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−13−
ドアを引いて真っ先に目に飛び込んできたのは、ホワイトボードに並ぶちょっと不思議な単語だった。 『時間』『空間』『ちょうやく』『記おく』『分き』
入るドアを間違えたかと思い、振り返る顔々が知ったものだと気づいた。 ホワイトボードの前、マジックを握るのは幌居だった。 軽く片手をあげて、にんまりと私へ笑いかけた。一瞬の無表情の後で。
「こんにちは、あの……。」
「いらっしゃい。今日は勉強会だよー。」
皆、手に手に台本を持っていた。矢追はホワイトボードの脇、役者のみんなと対する側にいた。 台本の設定についての勉強会なのだと、見当をつけた。舞台の世界、設定、内容。共有できなければ、良いものは作れない。
「適当に座って。あ、東も疑問に思うこととか、こう思うなってのがあったら、遠慮なく言って。」
「はい。」
三々五々、皆の視線はホワイトボードへ戻っていった。幌居も板書を再開する。 こちらを向いたままの矢追だけが、私を目で追っていた。 目が合うと、穏やかに笑う。 私はできるだけ気にしないように移動し、少し離れた場所に座った。
「本屋で、マガジンとジャンプが並んでるとして、どっちをとる? どっちでもいいんだけど、たとえばジャンプを取るとする。 ジャンプを取った時間がこの線だとしたら、マガジンを取った時間てのは……。」
幌居はまっすぐに引いた線に、Y字になるように線を足した。 マジックで分岐点に○を描き、追記した線を指した。
「こっちなわけだ。ジャンプを取った線と、マガジンを取った線は、この分岐で分かれてその後二度と交わらない。」
「それだと、平行じゃないんじゃないか?」
役者側から質問があがった。説明はどんな内容でどこまでされたのだろう。『平行』と言われても、私にはさっぱりだった。 幌居は待ってましたとばかりに、ホワイトボードに平行線を書き始めた。 それを横目で確認して、すいと矢追が腰を上げた。 ……私の疑問は、思い切り顔に出ていたらしい。
「俺たちの感覚で言うと、Y字が近いと思うけど……決定論的に、似通った平行宇宙って考えることもできる。その場合だと……」
「平行宇宙ってわかる?」
幌居の講義は続いていた。役者はみな、真剣にそれを聴きいっているようだった。 矢追は私の側へやってくると、手近な椅子を引き寄せた。幌居の声を遮らないよう、小声で言った。
私は首を振った。数学も理科もあまり得意ではなかった。平行といえば、二本の線が浮かぶだけだ。
「この宇宙には、ちょっとだけ違った宇宙から、全く違う宇宙まで、平行に、交わらずに無数の宇宙が存在している。 そういう考え方があるんだ。」
少し考えて、私は頷いた。絶対に交わらない。だから、平行か。
「この物語は、平行宇宙の考え方をもとにしているんだ。主人公のいる最初の世界をA。彼女のいる世界をB。 その他の世界をC,D。主人公は大人になって、これらの世界を移動するんだ。」
矢追は台本の後ろにアルファベットを書き、それぞれを丸で囲んだ。この一つ一つが世界。一つ一つを舞台で表す。
矢追は続ける。
「CとDは全く違う世界。AとBはとてもよく似ている世界。似ているけど、違う世界。」
「ジャンプとマガジンのように?」
幌居の話は先に進んでいるようだった。ホワイトボードには同と異、そんな漢字が並んでいた。
「そう。ジャンプとマガジンだけが違う世界かも知れない。けれどその先、その二つの世界は同じではあり得ない。 ジャンプから始まる未来と、マガジンから始まる未来は別の物なんだ。」
こくり。台本を見ながら頷いた。それは何となくわかる気がした。 たとえば、私があぁこたえなければ、明日香は上原先輩とつきあっていなかったかも知れない。きっとそういうことだろう。
「AとBはそれにとてもよく似てる。Aは彼女の居なくなってしまった世界。Bは彼女がいる世界。違いはそれだけ。 ……それだけで全てが違う。」
矢追はふと言葉を止めた。その視線に私が気付くと、言葉を足した。私は直ぐに視線を戻した。……なぜと聞いたら後戻りできない、そんな気がして。
「……でも、彼女はAにもいたんですよね?」
「うん。でも、消えてしまった。」
「消えた、ですか?」
「そう。存在そのものが、消えてしまったんだ。」
私は矢追を見上げた。言葉の意味がつかめなかった。つまりそれは、ジャンプを選んだ世界で、ジャンプそのものがない、ということ。 ……矛盾している。
