(仮)

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−15−


 朝、訝しがる両親を無視し、ひどい顔をどうにか冷やして戻して、家を出た。道を挟んで反対側、ついこの間胸をならす音が響いたその場所に、一番会いたくない顔があって……なのにどきんと胸が鳴った。
「東。」
 目をそらした。そこには誰もいない。誰も私に呼びかけたり、していない。
 上着の前をかき合わせた。寒気は揺るんだと天気予報では言っていたけど、やっぱり風は冷たかった。
 何ごともなかった風に努めてバス停へ急いだ。日曜の朝のバスはまばらで逃したくなかった。もちろん、十分間に合うように家を出たのだけど。
「東。昨日はゴメン。その、口が滑って。」
 ほんの少し坂を上り、竹藪へ向けて下っていく。目の前で『危険 ちかんに注意』という真新しい看板が自己主張していた。竹藪をどうするかは地主と自治会で話し合うことになったと聞いていた。とりあえずということか。
 でも、竹藪を切っても、果たしてそれで解決だろうか。ニュースが伝える真昼の住宅外での事件は少なくない。竹藪の反対側、段差を支えるブロックの壁と、冬でも葉の落ちない高い生け垣。内と外は別の空間。
「東ぁ。」
 車の音がして、脇に避けた。白いセダンがするりと坂を下っていった。セダンを目で追う。坂の下の緩いカーブにさしかかり、程なく見えなくなった。視線を戻して、それ以上何も見ないようにして、先へ進んだ。
「東、ゴメンってば。」
 竹藪の途中を左に折れて私道に足を入れた。すっかり乾いた砂利が、足下で音を立てる。私の足音。そしてもう一つ。聞かないようにしてつっきると、すでにバスは停車していた。時間はまだある。まだ出るはずはない。けれど、私は小走りになった。
「東。」
 後ろの足音も早くなり、やがて聞こえなくなった。今度はコンクリートを蹴るとんとんという、音。私の立てる音よりもずっと軽やかで、声は弾んでさえいない。
 見ないようにしているのに。そんな人知らないと言い切りたいのに、ふたのない耳はずっと音を拾ってしまう。たまらなかい。こうやってついてくるのも、仕事だと思うと。
「ついて来ないで!」
「あ、なぁ!」
 バスにかけのり、一人がけの座席に座った。前の座席の背にもたれて、下を向く。少し遅れて、とんとんとステップを昇る音がした。足音は少し迷って、すぐ側の座席に収まったようだった。しばらくカードを通すピっと言う音と、人の足音だけが数回聞こえ、やがてバスは走り出した。
 バス停に止まるたび人が乗った。程なく席が埋まり、通路にも幾人もの人が立った。……もう鶴田は話しかけては来なかった。
 そのまま終点まで揺られた。はき出されるようにバスを降りる。どうしても拾ってしまう足音は少しだけ後ろをついてきて、同じバスへ乗り換えた。同じように少し離れた座席に座る。初めて乗る路線のバス。沿道の景色よりもアナウンスよりも、まばらな車内の少し後ろが気になって。それを気取られないように気を付けながら、指定されたバス停で座席を立った。今度は座ったままだった。
 カードを通し、ステップを降りる。バスの外にあったのは、朝よりも冷たく感じる空気だった。
「おはよー。」
 バス停のすぐ脇に幌居が立っていた。乗らないと運転手に手をひらひらさせて合図すると、ふと走り出したバスを目で追った。
「おはようございます。……どうしました?」
「ん、なんでもないよ。いこか。……寒いねー。」 
「そりゃぁ、寒いですよー。」
 すぐ近くだと聞いていたが、幌居は上着を着ていなかった。今日は割合暖かかったけど、寒いことには違いなさそうだった。
 バス停の周りは閑静な住宅街といった雰囲気だった。少し広い道が唯一バスの通れる道で、そこから伸びる脇道は車一台通るのがやっと言った様子だった。そのなかの一本、それでも車がすれ違えるくらいの広さの道へ折れていく。
「昨日のヤツって彼氏かなんか? 待ち合わせしてたの?」
 唐突に聞いてきた。唐突だけど、聞かれても別に不思議じゃないことで……なのに、どきんと胸が鳴った。私は慌てて前を向いて、瞬きを繰り返した。大丈夫。まだ、大丈夫じゃないかもしれないけど、今は、平気。
 懸命に何気ない風を装って、こたえた。
「クラスメイトです。別に、そういうのじゃ、ないです。」
「喧嘩してたみたいに見えたけど。」
「本当に、なんでもないです。それより、稽古場ってどんなですか?」
「ん? 良いとこだよぉ。つぶれた町工場の工場を防音にしただけなんだけどね。ほら。」
 幌居はいぶかしむこともなく、変えた話題に乗った。指さす先にガレージのような建物がある。……あれだろうか?
「中で発声もいけるし、もちろんどたばたやっても大丈夫。多少の事じゃ外には聞こえない。」
「へぇ。」
 建物の先、その手前、通りを挟んだ向かい側、そのどれもが普通の家のようだった。生け垣の隙間から、時折子供の声が聞こえた。建物の脇には小道があるようだった。裏も普通の家だろうか。確かに、あんまり声が漏れて良いところではないらしい。
「その代わり、今は良いけど、夏場は大変なことになるって予言されてる。……暑いんだ。まだエアコン入ってないし。」
 苦笑しながらもどこか誇らしげに、幌居は建物の戸を引いた。
「改めてようこそ。『劇団異邦人』へ。」

