来たら困るだろう?」
「迎え?」
「月から」
「なんの話?」
「おとぎ話にあるだろう。満月の晩に迎えが来るんだ」
「か、かぐや姫…?」
「もっとも、誰が来ても俺はお前をどこにもやらないが」
まさか本気で心配しているわけじゃないだろう、と思う。
確かに神秘的なほど青く冴え冴えとした月だった。それでも、あの天空からどんな迎えも来ないことを、自分たちは知っている。
奇跡は起きない。
世界には、神様も天人も天使も悪魔もいない。
この世に起こるありとあらゆる出来事は、現実と地続きの偶然と必然の上に成り立っているのだ。
そうして、現実という抗いがたい運命の前には、どんな努力も役に立たないことだってある。月から迎えが来なくても、いつか手塚と一緒にいられなくなる日が訪れるかもしれない。
けれど、と不二は思った。
自分の左手を握りしめて、膝をそっと抱き寄せる手塚が愛しくて。
「……うん。手塚。どこにも行かないよ」
僕をずっと君のそばにいさせてね。
こうしてずっと君を膝枕させていてね。
それは、青くさやかに月の輝く夜のこと。
神様にではなく、月にでもなく。
恋人の白い横顔に、不二は願い祈った。
end.
「二月の鯨」
のえす様が以前にサイトの日記で書いていらした
「お月見する塚不二」にすご~く萌え萌えしまして
そのイメージをイラストにしてみました。
さらに調子に乗ってごろにゃ~んとおねだり(笑)したところ、
こんなにこんなに素敵なお話を書いてくださったのです!(感激~~~(*^。^*))
えす様、お忙しいところ、本当にありがとうございました!!!
(2008.10.13)