(仮)

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−11−


 吐く息はどんどん白さを増し、足元はさくさくと音を立てた。 のどが痛くなるほど空気は乾燥していた。空はどんよりと重い雲に覆われていた。 見慣れた風景は弱い弱い光の下でくすんで見えた。 いや、それは天気のせいではなく、私の心情だったのかもしれなかった。
 雨粒が落ちるように、周囲は足音と吐息に満ちていた。 軽快なものもあれば重々しいものもあり、重々しい足音は次第に遠ざかっていった。 私の足音は重いほうだろう。次第に軽快な音も遠くなっていった。
 少し離れた場所からは元気な掛け声が聞こえた。 足音までは聞こえないが、きっと軽快なものばかりなのだろう。
 一際大きな歓声に、私はそちらへ顔を向けた。 誰かがゴールを決めたらしい。 サッカーゴールの前で幾人かが飛跳ね、飛び跳ねていない幾人かは悔しがりながら息を静めていた。
「今の、鶴ちゃん、だった、よっ」
 息を弾ませて麻衣子が耳打ちする。しっかり見ていたあたり、麻衣子らしい。 私は返答の替わりに軽く頷いた。それで精一杯だった。
 今日の体育は、女子はマラソン、男子はサッカーだった。 グラウンドの外周四周、二キロほどが今日のノルマ。 二月に入って体育の半分ほどをマラソンに費やしていた。 残りはバレーボールなど。男子の場合はそれがサッカーになる。
 私は体育全般が苦手だった。 おしゃべりの余裕のある麻衣子は運動部所属だ。このくらいの距離なら毎日走っているだろう。 余所見をする余裕も頷ける。
「後、二週〜。」
 にこやかに麻衣子はカウントする。まだようやく半分だ。 私の前には明日香がいた。結んだ髪がリズミカルに揺れていた。 みんなタフだ。私にはそう思えた。
「まだ半分だぞ!」
 スタート地点近くで、先生が声を張り上げた。 ストップウォッチを持って、生徒たちを叱咤する。 先生は気楽なもんだと半ば自棄に重いながら、私はそれを眺めていた。
「先生、気分が悪くなったので早退します!」
「なんだ、元気一杯に!?」
 男子のサッカー場で騒ぎが起きたのはその時だった。 元気一杯な声がそう宣言すると、サッカー場全体が騒然とした。 先生の慌てる声も聞こえたが、グラウンドから一人去っていく姿が見えた。 --鶴田だった。
 騒ぎは歓声とも罵声ともつかないものに変っていく。 大胆な行動を賞賛するものと、十一人が十人になってしまったことへの焦りだろう。
「鶴田ぁ! …足が速いな。」
 先生の声が空しく聞こえた。呼ばれた主は既に視界から消えていた。 先生は追おうと思ったのかもしれないが、ゲームが崩壊しかけたグラウンドに残っていた。 後でどうにでもなると飽きらめたのだろうか。
「…エスケープ? かっこいー。」
「関係ない、関係ない!」
 麻衣子がつぶやいた。 女子のマラソンの列も乱れていた。 先生が見ているからとしぶしぶ動き出したが、騒ぎに足を止めたものが大半だった。 私も麻衣子もその口だった。 明日香は興味がないのか立ち止まらなかった。
 確かに、元気一杯すごいスピードで走り去っていく鶴田は、とても具合が悪くなったようには見えなかった。 さぼりと思って間違いはなさそうだ。 なぜかは分からなかったが。
 鶴田は授業中は寝ているし成績もあまりよくなさそうだったし模範生には見えなかったが、 今まで遅刻や欠席などしたことはなかった。サボりも当然していない。 珍しいもんだと走り出しながら私は考えていた。
「鶴ちゃん、どうしたんだろうね?」
 麻衣子のおしゃべりも、心配の声音ではなかった。 勇者をたたえるかのように、楽しそうだった。 知らないと、私は首を横に振った。…それが精一杯だった。
 マラソンの列は多少順番を変えながらほぼ元通りになった。 明日香もいつの間にか、私たちの直ぐ前に戻ってきていた。
「あと一週〜。」
 麻衣子はそういい置いてスピードを上げた。 あっという間に私を置き去り、明日香を抜いて去っていった。 残り一周となって早くもラストスパートだろうか。
