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−10−
バターと砂糖と小麦粉と。卵にチョコに、胡桃にナッツ。とどめはバニラエッセンス。 調理室は甘い香りに満ちていた。 あと十五分もすれば、香ばしいかおりが混ざるだろう。
「生地は練っちゃだめよ! さっくり切るように混ぜる。」
「え、機種なんにしたの?」
先生の声なんて聞きもしないで、麻衣子は搾り出しの準備をしていた。 トレイにパラフィン紙をひいて、絞り口を用意して。 里美も洗い物を片つけながら、興味深げに視線を明日香へ送っていた。 私は生地との格闘の手をちょっとだけ止めた。 携帯を変えたなんて、知らなかった。 明日香はオーブンの前に陣取っていた。古いオーブンは、スイッチ一つで温度設定、というわけにはいかなかった。
「んー。Pの2301…。こんなもんかな?」
首を傾げつつ、明日香は腰を上げた。私はあわてて生地混ぜに戻った。 このままでは、余熱の方が先に終わってしまう。
「最新じゃん! すごーい!」
麻衣子は感嘆の声を上げた。生地待ちの状態で、手持ち無沙汰なようだった。 私は粉っぽさのなくならない生地を懸命に混ぜた。
「明日香ちゃん、この間変えたばかりじゃなったっけ? 杏ちゃん、練ってるよ、それ。」
里美は最後の泡を流して、水を止めた。私をみて、呆れたように言った。
「う、うん。」
クッキーなんて作ってことがなかったから、『さっくり切るように』がどうにも分からなかった。 粉っぽさがなくなって来たから、私は手を止めた。焼けばきっとましになるだろう。 確かに練ってしまったような気がしたが、時間がないので無視することにした。 搾り出し袋を引き寄せて、詰め込むように生地を落とす。
「変な電話があってね、気持ち悪かったの。おいしそう。」
搾り出し袋を受け取ると、麻衣子は慣れた手つきでトレイに絞っていった。 生地がどうあれ、その形はいかにもクッキーだった。 麻衣子が絞った生地に里美は横から飾り付けていく。 私はボールとヘラを洗い始めた。ようやく話す余裕ができた。
「この間の変なメールも?」
こくりと明日香は首を縦に振った。ボールの端についた生のままの生地をぺろりとなめた。
「あ、おいしいかも。」
「明日香ちゃん、お腹壊すよ。」
里美と麻衣子のコンビネーションで、思ったよりも早く並べ終わりそうだった。 チンと、オーブンが音を立てる。余熱完了だ。
「いたずらでしょ。」
「流行のストーカーだったりして? えっと、十五分でいいかなー。」
里美はさっさと器具を片付ける。テキストも黒板も見もせずに、麻衣子は時間をセットした。 黒板には十分と書かれていたが、麻衣子の判断は黒板より信じられた。
「やだー。はやんなくて良いよぉ、そんなのー。」
明日香は布巾をとり料理台を拭いた。焼いている間は基本的に片付けタイムだ。 ピー! どこかで薬缶が沸騰を告げた。ほわんといい香りが漂ってきた。早いチームはもう試食のようだった。 洗い物を里美に任せて、お皿とカップを準備する。明日香はやることを終えて、休憩モードに入っていた。 椅子を引き寄せてちょこんと座っている。
「幌居先輩もいたずらじゃないかって言ってたよ。」
「んー。」
お皿を並べて、私も椅子を引き寄せた。里美は既に薬缶を火にかけていた。 コンロの火は薬缶の縁をはみ出していた。取っ手があつくなるなと、ぼんやりと思った。
「先輩は?」
「番号は教えたよ。」
きょとんと明日香は言った。私は視線を明日香へ戻した。
「えっとそうじゃなくて。変な電話とか、メールとか…」
「心配、されちゃうから…。」
明日香はちょっとだけ目を伏せた。
「里美、紅茶どこだっけ?」
「壁の引き出しじゃなかった?」
壁には各班の代表がちらほら集まっていた。麻衣子と里美も参入した。 ティーパックが説明を受けた場所にないらしく、誰かに呼ばれた先生もその輪に加わった。 かたんかたんと音がした。
「私たちより詳しいかもしれないし、かまわないんじゃん?」
ちらりと時計を見るとすでに十分程経っていた。甘い香りが強くなっていたが、のぞき込んでみると生地の色づきはイマイチだった。 麻衣子の十五分は正しそうだった。
「そう、かな…。」
明日香は言いよどんだ。ちょっと困った風に首を傾げて、考えているようだった。
薬缶が音を立て始める頃、麻衣子と里美は戻ってきた。どこにあったのか、人数分のティーパックがその手にあった。 私はあわてて火を止めた。沸騰の喧しさは好きじゃなかった。