 教室ほどの広さの建物の中はがらんとしていた。天井近くの窓と、低めの山台を組み合わせたような舞台もどき。パイプ椅子が十数脚と、長テーブルが三台。二カ所に置かれた石油ストーブ。奥にあるのは手洗いのプレートのついたドア。それで全てだった。壁は外から見たコンクリートの印象とは違い、全面にパネルが張られていた。消音のためだろう。山台の舞台もどきは部屋の奥の方に置かれていて、手前にはテーブルと椅子が散っていた。出入り口近くには何もなく、いずれこちら側にベニヤや角材が運び込まれるのだろうか。
 想像していたよりしっかりした稽古場だった。そして、想像していなかったほど、人の姿がなかった。
「おはよう、東さん。」
「おはようございます。……先輩、他の人は?」
「おいおい来るよ。ちょっと早めに来てもらったんだ。」
 答えたのは山台の中央にいた矢追だった。
「女優、引き受けてくれるって? 嬉しいな。」
「うちにも晴れて女優誕生ってわけだ。」
 ばんばんと幌居が背を叩く。ちょっと痛かったけど、遠慮ないそれに女優という響きに、くすぐったい気がした。
「あれ、どうしたの? 顔ちょっとむくんでない?」
「あ……。」
 上着を脱いだ私は、冷たい手で頬を触った。だいぶ戻ったと思ったのだけどまだ少しむくんでいただろうか。
「なんでもないです。夕べちょっと寝るのが遅くて。」
「そう。何もないなら良いんだけど」
「ありませんよー。」
 矢追の視線を逃れるように、部屋を見回した。壁に上着が下げられていて、私の上着もそれに並べた。
「着替える? …よければ、着替える前に手伝って欲しい事があるんだ。」
 舞台上から矢追が言った。私は荷物を置いて着替えを取り出した所だった。できれば、動きやすい格好になりたい。ストレッチや発声練習くらいはしたいが。
「なんですか?」
「みんなが来る前に、ちょっと読んでみて欲しいんだ。台本の、続き。」
「できたんですか?」
「うん。」
 矢追ははにかむように笑った。少し早く呼ばれた理由はそれだろうか。ちょっと読むくらいなら、ウォーミングアップなしでも問題なさそうだった。それよりなにより早く読みたいと思った。
「読みます!」
 はいと矢追が差し出す白い紙束を、着替えを置いて舞台の上で受け取った。

 異世界で少女を見つけた主人公。主人公の視界の中で、主人公の知らない人々に囲まれて生きる少女。
 少女の笑顔は一見幸福そうながらどこかかげりがあった。
 主人公は彼女をそっと見守る。彼女を連れ帰ろうか葛藤しながら。
 いつか彼女が真から笑い、諦めることができるようになるその時までと自分に言い聞かせながら。
 やがて幸福だけに囲まれていたかのように見える彼女の周囲で亀裂が生まれはじめる。
 両親は彼女を置いて消えてしまう。友人は彼女を残し、旅立っていく。初めてできた恋人にも裏切られ。
 たった一人、残る少女。笑みはなくなり、都会の片隅でひっそりと、懸命に……生きる彼女。

 誰のことなのだろう? 声に出しながら片隅で思っていた。
 両親が居ないわけじゃない。親友が居なくなったわけじゃない。けれど、彼女の気持ちがわかる気がする。
 −−姉が居れば、私が居なくても十分に明るく楽しそうな食卓。
 −−先輩とつきあうようになって、遠くなってしまった明日香。
 −−初めて好きになった、あの人は…。

