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−14−
いつもはしっかりと閉じるコートのボタンを、閉じる気になれなかった。喉はまだほんのりと熱くて、心地よい疲労感があった。声を出すことは気持ちいい。もう一年以上発声なんてしていなかったから出ないかと思ったけど、身体はまだ十分に覚えていた。
「おまたせー。いこか。」
鍵を返しに行った幌居が戻ってきた。促されるように、私と矢追も歩き始めた。自動ドアが開くと、冷たい空気が待っていた。それすらも気持ちよかった。
「東、良かったよ。やっぱりうちの女優やらない?」
「とか言って、先輩、女優さん見つけるのさぼる気でしょ。」
「あ、そ、そんなことないって。」
くすす。焦った幌居の様子はおもしろかった。でも、私もまんざらでもなかった。
未だに女優がいない劇団。役者の人数にも余裕がなくて、代役として台本を読んだ。少しだけ発声練習をして、声を張り上げた。頼まれて、見ているだけでは物足りなくなっていた私は、二つ返事で引き受けた。けれど、女優として舞台を踏むかどうかは、またちょっと別だった。
「でも、思った通り、東さんならイメージにぴったりだ。考えてみてよ。」
にこりと矢追は笑った。嬉しかったけど……やっぱりちょっと困る。代役ならできるのだが。
「じゃぁさ、女優が見つからなかったら、やって。どう?」
「それはさぼっても平気って言ってませんか?」
「あぁ……読まれたか。」
あはは。くすす。私も矢追も同時に声をあげた。女優をやる勇気は持てそうにないけど、それでも、イヤな気はしなかった。どんなことでも必要としてもらえるなら、嬉しい。
公民館を出て、駅へ向かう道は人が多くざわめいていた。終了時間の早かった今日はまだ日があって、買い物をすませた人々や夜遊びに出かける人たちで、にぎやかだった。
それでも気がついたのは、多分、鶴田だったからで、しかも硬い表情のままこちらに向かってきたからだろう。
鶴田はラフな普段着で……息が白くなかった。
「東。」
「あれ、どうしたの? ……なに?」
鶴田はポケットにつっこんだ手を出して、通り過ぎざま私の腕を取った。そのまま数歩進んでいく。
「東、知り合いー?」
のんびりした幌居の声が追ってきた。私は慌てて首を縦に振った。
「そか。……んじゃ、俺ら行くわ。また明日なー。」
「お疲れ様でしたっ。」
幌居は軽く手を降った。矢追もちょっとだけ手を振って、二人は私に背を向けた。そのまま肩を並べて歩いていく。幌居が一度ちらりとこちらをみると、見送るほどの間もなく人混みに紛れて行った。
「鶴田君。」
「あいつと知り合いなの?」
「中学の先輩よ。」
「そっちじゃなくて。」
「先輩の知り合い。……何。」
文句を言おうとした。いきなり腕を引くなんて。けれど鶴田は、私の言葉なんて聞く気はないようだった。硬い表情のまま、幌居達が去った方を睨んでいる。
一体どうしたというのだろう? いつもの穏やかな鶴田ではなかった。初めての日の屋上、竹藪で助けてくれたあのときと、同種の雰囲気だった。
「あいつ、竹藪のヤツじゃないの?」
「わかんない。けど、先輩の知り合いだし、すごくいい人だし……。」
正直、わからなかった。あいつのような怖さは感じない。けれど、どこか薄い存在感や、何となくそぐわない雰囲気に違和感もないわけではなかった。幌居がどこでり合ったのか、普段は何をしているのか、矢追のことはまだ何も知らない。
「もう、会うのはやめた方が良いよ。」
「え?」
「なにかあってからじゃ遅いんだ。」
まっすぐな鶴田の目がじっと私に向けられていた。見たこともないほど、真剣に。だからかえって、わからなかった。
「どうして?」
「この間みたいなことがあったらどうするんだ。二村だって危ないとこだったじゃないか。」
