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1908年 明治41年、青森と函館の間を往復する青函連絡航路に“ひらふ丸”が就航し、国有
鉄道(国鉄)の連絡航路の運行が始まりました。大正3年には車輌の運送も始まって、本州と 北海道をつなぐ動脈として重要な役割を果たしました。しかしこの青函連絡船は、昭和63年に 青函トンネルの開通によって80年の歴史に幕を閉じました。
1927年 昭和2年、京都府北部の丹後半島で、マグニチュード7.3 の大地震がおきました。
被害は関西・中国・四国地方にまで及び犠牲者は2925人、家屋の全壊は1万2584棟にの ぼりました。これは「北丹後地震」と命名されました。
1948年 昭和23年、「消防組織法」が施行されまして、自治体の消防が発足しました。それに
ちなんで昭和25年に当時の国家消防庁が“消防記念日”と制定しました。明治憲法下では、 消防は警察の所管とされていましたが、ここで自治体消防組織として独立しました。
1949年 昭和24年、日本経済の安定と自律を提言する為に来日していたGHQ(連合国軍総
司令部)の経済顧問・ジョセフ・ドッジ公使が経済安定政策「通称“ドッジライン”」を発表しまし た。この中でドッジ公使は、財政の健全化と増産による輸出の振興を強く求めました。そして談 話の中で「日本経済はアメリカの援助と国内の補助金という2本の竹馬に乗っているようなも の」と語りました。当時「竹馬経済」という言葉が流行りました。
1957年 昭和32年、東京湾の品川第二台場にあった洋式灯台、通称「品川灯台」が87年の
歴史に幕を閉じ火が消えました。東京湾の拡張にともない取り壊しが決まったためでしたが、 その後愛知県の明治村に移築され重要文化財に指定されました。品川灯台は明治の初期に 作られた灯台のひとつで、東京の海の玄関の安全を守り続けてきました。
1957年 昭和32年、スエーデンのストックホルムで第24回世界卓球選手権大会が開幕しま
した。日本は7種目中5種目で優勝しました。卓球王国「日本」の実力を示しました。
1958年 昭和33年、チェコの長距離ランナーのエミール・ザトペック選手が引退を表明しまし
た。このザトペック選手は、ヘルシンキ・オリンピックの5000メートル、1万メートル、マラソン を制覇したランナーで「人間機関車」のニックネームが付けられていました。
1989年 平成元年、フランス領ギアナのスペースセンターから日本で最初の民間通信衛星
「JCSAT1号機」が打ち上げられました。電話、データ通信、画像通信などの実用化を目指した ものでして、これによって商業衛星の時代の幕開けとなりました。
1989年 平成元年、ロンドンで開かれていた「オゾン層を守るロンドン会議」が閉幕しました。
世界の124ケ国が参加したこの会議では、オゾン層の破壊とフロンとの因果関係、フロンの 代替品の開発などフロンガスを最終的に全廃する方向で産業界の対応が議題となりました。
2014年 平成26年、日本一の高層ビル「あべのハルカス」が開業しました。あべのハルカス
(英: Abeno Harukas)は、航空法の規制緩和で大阪市阿倍野地区の高さ制限が撤廃され、日 本初のスーパートール(都市居住協議会の基準による300メートル以上の超高層建築物)で、 横浜ランドマークタワー(296メートル)を上回ることとなった。
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