 −−主人公はある日、少女の前へ飛び出す。
「僕と一緒にいこう。」
 矢追の少し低い声が響いた。こんなに響きにくく作った室内の中で、優しく私にまで届く。
「あなたは誰?」
 声がかすれそうになる。不意に目の奥がつーんとして、慌てて瞬きを繰り返した。
 芝居でしかないのに。書かれたせりふでしかないのに。
「君の…恋人。」
「え?」
 −−突然の言葉にとまどう彼女。
 けれどどうだろう、その内心は。私が彼女だったら、私、だったら。
「僕と一緒に行こう。世界の壁を越えて。」
 ふわりと矢追の腕が私を包んだ。大きな胸、長い腕の中に、私はすっぽりと収まってしまう。どきりとした。けれどそれは一瞬のことで。……こんなに暖かいんだと、思った。
 ぶうんと、どこかでコンピュータを立ち上げるような音が聞こえた。矢追はそのまま、先を続ける。
「何も心配いらない。すぐに世界はあなたを思い出す。……姉さん。」
「え?」
 ぐらりとなにかが、揺れた。足下が急に柔らかくなったような感覚。矢追の体温ばかりが、リアルに感じられる。竹藪で襲われた、あのときと同じ。
「いやっ。」
 ばっと矢追の胸を押し、腕を振りほどいた。穏やかに笑う矢追の顔は……あいつのモノにしか見えなかった。
「もう遅いよ。姉さんじゃ壁を越えられない。大丈夫だよ。僕らは帰るんだから。」
「ど……」
 どういうこと、姉さんて何、世界ってなんのこと。問いかけたいことは山ほどあったが、どれも声にはならなかった。
 矢追の後ろ、壁があるそのあたりに紗のような『なにか』があって、それは私の後ろにも続いていると直感できた。硬かったはずのは床はなんだか希薄に感じられ、腕をついたそこから落ちていってしまいそうだった。
 不意に鶴田の顔が浮かんで……あわてて振り払った。こんな時いつも側に居てくれたのは、私のためなんかじゃなくて。
 だん。それは扉が勢いよく開け放された音。
「待て!」
「遅かったな。」
 どれも薄い壁を挟んだように聞こえた。幌居の茶色く色の抜けた頭が入り口へ向けられていた。入り口には……赤いヘルメット。いや、赤だけじゃない。ピンク、緑、青、黒。
 校門で戦っていた、竹藪で助けてくれた、彼ら。
「ブルー!」
「50%ってとこかな。」
「間に合う?」
「計算上は70% 有効量はもっと低いよ。」
「間に合うんだな!?」
「えーと、だいたいルート2で……」
「うだうだ言ってないで行きなさいよ、あんたの責任でしょ!?」
「させない!」
 幌居はヘルメット達の前へ立ちふさがるように躍り出た。幌居の後ろに……舞台の前に、どこからともなく現れたメンバー達が居並ぶ。幌居をいれて、その数は6.……竹藪の時と、同じ人数。
「どけっ!」
 赤ヘルメットはぱっと拳になにかを握ると、そこから光が木刀のように伸びた。その脇をすり抜ける緑。と、幌居の身体が浮いた。
「時間厳守!」
「アポに遅れたことはねーよ!」
 緑が三人を相手する合間を縫って、赤が駆ける。その間に二人は目を抑えてうずくまっている。
「塩水鉄砲や! しみるやろ。」
「やだ、べたつくじゃないのっ」
 ピンクに近づいてきた最後の一人……主人公をやるはずだった小柄な人は、ぴっとムチで打たれていた。
「東!」
「……え?」
 多分、ほんの一瞬の間にそれだけの事がおき、薄く紗をかけたように見える『なにか』の前に、赤が居た。知った声。くぐもっていたけれど、間違う訳がない。……くぐもった声も、知っている。
「ムリだ。お前らでももう越えられない。」
「どうかな!」
 ためらうそぶりもなかった。頭を庇うように腕を上げ、赤ヘルメットが紗に、紗に覆われた舞台につっこむ。紗に触れた部分から、光が盛り上がり……見えなくなる。
「バカな!」
「つ……」
「東!」
 爆発するかのように辺りを覆った光が今後は急速に引いていく。
 目が慣れるにつれ見えてくる様々なもの。布の残骸、割れ落ちたヘルメット。所々破けて赤い色を付着させたシャツの、背中。
「東、無事か。」
「鶴田、君……。」
 みたいと思っていた顔が、そこにあった。けれどそれは笑顔ではなく……怖いとさえ、思った。
