(仮)

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−12−


 白い息は、バスに乗ったとたんに見えなくなった。 ステップをあがり、定期券をかざす。後ろの人に押されるようにして車両の真ん中付近の柱をつかんだ。 定時待ちのわずかな停車時間。 バス待ちの列がとぎれると、カードの音は時折響くだけになった。 私はその音が響くたびに、前方の扉を伺った。
 ばさり。サラリーマンが新聞を広げた。 もったいぶったように、エンジンが入った。 息を吹き返す暖房の送風口。 ガタン。弾んだ息がここまで聞こえた。 ちょっとだけ目をやって、ため息をついた。白いジャケットを着たその人を最後に、扉はきっちり閉じられた。
 窓の外に目をやった。走っている制服姿はなかった。 今日は休みなのだろうか。思いかけた頃、白いジャケットが真横に来ていることに気づいた。
「おはよう。」
 声にあわてて振り返った。聞き慣れたその声、声の主は鶴田だった。 白い大きめのジャケットの下は、グレーのセーター。サイドポーチを小脇に抱えて、にっこりと笑っていた。
 私は顔を元に戻した。すっかり色のあせた街路樹が、窓の外を過ぎていく。 昨日のスーツ、今日の私服。まっすぐ鶴田をみれなかった。
「おはよう。…制服は?」
「さぼり。ちょっと行くところがあって。」
「そうなんだ。じゃぁ、先生には適当に言っておくね。」
「ありがとう。」
 信号でバスは停車した。すぐに動き出しT字路を曲がる。 よろけた私は、鶴田の腕にあたった。 つり革を軽く持っているだけの鶴田は、さほど姿勢を崩すこともなく、立っていた。
「ごめん。」
「いいよ。何なら、腕につかまる?」
 ぶんぶんぶん。首を振った。柱をしっかりと掴み直した。
「大丈夫。ありがとう。」
「どいたしまして。」
 ちょっと横目で見ると、鶴田はいつものいたずらっぽい表情で、にかっと笑っていた。 私はちょっとだけ頬がゆるんだ。格好が違っても、鶴田は鶴田だった。
「そだ、頼まれついでで悪いんだけど。」
「なに?」
 やっとまともに振り返ることができた。白いジャケットは革のように見えた。 大人っぽく見えるわけだなと、妙に納得した。
「うちのこと、オフレコにお願いできる? さぼりも。…やっぱり、高校生が一人暮らしは目立つよね。」
 苦笑いを浮かべる、事情があるんだろうと頷こうとして、反射的に全く違うことを口走っていた。
「口止め料、欲しいな。」
「え、高い?」
 明らかに焦ったような声が楽しかった。くすくす笑いながら、私は首を横に振った。
「バイクの後ろ、乗せて欲しい。」
「バイクの?」
 鶴田は明後日の方向をじっと見つめた。何を考えているんだろうか。 バイクの後ろ、二人乗り。難しいことだったろうか。 それとも、決めた相手しか乗せないとか。…考えて、どきっとした。
「…うん。いいよ。」
 撤回しようか迷っているうちに鶴田は言った。考えていたのは、予定だったようだ。
「土曜日とかなら大丈夫だ。」
「本当?」
「どこに行きたい?」
 海と、私は反射的に答えた。 学校が休みの今度の土曜日。朝早く、鶴田の家の前でと約束した。
 学校へ着き、私はバスを降りた。鶴田は振り返る私にバスの中から軽く手を振っていた。 強い北風が吹き抜けたけど、寒さは感じなかった。