 私もほんの少しだけがんばってみた。直ぐ前を走る明日香に並んだ。 明日香は文科系を自称する割りに持久力はあった。昔からマラソン大会といえば上位とはいえないが、それなりの順位を取っていた。 この明日香のスピードを最後まで維持できれば、マラソン大会で普通の成績を取れるに違いなかった。 明日香は少し俯いて走っていた。私は息を弾ませて、明日香についていこうと思っていた。
 おやと思ったのは、明日香のスピードと吐き出される白い息だった。 そもそも私の直ぐ前に居ること自体がおかしいのだと気づいた。 しかも、一旦先のほうへ行きながら、私の直ぐ前まで戻ってきていた。 スピードが明らかに落ちていた。
 息はリズミカルには吐き出されず、苦しそうにも見えた。 前半ぽんぽん跳ねていた髪は、ふわふわ所在な気に揺れていた。 残り半周。その手前で、私は明日香を抱えて止めた。 マラソンの列を離れる。私たちの横を、さらに後ろを走っていた子たちが通り過ぎて言った。
 先生は呼ぶまでもなく飛んできた。すっかり息が上がっていた私は先生を呼ぶこともできず、だから、非常に助かっていた。 私は重さに耐え切れず、腰を落とした。 明日香はぐったりとしていた。意識は有るようだがかなり辛そうだった。 走っていたにもかかわらず手は冷たく、額には汗を浮かべていた。
「どうした?」
「貧血だと、思うんですけど。」
「二村、大丈夫か。」
 ばらばらとクラスメートたちが集まって来た。 みんながどうしたのかと見守る中で、明日香は真っ青になっていた。 具合は悪くなる一方のように見えた。
「保健室、行ったほうが良いな。」
 先生はそういうと、明日香を抱き上げた。クラスメイトたちが道を開ける中を、保健室へ歩いていく。
「残り半周だぞ。走ったら上がって良い。」
 先生はそう言い置いたが、実行されるかどうかはなんともいえなかった。
「麻衣子、明日香の荷物よろしく。」
「了解。」
 私もそう言って、先生の後をついていった。 麻衣子は短く応えた。
 保健室に行けばベットもあるし養護教諭も居る。心配ないはずだったがそれでも心配だった。 後ろから足音が一つ聞こえた。保険委員の信子だろうと思ったが、私は振り向かなかった。
「失礼します!」
 保健室へはグラウンド側のドアから入った。 先生は声をかけたが返答はなかった。養護教諭は不在だった。
「いないのか。」
「先生、私が。」
 信子は先にたって保健室に入る。保険委員ならではだ。 ベットの空きを確認し、明日香のために掛け布団をめくり上げた。 先生は其処へ明日香を寝かせる。私は慌てて靴を脱がせた。 信子はちょっと考えながら、廊下側入り口で書き込みをしていた。
「甘粕先生を探してくる。…適当なとこで戻れよ。」
 甘粕は養護教諭の名前だった。 私や信子の返事も聞かず、先生はグラウンド側から出て行った。 職員玄関で靴を替えてから探しに行くのだろう。
 私は掛け布団を明日香へかけた。信子は手ぬぐいを固く絞って持ってきてくれた。 私は受け取って、明日香の汗…多分、冷や汗だろう…をぬぐった。 明日香は朦朧としているようだった。 もしかしたら、今明日香の視界は真っ黒かもしれない。
「杏ちゃん、どうする?」
 本来は保険委員の信子に任せるべきだろう。私には手ぬぐいのありかも分からなかったのだ。 私はちょっとだけ迷って言った。
「もう少しここに居る。」
 幸い、保健室に先客は居なかった。私が居ても迷惑にはなるまい。
「分かった。…着替え、取ってくるね。」
 信子は言うと、靴を持って出て行った。生徒用の昇降口は、外から回るより中から行ったほうが遥かに近かった。
 信子とは、明日香とともに中学から一緒だった。明日香と私の仲も十分知っていた。 信子も心配なのだろうが、私に任せてくれたのだろう。
 しばらく、明日香の視線は定まらなかった。私は時折汗を拭いて、じっと待っていた。 甘粕先生はどこに行ってしまったのか、なかなか帰ってこなかった。