「お前」
「悪いな。このスーツは特別製なんだ。ある程度なら、世界のひずみに耐えられる。……東、戻ろう。」
 赤いボロボロのスーツをまとったまま、私に手を差し出してきた。幾度も私を助けてくれた手。今も差し出された、手。
 けれどそれは、なんのため?
「……嫌。」
「東!?」
「東さん!」
 矢追の服の裾を辿って立ち上がる。足下は不安だけど、大丈夫。掴まっていれば立てる。矢追は突然だったから、怖かった。けれどいつもその手は優しくて。私を必要だと、言ってくれた。それが、『私』ではないとしても。
「仕事なんでしょ。私がいなくなれば仕事もなくなる。そうなんじゃないの?」
「それはっ。」
 鶴田は言い返さない。きゅっと矢追のシャツを握った。
「なら、仕事をなくしてあげる。」
「東っ。」
「振られたな。」
 すっと矢追の手が背中に回った。私は顔を矢追の広い胸に、埋めた。
「東、誤解だ。仕事が絡むのは嘘じゃない。けど、お前は必要なんだ。」
「なんとでも言えばいい。どうせすぐに忘れる。」
「え?」
「世界は思うよりずっと柔軟なんだ。あなたが僕の姉であるように……。」
「違う! あんたは世界をかんちがいしてる。……矢追央、あんたに姉はいない。」
 びくんと、背中の手が震えた。
「気づいてたろ。あんたの世界にあんたの姉は存在しない。」
「嘘だ。」
「嘘じゃない。」
「……今はいない。けれど、それは!」
「最初から、どこにも存在しないんだ。」
「違う、消されたんだ。お前たちに、お前たちの仲間に!」
 ぎゅっと力が強くなる。見上げても、見えない。
「なら、その世界はもうどこにもない。あんたは姉のいた世界のあんたじゃない。」
「そんなはずはない。僕には記憶がある。確かなぬくもりを覚えている。……探したんだ。血の滲むような努力をして許可書を受けて、いくつの世界を渡ったと思う? ……ようやく、見つけたんだ。」
 −−研究者には世界を渡れる許可が与えられる。大人になった主人公は、その許可をフルに使って、あちこちの世界へ出かけた。
 主人公は矢追。少女は、私……。
「そうして東を消すのか?」
「違う。姉さんを取り戻すんだ。」
「同じだろ! 東を連れて行けば、東は消える。痕跡も残らない。生まれてすらない。東がいる、この世界は消える。」
「けど、姉さんは戻ってくる!」
「姉を捜したあなたもいなくなる。」
「僕は……!」
「いくつの世界を消しても、あんたがあんたである限り、あんたの探す姉はいない。そして、そんなあんたのエゴのために、俺は東を失いたくない。」
「え……?」
「スイッチを。」
「……もう、遅い。」
 希薄な足下は今にもなくなってしまいそうだった。矢追は一人だけ岩山の上に立っているようで、無意識にしがみつく手に力を込めた。
「お前の言うことが正しいなら、世界は崩壊する。」
「……杏子……!」
「……明日香?」
 強くなった紗の向こう。確かにそれは、明日香の声。
 耳を疑った。明日香がこんな所にいるはずがない。私は誰にも言ってない。明日香がここを知るはずがない。それに……私のことなんて、どうでもいいんじゃないの?
「杏子、行っちゃ駄目! 私は嫌、杏子がいないなんて!」
「東、ここは君の世界だ。今君はここにいるんだ。君という定義がある、それがこの世界なんだ。」
「たとえ世界がなくなっても、僕は君の側にいる。」
 ごぅと耳元で音がした。足下の感覚が薄くなる。
 信じて良いの? 私が要ると、言ってくれるの?
「杏子っ!」
「二村、だめだ!」
「……きゃっ。」
 明日香の悲鳴。
「明日香っ!」
 夢中だった。矢追の腕をほどいた。その反動も借りて……紗に向かう。
 思い出した。あのとき、私は電話を取らなかった。先輩との話も、変なメールも、相談されていた。裏切っていたのは、私。
「姉さん!」
「東っ!」
「杏子ぉっ!」
 紗に飛び込む直前に、みんなの声を聞いた。


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