 窓側の一方を欠いて、三人で机を囲んだ。 昼休みは始まったばかりで、教室の中では少々大きな声を出さないと会話もできなかった。 みんながそうするものだから、余計にどんどんうるさくなった。
 まだちょっと悪い顔色のまま、明日香は音楽室へ向かった。 朝早めに来た時には、一応大丈夫だと言っていた。 向かう先には上原先輩もいる。心配する必要はなかった。
 包みをといてお弁当を広げる。わずかの間にも頂点に達した話し声は少しずつ減っていった。 足音が少なくなると、普通に会話できる程度にまで落ち着いていた。
 お箸と弁当を抱えて、何気なく里美が仕入れた情報をひけらかす。
「明日香ちゃんさ、今日早かったじゃない?」
「昨日の今日だもん。校門前で走れないっしょ。」
「あれさぁ。」
「うん?」
「上原先輩と来たらしいよ。」
「え、上原先輩って、家逆でしょ?」
「信子が目撃者。」
「すっごーい。何時に起きたんだろう。」
「愛の力よね。」
 うんうんと、里美は頷く。麻衣子は何を考えていたのか、しばらく宙を見つめた後、首を振った。 卵焼きを取って口の中へ放り込む。
「できないわ。愛のためでも。」
 私は会話に口を挟むことができないまま、内心でかなり驚いていた。 昨夜メールしたときに大丈夫と帰ってきたわけが、ようやくわかった。
 素早く橋を動かしながらも、二人の会話は続く。私はそれを聞きながら、もくもくと箸を動かし続ける。
「休むのも考えたらしいんだけど、おとなしくしてれば大丈夫だしって言ったら、先輩が迎えに行くってことになったんだって。」
「やーん。あたしだったら真っ先に休むのになぁ。」
「明日香ちゃんまじめだもん。」
「まじめってより、やっぱり愛の力なんじゃぁ。」
「先輩も止めればいいのに。」
「その辺はほら、どっちが主導権を握るかによってぇ。」
「なにそれ!」
「いやいや、恋愛に置いて主導権ってのは案外馬鹿にできないよぉ。」
「麻衣子はね!」
「なによぅ。誰だって同じよぅ。」
「止めなかったって言うか、明日香ちゃん、家に一人でいるのが嫌だったみたいよ。」
「あぁ、明日香ちゃんちってお母さんも働いてるんだっけ。うちは専業だからなぁ。昼間いないなんて、羨ましい。」
「そうでもないみたいよ。この間携帯変えてたじゃない、あれ、変なメールとか着信が増えたからって話でさ。」
「この間ちょっと言ってた? いたずらでしょ?」
「結構ひどいみたいで。呼び鈴押し逃げされたりとか、家電も出ると切れたりとか、増えたらしくて。」
 私は思わず箸を止めていた。そこまでひどいとは知らなかった。 この間言ったとおりに、先輩には相談しているのだろう。 明日香自身はそういうことを吹いて回る子ではないし、里美も又聞きのようだった。 先輩が相談を受けて、その後で回ったのだろう。 ……明日香のことを本人以外の口から聞くことになるとは思わなかった。
 私はのろのろと食事を再開した。ご飯をまずく感じて、お茶を一口飲んだ。
「……じゃん、どうだった?」
「え?」
 聞いていなかった。代わりに弁当はほとんど食べ終えていた。 顔を上げると、二人の視線は私の上にあった。
「ごめん。何?」
「鶴ちゃん。どうだった? 昨日プリント置きに行ったんだよね。」
 仕方ないなという顔をしながら、大して気にもしていないように麻衣子は言った。 里美はうんうんと頷いている。
 二人のお弁当は、三分の二を消化したあたりだった。
「あ、鶴田君か。」
 答えようとして、言葉を切った。 今日の休みも体調不良ということになっている。 里美、麻衣子といえどサボりを公言するのははばかられた。
 それに。
「えっと。……寝てるんじゃ、ないかな。」
 私は弁当箱を閉じた。包み直して、お茶へ手を伸ばした。
「具合悪そうだった?」
 里美は少し心配、という風に聞いてきた。面倒見の良い里美だから、それはとても自然なことだった。 私はほんの少し後ろめたさを感じていた。
「お母さんがいるみたいだから、大丈夫じゃない?」
 努めて普通に私は返した。一人暮らしのこともオフレコだった。無難な答えだろうと思った。
「ふぅん?」
 麻衣子は歯切れ悪く頷いた。そして、里美に見えないように、僅かに笑って見せた。
 多分、観念することになるんだろうと、お茶を飲みながら思った。