どきりとした。月曜日にちょっと騒がれた以外、明日香も周りも何ごともなかったかのように一週間が過ぎていた。……明日香はそんなに強い子じゃない。結果何もなかったから、騒ぎたくなくて表面を取り繕ってるだけだと私には思えた。けれど私の前でも、その態度は続いていた。きっと、彼氏と女友達の違いというのは、そういうことなのだろう。そう、思った。
「……それとこれとは全然違うよ。」
そんな思いを出さないように気を付けて、鶴田を見かえした。私にはストーカーなんていないし、されている覚えもない。確かに竹藪は危ないけれど、矢追とは関係がないことだ。
「東の方がもっと危ない。」
「なんで? 一月も稽古見てて、何もなかったし。」
「え、そんなに?」
鶴田は薄く唇を噛んだ。私から目をそらして、なにかを考えるようにじっとうつむく。
「ねぇ、いったい何なの? 矢追さんはあいつとは全然違うよ。そうだったとしても、あたしはただ、芝居のお手伝いをしているだけで、危ないことなんか何もないし。……鶴田君、時々、わからないよ。」
大人っぽい事もあれば、失敗して子供みたいに慌ててみたり、授業中はすこっと寝てしまうのに、体育の時だけ大活躍で。バスの中でさりげなく守ってくれたり、みんなにからかわれて慌ててみたり。明るくて、優しくて、危ないときにはいつも助けてくれて。
家にも行った。一人暮らしだって事は、誰にも言ってない。バイクにも乗せもらった。スピード違反で切符切られて凹んでたのもよく覚えてる。クラスのの誰より、鶴田のことは知っている。知ってると思ってる。けど。時折見せるミステリアスな部分に、不安になる。
こんなに、好きなのに。
風がよりいっそう冷たくなった。ほてっていた身体もすっかり冷えてしまった。通り過ぎる人の足が速くなる。……日が暮れる。
「だー。もー、わかんねぇっ。東、自分の安全を考えるなら、もうその……稽古には行くな。」
「なんで?」
「なんででも、だよ。あーもう、日が暮れるじゃん。帰るでしょ。送ってくよ。」
鶴田は私の腕を取った。二三歩すすんだけど、腕だけが持ち上がって……私は動かなかった。
鶴田はいつもの鶴田だった。もう。厳しい顔もしてないし、困ったような表情で、振り返った。命令するように言う、その言葉以外は。
「納得できないよ。なんで稽古に出ちゃいけないの? 何が危ないの?」
困ったような途方に暮れたような顔して、鶴田は腕を放した。
「東には無事でいてもらいたいんだ。」
「え?」
どくん。胸が鳴った。
「どうして?」
ある答を期待していないとはいえなかった。
思えば鶴田はいつも私の側に居てくれた。だから、誰より、クラスのどんな男子より、その人柄に触れることができた。その、最初から。
はっきり言ってくれたら……もう稽古に行かないかもしれない。
「どうしてって、仕事だし。」
「……しごと?」
一瞬きょとんと私を見返し、そして、しまったという顔が目に焼きついた。
しごと、という言葉を舌の上で転がして、それが何をしめすのか理解する傍ら、どこかで全てに合点がいった気がした。
高校生なのに一人暮らし。いつも普通以上に近くに居て。何かあった時には一番に駆けつけてくれて。それは返せば、いつもいつも私を見張っていた、ということ。
目頭が熱くなって、私はうつむいた。雫が足元に僅かな染みを作った。
「あ、えと、そうじゃなくて。」
「いい。わかった。そう。お仕事だったんだ。」
なんの仕事かなんて知らないし、知りたくもなかった。ただ、その言葉が全てだと、思った。
全ては私の勘違いで。単なる思い上がりでしかなかった。
幾つもの鶴田の笑顔が浮かんでくる。……そのどれもが、今は嘘くさく感じられた。
「……さよなら。」
そのままくるりと振り返ると、私は冷たい風の中を走り出した。鶴田は追っては来なかった。
