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−9−
公会堂は駅から五分ほど歩いたところにあった。 小学校くらいまでは、児童劇団の公演や子供向け映画の上映などで通う機会もあったが、 中学校に入ったあたりから縁遠くなっていた。
バイト先からは、バスで駅に出るのが一番早かった。 バイトを終えてそのままバスに乗った私は、駅前で昼食をとった。 差し入れはドーナツとスポーツドリンクにした。紙コップもつけた。
公会堂の周囲にはちらほらと人がいた。 カルチャースクールに通う人、幌居のように個人で利用する人、 公会堂の前を通ってその先へ行く人などだった。 商店街からはちょっとはずれるから、それでも人影は多くはないと言えた。
私は入り口の横でちょっとだけ立ち止まった。 人の目が気になったけど、立ち止まらずに入られなかった。 緊張しているのだと思った。 幌居以外のメンバーを知っている保証はなかったし、台本の作者に会うというのも緊張の元だった。 芝居の稽古場というのもあっただろう。 高校受験で引退してから一年半ほどにもなる。 敷居が高い。そんな気がしていた。
幾人かが真新しい置物を見るような視線を投げてきた。 その視線にも慣れ始めた頃になって、私はようやく動き出す。
うっすら暖まってしまった手すりを捨てて、公会堂の自動扉に向かう。 暖かい空気が流れ出す扉をくぐって、中に入った。 まとわりつくような湿気と暖気。 帰りはさぞつらい事になるだろう。
エレベータは入り口のすぐ横にあった。反対側には、部屋の予約状況が張り出されている。 三○五号室・劇団異邦人。これだろう。 程なく降りてきたエレベータに乗り込み三階のボタンを押した。 扉の脇に立って開閉ボタンを操作する。
私の後から数人が乗り込んできた。四階、五階とボタンが押される。 ボタンを押そうと手を伸ばして、押さずに戻った手もあった。既に押されていたのだろう。
『開く』ボタンから手を離すと、僅かな振動とともに扉が閉まった。 私は手元ばかりを見ていた。ふと笑ってしまったのだ。 もちろん後から乗ってきた人たちには見えないように、ささやかに、だが。
−−旗揚げも決まっていないのに、劇団名だけは決まっていた。
程なく押しつけられるような感覚が弱まり、エレベータは振動とともにゆっくりと停止した。 扉が開くと、私は『開く』ボタンを押した。 すっと音もなく降りる人に続いて、私もエレベータを降りる。 私の背後では、急かすように扉が閉まった。
私はホールにとどまって、案内板を探した。目的の方向が分かるものでもよかった。 案内板は内容だったが、ホールの横には三○三号室と、三○四号室があった。 ならばと見当をつけて私は歩き始める。 先に下りた人の姿は既にホールにはなかった。
「央、遅かったな。」
知っている声がした。幌居の声だった。
三○四号室に沿って廊下を進むと、三○五号室はすぐに見つかった。 幌居の声が聞こえてきた部屋だった。
扉の前で私は立ち止まった。コンビニの袋を持ち直す。 一度だけ深呼吸して、ノックした。
「はい。どうぞ。」
幌居の声だった。
「失礼、します…」
そろりと扉を開けた。覗き込むように中を見る。 どうしたんだと言いたげな幌居が目の前に立っていた。 その向こうに、大学生くらいの男の人ばかりが数人。
「東。よく来てくれたね。もっと堂々と入れば良いのに。」
幌居は苦笑していた。私も思わず笑いを返す。…ちょっと引きつっていたかもしれない。 幌居は扉を大きく開けた。そのまま私を招き入れる。
「皆、ちゅうもーく。俺の中学の後輩。東さん。」
私を一歩前に押し出して、幌居は言った。私はびっくりした。が、かえって開き直れた。