 バイクは初めてだった。乗るのも、ましてやリアシートなんて。 出かけることは昨夜言っておいたから、起こさないように家を抜け出すだけだった。 けれどそんなに早く出かけることも初めてで……逃避行のようだと思った。 家の前まで迎えに来てくれたバイクのエンジン音は早朝の住宅街では騒音にしかならず、 親が起きてくるのではないか、顔見知りに見とがめられるのではないか、そんなことを考えてしまった。
 最初は怖くてしがみついた背中は、思ったよりも大きくて、見かけ以上にしっかりしていた。 これ以上ないほどのどきどきが伝わってしまうのではないかと、風切るバイクのリアシートで思っていた。
 土曜日の早朝は渋滞どころか対向車もまばらだった。路肩からのびる影が街灯の消えた道路に陰影をつくっていた。 東に顔を向けると、建物の間からちらちらとのぼり始めた陽が見え隠れしていた。 影が短くなる前に、空気のにおいは変わっていた。 ちょっとしたハプニングを覗けば、行程は順調だった。順調すぎて、少しだけ残念だった。
 視界いっぱいの海は、今まで見たいつのものよりも深い色をしていた。 砂浜には犬の散歩をしている女性がいるだけで、ゴミもほとんどなかった。 少し湿気た海風は、キンキンする冬の空気の中で優しい感じがした。
「あー、失敗したぁ。」
 駐輪場を出て、鶴田は手すりにもたれかかった。がっくりと肩を落とした様子がおかしくて、私は笑ってしまった。
「土曜の朝だよ? そんな時間からねずみ取りなんかやってんじゃねーよぉ。」
「スピード出したのは鶴田君じゃない。」
 くすくすと笑ったままで私は言った。鶴田はちらりと私を見て、諦めたように一段と肩を落とした。
「あたしも少し出すよ。しょうがないじゃない。」
「あー痛いけど、いいよ。大丈夫だから。大丈夫だけど、しょうがないし。けどやっぱり、痛い〜。」
 へちょっと擬音がつきそうな様子で、鶴田は手すりと仲良くなってしまった。 私も手すりにもたれかかった。視界の正面に上ってきた陽が海面に反射して、私は目を細めた。
「まぶしー。」
 私は目をぱちくりして、鶴田を見た。すっかり手すりと仲良くなりながら、鶴田は海面を見ていたようだった。
「綺麗だねー。」
「う、うん。」
 同じものを見ていた。きっと同じ時に、同じことを考えた。心臓がまたどきどきしていた。顔が熱かった。
「折角だし、降りよっか。」
 鶴田は勢いをつけて手すりからはがれると、ちょっと笑ってそのまま歩き始めた。 駐輪場の出口の脇には、砂浜へ降りる階段がしつらえられていた。 じゃりじゃりする階段を、足下を気にする風でもなく降りていく。 私は小走りで近寄ると、その後をついて行った。海面のきらきらが背中の分だけ切り取られる。 なんだか、楽しかった。
 波打ち際まで進んで、鶴田は足を止めた。ブーツが濡れない、ぎりぎりのあたりだった。
「海、好き?」
 唐突に振り返って鶴田は言った。 私は鶴田から一歩下がった位置で、横にずれて、深呼吸している最中だった。
「え、うん。なんで?」
「迷わなかったでしょ。」
 にっと笑っているようだった。海面のきらきらが、横顔を彩っていた。
「俺も結構好きなんだ。夏の海じゃなくて、冬の誰もいない海。」
「静かだし、綺麗だよね。」
「そうそう!」
 一歩前へ進んだ。ちょうど鶴田に並ぶあたりだった。 陽はだいぶ高さを増して、そろそろ反射も無くなりそうだった。
「夏だとさ、北海道とか日本海側がいいな。こっちは人が多くて。」
 見上げた鶴田の横顔は、まだ少し目を細めながら、苦笑していた。 私も同感だった。このあたりは都市圏に入る。夏場の海岸には足の踏み場もない。
「ツーリングって言うんだっけ。」
「そ。仲間とバイクでいろいろなところを回るんだ。北海道一周したり、九州を回ったり……」
 ひたひたと押し寄せては引いていく。波はちょっとずつ押し寄せるたび遠ざかって、引いていた。 背後の道路をバイクが一台抜けていった。そろそろ車の量も増えてくる頃なんだろう。
 鶴田はちょっとだけ弾んだ声で続けていた。海の綺麗さ、野生動物との遭遇、無人駅を拝借した夜。 時折頷きながら、私はただ聞いていた。鶴田の目から見た世界は、なんて綺麗なんだろう。
「好き、なんだね。」
「うん。いいとこだと思う。……やっぱりさ、自分が生まれて生きてる世界だし。」
「世界?」
 太陽はすっかり登り切っていた。海は穏やかで、もうまぶしくはなかった。 けれど、海の彼方を見つめる鶴田の目は、まだすこし細められていて、穏やかに笑んでいた。
「さって。ファミレスでも入らない? おごるよ。……俺、飯抜きなんだ。」
 くるりと振り向いて鶴田は言った。 タイミング良く私のお腹も鳴り出して、鶴田は声を立てて笑った。 了解したとばかりに道に向かって歩き始めた。

 ファミレスで少し遅い朝食を取ってゆっくりした後、私のバイトの時間に間に合うようにと、海岸を後にした。 帰りはそれなりに車もいて、行きにスピード違反で捕まってしまった場所には、数台の車が止まっていた。
 信号で止まったときにちょっとだけ顔を合わせて笑った他は会話らしい会話もなかったけれど、 鶴田の背中はやっぱり大きくて、暖かくて、リアシートは思いの外居心地が良かった。
 心配するまでもなく、早めと言える時間にバイト先には着いた。 私をおろすと、その後ろ姿は軽やかに角を曲がっていった。
「杏子ちゃん、今の彼氏!?」
 店に入るなり、交代となる先輩が弾んだ声を出した。 私は首を横に振った。
「そうならいいなって、思います。」
 顔が熱かった。


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