「ぼちぼち焼けるんじゃない?」
「うん。そろそろだと思う。」
私が答えると、オーブンをのぞき込んでいた里美が、トレイを引っ張り出してきた。 熱気とともに、香ばしそうな香りが漂ってきた。 まだ熱そうだったが、綺麗なきつね色になっていた。
「おいしそう! あ、紅茶入れるねぇ。」
明日香はぱっと顔を輝かせると、人数分の紅茶を入れ始めた。 さめるまではさわれない。里美は全体を眺めて出来具合を確認しているようだった。 そして、麻衣子は。
「ふふふ〜。明日香ちゃん、杏子ちゃん、試食で食べるのは一人一つずつだからねー。」
机の下に置かれた荷物の中から、ラッピング用の小袋をとりだしていた。数は4つ。
「どうするの?」
「きまってんでしょー。あげるのよ。」
きょとんとした声は明日香のもの。麻衣子はこれ以上のいたずらはないというように答えた。
「…なんで四つあるの。」
麻衣子はさらに、飾り付きの針金も取り出していた。小袋をくくるだけで完成だ。 四つという数は、この班の人数だろうとあたりをつけた。麻衣子一人で四人に渡すと言うことも考えられなくはなかったが。 明日香は上原先輩。里美は生徒会へ持っていくのだろう。麻衣子は…どうとでも考えられてよくわからない。 問題は残る一人、私だった。
「杏子ちゃんもあげるでしょ? 鶴田くんに。」
さらりと言われてから意味を理解するまでに、クッキーはすっかり冷えていた。
女子が家庭科の間、男子は技術の授業。 遅れて戻ってきた鶴田は汚れるという理由で羽織っていたジャージを、木屑を気にしながら脱いだ。 その場では払わず、外側を出さないようにして折りたたんだ。
「女の子たち、良いにおいするね。」
顔を上げて、鶴田は私を見た。
どきりとした。机の中につっこんだクッキーのにおいでも漏れているのだろうか。 針金で留めるタイプだから、漏れていても不思議はなく。 けれど、何故持っているのかと言われれば、私はどう応えれば良いのだろう。 麻衣子に押し付けられるように渡された小袋をどうするかは、まだ決めかねていた。
「今日は調理実習で、クッキー焼いたのよ。」
里美がさらりと言った。
そろりと二人の方へ目を向けると、麻衣子としっかり目が合った。 里美と談笑しているはずなのに、私へのプレッシャーは忘れていないようだった。
「後で、山本先輩のとこに持っていくんだー。」
「私は生徒会。会長への賄賂に使うわ。」
麻衣子は私をちらちら見つつ、部活の先輩の名前を出した。 里美も意図を察して麻衣子に乗った。そしてとどめの一言を加える。
「明日香ちゃんは上原先輩のところよね?」
「おいしくできたもんね。」
にこにこと言った。その間、私と鶴田へ交互に視線を送っていた。
「へぇ。だから良いにおいするんだ。」
鶴田は納得した風に一つ頷き、にこにこと次の授業の教科書を引っ張り出した。 まだ覚え切れていないようで、時間割をにらみつつ、教科書とノートを選別する。
鶴田を眺めていて、私はふと思いついた。麻衣子の視線が痛いが、これなら不自然ではない。
私は、周りに気付かれない様に、一回だけ深呼吸をした。
「鶴田君、お隣のよしみで分けてあげる。食べ切れなかったから!」
お腹にちょっと力を入れた。首に知らず力が入った。 さっと机の中の小袋を取り出して、鶴田の机に置いた。投げ捨てるように乱暴になってしまった。
二人を見ると、にやにやしている麻衣子と目が合った。里美ですら楽しそうに私を盗み見ていた。 ここには居ない明日香にも、顛末は直ぐ伝わるに違いない。
「え、貰っちゃって良いの?」
「持って帰っても仕方ないし、一度に全部食べたら太っちゃうし。」
早口になってしまった。言い訳めいて聞こえたろうか。
ぷいっと私は視線をはずした。鶴田に習い教科書を取り出した。
「ありがとう!」
視界の隅でぱっと鶴田は笑った。何の衒いもなく、心底うれしいと思っているようだった。
私は次の時間の予習をする振りをして、教科書に目を落とした。 心臓がどきどき言っていた。左手で頬杖をついて、ノートを広げた。 予習したセンテンスが目に入った。
「お腹空いてたんだー。技術って体力使うからね!」
だけど耳は、鶴田の声へ済ましていた。
がさがさと小袋が音を立てる。しゃくしゃくとこもった音。
「おいしいよ、これ。」
授業開始のチャイムをやけにほてった顔と、ほっとした気分で聞いていた。
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