 5分かそこらだったろうか。不意にまぶたを閉じた明日香は、再びまぶたを上げると一瞬体をこわばらせたようだった。
「明日香、大丈夫?」
 私はささやくように聞いた。 保健室とか図書館では、誰も居なくても大きな声を出すことがためらわれたし、明日香の様子に大きな声は良くないとも思った。
 明日香はため息のような長い息を吐くと、ゆっくりと目を閉じた。 そのままようやく力を抜いたようだった。
「杏子か…。」
 息を吐くようにつぶやいた。安心したと言外につぶやいているように聞こえた。
「どうしたの?」
「うん…。」
 明日香はそこで言葉を切った。疲れているようにも見えたし、迷っているようにも感じられた。 私は急かさず、ただ待った。
「よく…寝られないの…。」
「寝られない?」
 私が声に出すと、明日香はかすかに頷いた。そしてそのまま静かに寝息を立て始めた。 私は静かにベットを離れた。今は寝かせた方が良いと思った。
 入り口脇のベンチに静かに腰を下ろすと、控えめなノックが聞こえた。 どうしたものかと逡巡していると、答えなど期待しないかのように扉が開いた。 着替えた信子と麻衣子だった。私と明日香の制服を持ってきてくれたのだ。
「明日香は?」
「今、寝たとこ。」
 信子は室内を見回してから静かに聞いた。先生が来ていないことは明らかだった。 信子は頷くと、制服を持ってベットへ近づいていった。 ベットの下からかごを取り出し、その中へ制服を入れる。
 私は信子に答え、麻衣子から制服を受け取った。 明日香はまだ心配だったが、寝ているうちは何もできない。トイレで着替えようと思った。
「信子、よろしくね。」
「あたしも教室に戻るね。」
「うん。任せて。」
 麻衣子とともに保健室を出た。授業終了のチャイムが鳴り、パタパタとスリッパの音が響いてきた。 ようやく見つけたらしく、体育の先生と、甘粕先生が小走りでやってきた。
「ごめんなさい。ちょっと長話しちゃって。」
 甘粕先生はそういうと、ちょっとだけ落ち着いてから、保健室のドアを開けた。
「お前ら、もう大丈夫だから、教室へ戻れ。」
「はい。」
 先生たちに促されるまま、私たちは保健室を後にした。
 気分が悪くて授業を中座した人はもう一人いた。 教室へ帰って隣の机の散らかった様を見た私と麻衣子は、それをとりあえず片付けた。 鶴田は本当にあのまま早退し、帰ってこなかったようだった。
 男の子たちの授業の合間の話題はもっぱらそのことだった。 どうだったのか聞く女の子たちに、身振り手振りを交えて語る男子もいた。 麻衣子などは率先して聞きだし、サービス精神旺盛に大仰な反応を返していた。
 なんでも鶴田は、サッカーをしている最中に突然立ち止まり、腕時計をじっと見つめていたらしい。 ちょうど自陣が攻められている最中で、二・三人が防御に回るようにと促したそうだ。 しかし、鶴田はそれに加わることはなく、結局突然の早退を告げたという。 ついでに、その敵の攻撃では結局点を取られ、鶴田の抜けたチームは負けたということだった。
 終業までそのままでいたが、鶴田は帰ってこなかった。カバンも制服も明日までそのままというわけにも行かない。 私はそれらを届けるために先生から住所を聞いた。 家が近いから、当然だと思った。
 明日香は終業まで保健室で寝ていた。甘粕先生は家に連絡しようとしたらしいが、連絡はつかなかったそうだ。 明日香の家は共働きである。この時間誰も居なくても無理はない。
 放課後、私は明日香のカバンを持って保健室へ向かった。 明日香とは小学校からの付き合いだったし、当然家も近い。 放課後何もなければ、送っていこうと思っていた。
「失礼します…!」
 僅かにノックして甘粕先生の返答を聞くと、保健室のドアを開けた。
「二村さんのカバンを持ってきました。」
 私は一言言うと、明日香の寝ているベットへ向かう。ベットには立っている人影があった。
「二村さん? 先客が来てるわよ。」
 甘粕先生は楽しげに言った。
 人影はずいぶん背が高く、そして、細かった。私はその影の持ち主に覚えがあった。 クラス中、いや、もしかしたら学年中に知れ渡っていたから、誰かが知らせたのだろう。