「Aにいた彼女と、Bで生きている彼女は同じ人物だと思う?」
顔に出ているであろう私の疑問には答えず、矢追は穏やかな顔で言った。静かに笑んで、私を見ていた。
こくり。私は頷く。同じ人物でなければ、主人公が探す意味がないのだから。たとえ主人公を覚えていなくても。
「生まれも違う。育ちも違う。記憶していることも、考えていることも違う。性格も違うかもしれない。年齢だって異なる可能性がある。 それでも同じといえるだろうか。」
矢追は片方の口の端をほんの少し上げた。自嘲するかのように。私はじっと矢追を見つめた。
「存在は世界が認めると言うこと。世界が違うということは、存在が違うと言うこと。同一人物でも、世界が違えば存在が変わる。」
首をかしげた。世界が違うことで彼女でなくなるなら、なぜ探すのか。その前に、消えてしまったとはどういう事なのか。
「……世界から消えるというのは、存在がなくなるということ。定義がなくなると言うこと。 生まれた記録はなく、誰の記憶にも残らず、死ですらない。まさにいないという、状態。」
この人はどこを見ているのだろう? 矢追の視線は私の上にあった。けれど、映しているものはもっと違うものであるような気がする。
「主人公はどうすべきだと思う? 違う世界で生きる彼女を、どうすべきだと思う?」
それは、未だ決まらない、物語の最終章。
私は首を横にふった。……答えられなかった。
彼女を恋しく思い何年も追い続けた少年は、そのことを知っていたはずで。けれど、彼女は彼女の世界で生きていて。世界の溝は埋まらないのか。同じ世界で生きることはできないのか。
パン。はっとしてし切り直すような音の出所へ顔を向けた。幌居が手を叩いたのだ。すっきりした顔は、説明しきった満足に包まれていた。 ……対して役者達はとまどっているようにも見えた。無理もないと私も思う。こんなファンタジーか、SFのような話。
「んじゃ、演技のプランは各自で考えて。照明、装置、音響も微妙に世界ごとのコンセプトを決めて。質問はー?」
幌居がふると、早速手が上がる。みんな熱心だ。
「移動の時になんか効果入れた方が良いよな?」
「主人公の世界と、彼女の世界は似てるんだろ? 演出としてはどう違いをだすつもり?」
「大きいの入れると、全く違う世界って表現し辛いよな。」
「その前にハコ決めてくれよ。」
「移動の効果はあった方が良い。SFっぽいの。主人公の世界は……セピアっぽくできない? ほら、昔じゃん? 矢追、そんなんでいいか?」
突然、こちらへふった。ちょっとだけ驚いたように幌居を見返す。
「あ、うん。それで良いと思う。……舞台だよね?」
「ちゃんと聞いてろよー。」
失笑が漏れ、矢追はホワイトボードの前へ移動した。私もくすくすと笑った。居心地の悪そうな矢追がおかしくて。
……そして、鳴り続ける携帯に、ついに私は気付かなかった。
着信に気付いたのは、家に帰る途中だった。 カバンの底に入り込んでしまい、音が届かなかったのだろう。
番号は明日香の物で、私はその場でコールした。
−−ただいま電源が切られているか、電波の届かない……。
無機質なアナウンスに首をかしげながら、携帯を切った。
家に帰って二回目の電話をかけたけど、やはり電波は届かなかった。
電話がかからない理由は、母から聞くことになった。騒がしい食卓で世間話の一つとして出てきた。 まさに主婦の情報網の早さだった。けれど。母から、いや、明日香以外の誰かから聞きたくはなかった。
「そういえば、そこの竹やぶで暴漢が出たんですって。」
「暴漢ー? この寒いのに?」
脳天気な声は、久々にまともな時間に帰ってきていた姉だった。野菜ばかりを箸で選んで忙しく口に運ぶ間に、しっかり声も出していた。
竹やぶはバス停から上がってくるあの道だった。思い出してぶるりと身震いした。暖かいみそ汁を含むと、落ち着いた。
「前から危ないと思ってたんだ。大矢さんに掛け合ってみよう。」
竹やぶは大矢さんという家の敷地にあった。持ち主に掛け合って、切り開くか何か対策をと考えたのだろう。 ……今まで何もなかった方がおかしかったのだ。
「誰がそれ見たの?」
姉の声は脳天気そのものだった。間近な危険でも、自分に降りかからなければそんなものなのだろう。 私もあんな事がなければ、似たような物だったはずだ。