「突然お邪魔してすみません、あの、幌居先輩に伺って…。」
背の高い人、小柄な人、太い人、細い人。いろいろなタイプの人たちが居た。 皆私を見ていた。ちょっと懐かしい緊張感で、私は一人一人を見た。 そして、陰に隠れるようにこちらを見ている長身の男性の上で、視線が止まってしまった。
「東、どうした?」
幌居の声が、遠く聞こえた。
その男の人は、普通の何気ないトレーナーを着ていた。色はモスグリーン。 メガネをかけて、どこにでも居る大学生のようだった。 なぜだろう、やさしそうな印象の目。さらっとした、さほど長くない、真っ黒な直毛。 その相貌は、黒マントのものと酷似していた。
暖かいカフェオレが運ばれてきた。目の前にはコーヒーが二つ来ていた。 二つのカップからは湯気が立ち上っていた。残る一つは、表面に汗を浮かべていた。
「来た来た。」
言うなり幌居はストローをくわえた。 出られないのではないかと心配するほど外は寒いのに、氷三昧のメロンソーダをおいしそうに飲んでいた。
「さむくないか?」
似たような感想を抱いたのだろう。私の目の前で、矢追央(なかば)が感嘆とも取れる声を漏らした。
幌居のグラスは見る間に空になっていく。氷の下までグリーンの液体が下がると、すかさず二杯目を注文した。
「喉かわいちゃってさ。」
幌居は4時間の稽古時間中、ずっと動きっぱなしだった。 トレーナー姿の役者達に指示を飛ばし、時には自ら動き、指導していた。 完成していない台本に足りない役者。まだまだそろってさえもいないけれど、懸命さを伺うことが出来た。
私の目の前に座る矢追は役者ではないようだった。 稽古場の奥で、じっと役者達を見ていた。眺めているというよりは真剣で、観察しているほどは厳しくないように思えた。 どんな立場の人なのか、イマイチ私は掴みかねていた。
そんな稽古場の隅で、私はといえば、稽古にも加わらずにその様子を眺めていた。 幌居には誘われたが、断っていた。役者ではないと思っていたし、役者をやろうとも思わなかった。 そして、稽古とともに矢追もまた眺める対象だった。一言聞けば良いのだと思ったが、どう聞けばよいか分からなかった。 だからただ、ぶしつけにならない程度に、眺めるしか出来なかった。
「名前言ったけど、ホンのこと言ってなかったな。」
二杯目のメロンソーダを受け取って、ようやく人心地ついたように幌居は言った。
ホンという響きで私は思い出した。そもそも借りていた台本を返しに来たはずだった。カバンを開け、紙の束を引っ張り出す。
「それ…。貸してたの?」
紙束を見、声を出したのは矢追だった。 きょとんと私は矢追を見た。矢追はちょっと恥ずかしそうに私を見、幌居を見た。 そういえば、稽古に来れば書いた人も来ると言っていたか。
「あれ。央にも言ってなかったっけ。彼女、ホン書きだからさ。東、それの作者。コイツ。」
いたずらっぽく幌居は言った。
「えっ。そうなんですか?」
私は目の前の矢追をじっと見てしまった。矢追は居心地悪そうにコーヒーをかき回していた。
聞きながらも妙に腑に落ちていた。稽古中のあの態度。あれは、作る側の目だったから。
「どうだったかな。」
うつむき加減で、ぽつりと幌居は言った。 影の中だったけど、頬がちょっとだけ赤く見えた。
「ぼちぼち女優も見つけなきゃなんないけど、今は野郎ばっかりだし。女の子の意見、言ってやってよ。」
「君の意見が聞きたい。」
幌居は相変わらずメロンソーダを加えながら、まだちょっと頬の赤い矢追はまっすぐに。私を見た。 うつむくのは、今度は私の番だった。
意見を言うのを待たれている。そういうのに慣れていなかった。
「私は、このお話好きです。面白いと思います。でもまだ、終わってないし。」
メールで幌居には言ったことだった。何処まで伝わっているのだろう?