 ベットのカーテンが僅かに揺れた。メガネをかけたやさしげな双眸がその間から覗いていた。
「やぁ、東さん。」
「上原先輩…。」
「杏子?」
 大分回復したらしい、しっかりした明日香の声が聞こえた。
 先輩がカーテンから出てくる。穏やかな笑顔は私から見ても安心できるものだった。
「もう大丈夫だから、着替えるって。」
 先輩は言うと、明日香のカバンを取った。私はほんの一瞬迷ったが、カバンを先輩に渡した。 先輩はその一瞬に気づかなかったようだった。
「貧血だと思うわ。ちゃんと食べてちゃんと寝ること。 あんまり酷かったら病院行ったほうが良いけど、寝て治ったんなら大丈夫でしょ。」
 先生は明快に断言した。明日香にも聞こえるよう、少し声は大きかった。
「最近、元気ないと思ったら…」
 先輩は独り言のようにつぶやいた。 私は視線を落とした。上原先輩は付き合って一月足らずとはいえ、明日香の彼氏だった。
「…明日香、あんまり寝れないって言っていたんです…。」
「え…。」
 私もつぶやくように言った。先生は聞こえたのかもしれないが何も言わなかった。 意外そうに先輩は声を出したが、その後は続かなかった。
「最近の子はダイエットだなんだって、直ぐ無理するから。成長期はね、ちょっとぽっちゃりするくらいがちょうど良いの。 スタイルなんて、子供生んでから気にしなさい。ね、上原君もそう思うでしょ?」
「僕は…。」
 先輩は口ごもった。見上げると、顔を真っ赤にして俯いていた。 先生はにやにやその様子を眺めていた。
「ダイエットなんてしてません〜。」
 カーテンの中から明日香が答えた。
「明日香、細いもんね。」
「細くもないー。」
 ぷっと頬を膨らませて、明日香はカーテンを開けた。 ダイエットはしていないものの、満足する体型ではないようだった。 私は思わず笑んだ。ちゃんと赤みのある顔色と、言い返せるだけの元気さに安心した。
「先輩、杏子ったらひどいんですよ、人が太いの見て笑うんですよ。」
 これには先輩も笑って返した。
 私はほんの少しだけ、息を吸った。
「じゃぁ、あたし、帰るね。」
 なるべく何気ないように心がけた。笑顔も崩さないように気をつけた。
「先輩、送って行ってくれるんですよね?」
 明日香は僅かに口を開けていた。何か言いかけたのを、聞かないように私は言った。
「姫君が嫌といわなければ。」
 初めからそのつもりだったのだろう。ちょっときざっぽかったけど、先輩は驚くこともなく言った。 すこしだけ戸惑ったように明日香は私と先輩を見比べた。
「嫌じゃ、ないです。でも…!」
「塾より、二村の方が…。」
 先輩はそこで言葉を濁した。私から見えるのは背中ばかりだったが、明日香の頬は、 血の気が戻った以上に赤く見えた。
 私はそっとドアを開けると、静かに閉めた。
 そのまま足音を忍ばせて教室へ戻ると、放課後のあわただしさも一段落し、すでに誰も居なかった。 麻衣子は部活動だろう。里美は生徒会か。
 開けっ放したままの窓から冷たい風が流れ込んでいた。雲はどんどん重そうな色合いになり、いつ降り出してもおかしくなさそうだった。
 運動部が占拠する校庭の片隅を二つの背中が通り過ぎていった。 細めの長身の男性と、背中までウェーブの入ったきれいな髪の小柄な少女。明日亜と先輩だ。 私は二人を見送りそっと窓を閉めた。
 鶴田の荷物を取って昇降口へ向かった。自分の足音ばかりやけに大きく聞こえた。

 雨は、学校を出てバスに揺られている間に降り始めた。 折り畳みの傘をさして、家に寄らずに直接来た。
 鶴田の住所は、小学校の裏手にあたる場所だった。 バス停は小学校とは反対の方向にあったから、こちら間まで足をのばすのは本当に久しぶりだった。
 記憶と全く同じ箇所、ささやかに変わった箇所、そして、全く違う箇所。 住所は、記憶とは全く違う風景の一つだった。
「ここ?」
 前は畑だったように思う。専業とはいえない規模の、小さな、けれど多彩な野菜が植わっていた畑。 その面影はすでにどこにもなく。
