「起立と言われ、気が引けましたが、僕は立ちませんでした」

今日、僕の学校でも卒業式がありました。

僕の通っている高校は、国歌斉唱がありました。斉唱の際、起立と言われ、気が引けましたが、僕は立ちませんでした(他の人は立ちましたが)

国歌が流れている間、教育委員会に圧力を掛けられている教職員の方が脳裏に浮かびました。ちょうど最高裁の判決が出たことで、都立では、教職員は座りづらくなりましたし、来賓も座る人は来られないようになったため、もはや保護者、卒業生として座るぐらいしかできないわけです。私立なので若干状況が異なるでしょうが、思想信条の自由が崩壊の危機に瀕している今に座ったことは卒業式の感動とともに一生忘れることができない思い出となるでしょう。

過去の東ヨーロッパやソビエト、現在までの北朝鮮や戦前の日本では、多くの人が、拷問されて殺されています。現在、都立学校の職員会議では、挙手も禁止されており、極めて異常な状態となっている、このような近年の強権的対応によって、もはや「君が代」は、歴史を取り上げて「天皇と結びつく、戦前と結びつく」などと言わなくても、思想信条に対する強制や人権の軽視が、「君が代」を通して直接行われることにより、君が代は、現代日本の抱える問題点を象徴している曲となったのです。「君が代」は、現在進行形の、国民の人権侵害を進めるテーマソングなのであり、今も極めて政治的に利用されています。国歌という「国の根本」を口実にして、国民から人権を奪うために、全国津々浦々の教育機関に在学する子どもたちを臣民にするために、強制的に歌わせるのです。

その意味では、社会問題と君が代がセットの関係であり、そこに不起立の意味があるのです。

もし子どもに愛国心を持ってほしいなら、国歌や心のノート等の刷り込み手段を使うのではなく、将来も住みたい、日本は魅力的だと思えるような国にしなければなりません。それは、何かというと、具体的な政策がとても大事であり(例えば、財政赤字のない国にすること)、そのひとつとして、君が代の強制をやめるべきです。君が代に代表される、やっつけ仕事みたいに不起立者をあの手この手で駆除していくものは、教育とは呼べないし、教育に名を借りた、暴力ではないでしょうか。君が代強制にお金を振り向けるのではなく少人数学級の増加に税金を振り向けるべきだと思います。お金の使い方が間違っています。君が代強制のために動員される、教員、警察官等の人員にかけるお給料を、少人数学級にまわしたら、何学級も追加できるはずです。

朝鮮人のせいにしすぎ
インターネットに繋ぐと、何もかもが朝鮮人のせいにされていることに驚きます。何か事件があったら「犯行者は朝鮮系の血筋ではないか」「北朝鮮が裏で画策している」と大騒ぎする風習になっています。最近、全部を朝鮮のせいにして感情的に朝鮮を否定するような動きがあります。朝鮮は核実験にも成功しており、危険な存在ではありますが、かといって、感情的になり、すべての犯罪の原因を朝鮮に求めてしまうのは疑問を感じます。日本社会は、関東大震災後の虐殺事件のような民族ヒステリー症候群に罹患したといっても過言ではありません。僕は、罵詈雑言を見ていたら、何でも朝鮮のせいにする論調に危うく引きずりこまれそうになり、そのとき、朝鮮に対する憎しみや怒りだけが増幅する感覚を感じました。若者を中心に、朝鮮に対する偏見が増えていると思います。