「それがね。女の子が襲われたらしいの。幸い、通りがかりの人に助けてもらったらしいんだけど。……ほら、あの子よ、二村さんとこの。」
「え……。」
「なになに、明日香ちゃん? やだー。大丈夫だったの!?」
「そうそう、明日香って言ったっけ。杏子と一緒だったわよね?」
「……。」
「すっごくリアルじゃん。TVの取材とか来たりするのかな。」
「由実子。」
「お父さん、だってさ、こんな身近で事件なんか起きないよ! いいじゃん、なんでもなかったんでしょ?」
「そうよね、運が良かったわよね。」
「助けてくれた人ってどんな人?」
「それがね、この辺の人じゃないらしいんだけど。関西弁のひょろっとした男の人だったそうよ。」
「ちょーラッキーじゃん。たまたまなんでしょ?」
こくりと頷くことしかできなかった。お椀を重く感じ、おみそ汁の表面が揺れていた。姉の脳天気な声がBGMのように聞こえた。
あの電話は、気付かなかったあの電話は、もしかすると。
「……ごちそうさま。」
「杏子。」
「もう食べないの?」
「今更ダイエット?」
振り向かずに部屋へ向かう。ドアをしっかりと閉じると、慌てて携帯をとった。電話はやはり通じなかった。もしかするとこれは、病院、なのか。
通話ボタンを押して、電話を切る。メールを打つ。指が震えてうまく文字が入らない。 冷たい指を懸命に動かして、送信ボタンを押した。『大丈夫!?』それだけを入力して。
メールは一方的なコミュニケーション手段。待つしかない。 携帯をもったままベッドに突っ伏した私の耳に、姉の声が床を通して聞こえてくる。 私が居なくても、食事のにぎやかさは変わらない。
「なにそれ、ストーカーってヤツ? ……大丈夫! そういうのはうまくやってるもん。……わかってるってば気をつけるよぉ。 ……えー? 秘密ー。……あたしまだ大学生だよー? それよりさぁ……」
手に持ったままの携帯が震えて、私は飛び起きた。一拍遅れて着信音が響く。 画面に出ているのは”明日香”の文字。通話ボタンを押すのももどかしく、携帯を耳に押し当てた。
「明日香!?」
「東さん?」
「え……。」
男の人の声だった。電話で聞くのは初めてで、だから、一瞬誰だかわからなかった。
「……上原、先輩?」
「うん。」
「あの……。」
不安がよぎる。なぜ明日香の携帯を先輩がもっているのだろう。私にかけてくるのだろう。明日香、は。
「あぁ、今……病院なんだ。中でかけられないから、外だけど。」
「明日香、大丈夫なんですか? 無事だったって……」
「知ってるの?」
ちょっと驚いたように先輩は聞き返した。
「……母が、近所の人から聞いて……」
「そう。二村は大丈夫だよ。なんともない。通りすがりの人が助けてくれて。今は眠ってる。」
「……はい。母にもそう聞きました。……ストーカーって聞いたんですけど。」
「うん。……ちょっと前から二村気にしてて……今日は予備校でついててやれなくて……本当に良かった。」
上原先輩の声は優しかった。心の底から安堵している様子がうかがえた。
ほっとした。噂ではなく、もっと間近な人の言葉だった。
「あの、どこの病院ですか?」
「あぁ、総合病院だよ。明日来るの?」
「……まだ、面会できますか?」
「今日? もう遅いよ。今日は僕がいるし、ご両親ももう来るから。心配いらないよ。……危ないし。」
「……はい。あの、先輩も帰るとき、気を付けてくださいね。あと、明日香が目を覚ましたら……」
「ちゃんと言っておくよ。それじゃぁね。」
上原先輩はそういって、電話を切った。待ち受け画面に明日香の携帯の番号が浮かび、通話時間が表示された。
音がなくなってしまい、再び階下の声が聞こえるようになった。食事が終わり、声の中心は居間に移動しているらしかった。
携帯を畳んでベッドの脇に投げるように置いて、ごろりと仰向けに寝転がった。 そして……ぽろりと一つ水玉がこめかみを滑った。
月曜日、上原先輩と一緒に登校した明日香は、いち早く情報を掴んでいた連中を困ったようにあしらったり、一度先生に呼ばれたりした以外は、ごくごく普通に、何ごともなかったかのように過ごし、放課後はまた上原と一緒に帰ったようだった。
一度、大丈夫かと聞いたら『大丈夫。心配してくれてありがと』と言ったきりもうその話題には触れなかった。 私はこれまでと同じように、二人の背中を教室から見送った。
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