 先生に聞いた住所には丁番号のほかに部屋番号も入っていたから、マンションだと思っていた。 記憶の中にはマンションなんてなかったけれど、大きな家がマンションに立て変わるのを何回か見ていた。
 左右の家の郵便受けで住所を確認した。その場所に間違いなかった。 間違いはないと分かっていてさえ、一回り区画を回って、さらに確認した。 一階に玄関が三つ。二階にも同数。郵便受けの前には、二階へ上がるための階段。 単身者用のワンルームアパート。建物はそんな風に見えた。
 建物の正面、六つ並んだ郵便受けには二つほど名前が入っていたが、鶴田の名前はなかった。 恐る恐る、住所にあった部屋のチャイムを鳴らした。 しばらく待ってみたけど、誰も出てこなかった。
 誰も居ないのだろうか。それとも、寝ているのだろうか。 父親の仕事で引っ越してきたと聞いていた。冷たいビールは、父のものと言っていた。
 体操服のまま学校から出ていった鶴田。元気一杯、飛び出していった鶴田。 病気にはとても思えなかった。 何かがあって、どこかへ行ったのだと思った。 だから、今、この部屋には居ないのだろう。
 でも、何故。 一人暮らしも、体操服のままの早退も。
 二階の真ん中。階段の脇にたたずむのも邪魔な気がして、私は道の対面へ移動した。 誰か居れば託せば良かったし、マンションなら管理人に頼むことも出来たろう。 左右の部屋の呼び鈴を押す気にもなれなかったし、部屋の前に置いていくのも気が引けた。
 いろいろ考えた気になっていたけど、多分、思考は止まっていたのだろう。 傘で防ぎきれない僅かな風に乗った雨が冷たいと、ぼんやり思っていた。
 ぶぅん。バイクの独特の音が近づいて来た。どれくらい佇んでいたのか、分からなかった。 私は壁に身を寄せた。傘が邪魔だったけど、バイクなら通り過ぎるのに十分だと思った。
 バイクは、意に反してアパートの前に止まった。大きなバイクだった。多分、大型というやつだろう。 このアパートの人だろうか。大学生か、フリーターってやつかもしれない。 フルフェイスのヘルメットで顔は分からなかった。 バイク用のスーツを着こんでいたけど、わりに小柄に見えた。
 変な人に見えたのだろうか。ヘルメットがこちらを向いた。 私は傘を深めにかざした。自覚がないわけではなかったから、せめてもと顔を隠した。
 もうすこしだけいたら、帰ろう。麻衣子に聞けば電話番号くらいは分かるだろう。 後で電話して、そして渡せば良い。そう考えていた。
「東?」
「え?」
 声は鶴田のものだった。くぐもってはいたけれど、間違う程ではなかった。
「どしたの? あ、制服か。ごめん、これ入れちゃうから。入ってて待っててくれる?」
 今度はもう少しクリアに聞こえた。ヘルメットのシールドをあげた先には見知った眼があった。
 がさごそとポケットをあさると、何かを投げてよこした。あわてて受けとったそれは、部屋の鍵だった。
「え、あの、荷物を渡せれば…」
 私の声は、エンジンの音にかき消された。鶴田はアパート脇の駐輪場へバイクを入れているところだった。
 部屋に上がるなんて考えていなかった。男の子の部屋に入るなんて考えたこともなかった。 荷物を押し付けて帰ればよかったのかもしれなかったが、結局私は動くこともせずに立ち尽くしていた。
 慣れた様子で屋根の下に収めると、鶴田は今度はヘルメットを取った。冷たい雨に僅かに顔をしかめた。
「上がっててくれてよかったのに。冷えるでしょ?」
 戻ってきた鶴田は、鍵と自分の荷物をもつと階段を上がっていった。 軽快な足音を迷いながら私は聞いた。
「コーヒーくらい飲んで行きなよ。風邪引くよ?」
 傘を斜めにして、鶴田を見上げた。冷たい雨が顔に当たった。 …私は首を振っていた。
「大丈夫。直ぐ近くだし。」
「東?」
「また明日ね。」
 傘を深くさしなおして、踵を返した。 物言いたげな声が聞こえたけれど、振り返らなかった。


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