荷物を投げ置いて、携帯を取り出した。何番と考える間もなく、指が動く。
−−おかけになった番号は、電源を切っているか、電波の届かない……。
ベッド脇に置かれた目覚まし時計をみて、電話を切った。
明日香の声が聞きたかった。こんな時、いつもすぐ横にあった声だった。けれど今は、多分、音楽教室の時間で。多分……上原先輩と一緒だと、思った。
玄関を開けそのまま部屋に直行したけれど、父も母も買い物にでも出ているのか、とがめる声もなかった。居れば邪魔だと言っても居ないと何となく涼しい感じがする姉も、今日は出かけているようだった。
ごろんと冷え切ったベッドに転がった。馴染んだ柔らかい枕の感触に、必至で抑えた涙が再びあふれた。
好きでいてくれてると、信じていたわけじゃない。期待しなかった訳じゃないけど、好きでいてくれなかった事がショックなんじゃない。
仕事って言ってた。それは仕方がなかったってこと? イヤでもやらなきゃいけなかった? 助けてくれたのも、……笑ってくれたのも、全部仕事だったから?
どうしてという思いは頭の片隅にあった。けれどそれより、涙が止まらなかった。
そのまま顔を枕に突っ伏した。家には誰もいなかったけど……声を殺して、泣いた。
暖房の入っていない部屋は寒く、殺した嗚咽でさえ響くほど静かで。−−一人なんだと思えると、また、涙が出た。
携帯の着信音で目を覚ました。画面を見ると幌居の名前が出ていて、23時を回っていた。突っ張った顔を引き上げるころには、コールは止まってしまっていた。
泣きながら眠ってしまったのだろう。時間からすると夕飯にも起こしてもらえなかったようだ。両親はそのまま就寝してしまったのだろう。起きあがると、肩からタオルケットが滑り落ちた。さほど寒くなかったし……拾う気にもならなかった。
家の中は相変わらず静かだった。姉は今日は泊まりだろうか。
さほど間をおかず再び携帯が鳴った。今度も幌居という字が映っていた。
「はい。東です。」
「おー、東。起きてたか。あ、それとも寝てた?」
のんきな声だった。私の事情なんてつゆとも知らない、無責任な声だった。−−でも、すくわれた気がした。
「寝てました。起こされましたー。」
「あぁ、そりゃ、すまん。寝てくれ。」
「ここまで起きたら、寝れませんよー。」
なんだか笑えてきた。声は私をこんなにほっとさせる。
「んじゃ、起こしちゃったし、折角だから、用件いわせてくれ。」
「最初から言ってくださいー。なんのための電話ですか?」
「そりゃそうだ。」
幌居が軽く笑った。私も合わせて軽く笑って、なんだか止まらなくなった。同時に涙が出てきた。電話で良かったと思う。今すごく……変な顔をしている。
「こんな時間に、何かあった、とか?」
「何があったって訳じゃないけど、明日の稽古場変更になった。」
「公民館じゃないんですか?」
「うん。もっと良い場所なんだ。立ち稽古やりたいから、また、代役頼みたいんだ。」
代役。言われて、口の中で反復するように転がした。そう。私は代理でしかなくて。正式な女優が見つかれば……単なる手伝いか、もしくは、単なる客になるのだ。それはとても当たり前のことだったけれど、今はそれがとてつもなく……寂しく思えて。
「先輩。」
「あれ? 明日予定あり?」
「あの、私、女優やります。」
つい、口が滑った。けれどそれも悪くない気が、した。
「……本当?」
「はい。やりたいんです。」
「そりゃぁ、大歓迎だ! じゃぁ明日も待ってるから!」
弾んだ声で幌居は明日の場所を告げ、電話を切った。携帯を置いて、改めて布団に潜り込んだ。女優をやる。仲間ができた。……そう思うとまた、涙が出てきた。
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