「主人公はどうだろう。」
「すごく一生懸命で、応援したくなります。」
私は笑って言った。 物語らしい物語。素直に芝居に出来れば、きっと良いものになると思った。 つられたように矢追も笑った。笑うとかわいい感じになった。
こんなにも似ているのにと私は思った。 悪の総帥然とした黒マントと、照れてはにかむ矢追。黒マントと幌居の雰囲気は全然違っていた。 似ているだけなのかもしれない。 偶然なんてそうそうあるものじゃないけれど、コーヒーをすする矢追は、普通の何処にでもいる青年に過ぎなかった。 そして、幌居の知り合いでもあるわけだし。 テーブルを挟んでお茶するくらいならなんでもないと思い始めていた。
「なぁ、東、『彼女』やらない?」
「は?」
幌居の言葉は唐突だった。私は一瞬つかみかけて、即座に首を振った。
「できません。無理です。役者なんて。」
「昔はやってたじゃん。」
にやりと幌居は笑う。…なにを考えているのか、私は即座に理解してしまった。 高校3年の幌居と、高校1年の私。ともに舞台に立ったのは一度きり。 たしかあの時の役は…ヘンゼルとグレーテルの、末の妹にしか見えなかった、母親。
「あれはっ、人数が居なかったからでっ。やったとは…。」
母親の場面は最初の一場だけだった。確か、ものすごく意地悪で頭の良いグレーテルを演じたのは、先輩である高田だった。 度胸も愛嬌も思いきりもよかった高田。私には彼女のような存在感などなかった。 頭数を合わせるための配役でしかなかったと、今でも思う。
「そんなことないよ。できるって。今日だって、参加したそうだったし。」
「東さんなら、出来ると思うよ。イメージもぴったりだし。」
幌居どころか、矢追まで言い始めた。私はそれでも首をふった。
「忙しい? それとも、高校でも芝居しているの?」
私はあいまいに首を縦に振った。
「バイトしてますし。塾にもいってます。勉強が大変なんです。」
忙しい。そういうことにしておいて貰おうと、思った。
「まだ時間はあるし、皆学生だから、多少は大丈夫だと思うよ。そうだよな、幌居。」
「俺らだってフルに動けるのは4月までだし、予定は夏だから。それでも、だめ?」
今度は横に振った。時間は結局、言い訳でしかないのだ。少し悲しくなった。 ドンくさくて、演技は下手だった。だから舞台に立ちたくない、というわけでもない。 義務に思えてくる自分が、とてつもなく嫌だった。
「私じゃなくて、和泉先輩みたいな人を探す方が良いと思います。」
和泉、高田和泉は、役者としてだけではなく、人としても尊敬できる先輩だった。 ムードメーカーで、いつも何をしても、 徹夜明けの朝日の中でも、間に合わずに食事も抜くほどの忙しさの中でも、 試験前の部活動停止期間中でさえ、楽しそうな人だった。
そんな人だったら、二つ返事でOKしたのに違いない。
「いずみ?」
矢追はきょとんとして幌居を見た。同じ高校ではないのだろうか。 幌居は、にやりと笑った。ほんの一瞬だけ、メロンソーダをにらんでから。
「あんなのがそうそう転がってたら煩くてかなわない。一人で良い。」
目が笑っていなかった。私へ向けた笑顔は、どこかとってつけたようで。 いけないことを言ったと、私は悟った。 けれど、謝ることもできなかった。どうすべきか、分からなかった。
事故だったと聞いていた。高田はもう、この世にはいなかった。
「…あ、私そろそろ帰ります。おそくなっちゃうし。」
わずかの間だったが、沈黙に耐えられなかった。 椅子を引き、上着を取る。財布を出そうとしたら、にっこり笑った幌居に言われた。
「コーヒー代はいいよ。」
「ごちそうさまでした。」
私は軽く頭を下げた。歩き出すと、矢追の声が追ってきた。
「また、是非来て欲しい。ラストも考えるから。」
私はちょっとだけ、頷いた。
寒風吹き荒ぶ外に出て、駅前からバスに乗った。家につく頃、幌居からメールが届いていた。 『今日はごめんね。また来てくれるとうれしい。役者もやってくれたら。 ほろのぶ』
居ない人を言っても仕方がなかったのだ。私は反省した。 バスを降りて足を家へ向けるころに思った。
彼らの仲間になれるのだろうか。
答はでそうもなかった。
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