(仮)

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−16−


 私は父と母の子として生まれて、三つ違いの姉がいた。一人っ子のように奔放な姉だけど、時折『お姉さん』な顔を覗かせる人だった。父も母もよく私と姉を比べた。まとわりつく私を時折疎ましそうにしながらも、姉はいつも私のことを気にしていた。姉が今の東由実子であるのは、多分、私が私であったから。
 明日香と出会ったのは一体いつだったろう。物心ついたころには『明日香ちゃん』はいつも私の横にいて、小学校も中学校も同じ通学路を通った。高校に入って明日香が寝坊するようになってから朝は別々になったけど、同じクラスで毎日顔を会わせた。違うクラブを選んでも、違う友達ができても、私たちはいつも一緒だった。
 里美や麻衣子に会ったのは高校に入ってから。里美や麻衣子と私は出席番号が近かくて、席が近かった。私たち三人に明日香も加わり、何となく一緒に過ごすことが多くなって何となく毎日お弁当を一緒に食べて、自由班の時は何となくいつもグループを作った。
 明日香の相談を受けたのも私。里美だったら、どんな答を返したろう。麻衣子だったら?それが良かったかなんてわからない。Y字の先、選ばなかった未来は誰にもわからない。けれど。
 小さいころ、いたずらをして叱られたこと。遊んでいて友達に怪我をさせてしまったこと。決められた出席番号、同じクラス、同じ番号の男の子はちょっと人気があったっけ。私の次の番号の子が机を並べた私たちを羨ましそうに見ていたことを覚えてる。
 100人限定の試食会。懸命に取った舞台チケット。私が合格した代わりに、高校入試を失敗してしまったろう、誰か。もみ合うようにして駆け込んだ満員電車。私の後ろで乗れなかったあの人。舞台には立てなかったあの芝居、高田が着ていた衣装は私が作ったもの。知らされなかったお葬式、行けばなにかが違ったろうか。

 目の前には手を伸ばせば届きそうな位置に柔らかそうな天井があった。天井のすぐ横から曲線のラインで窓が始まっていた。知らない車の中だった。
「杏子ぉ。」
「明日香?」
 窓とは反対の方から声がした。明日香が今にも泣き出しそうな顔で私をのぞき込んでいた。乱れきった髪が、らしくない。
「どうしたの?」
 私は手をついて身を起こした。寝かされていたクッションは適度な弾力を返した。マイクロバスのシートをリクライニングにして、私は寝かされていたようだった。ばさりとなにかが落ちた。男物のジャケットだった。
「何ともない? 大丈夫?」
「え、うん。なんとも、ない。」
 私は一体どうしたのだったろう。台本を読んでいて、山台まわりに紗のようなものができて……。
 ジャケットを拾い上げようとのばした指に少しだけ違和感があった。けれどそれは一瞬のことで、明日香も私もなんともなくて、何も問題はなさそうだった。
「良かった……!」
 落とした視線の先に、ぽつりと染みが生まれた。慌てて目を上げた先、ほっと息をついた明日香の目から後から後から滴がわいて、頬の上を滑っていく。僅かに伏せた顔に髪がかかって、頬に手に張り付いた。
「やだ、明日香、泣かないでよ。」
 ハンカチを探して、カバンがないことに気づいた。……カバンの中に入れていた。あぁそうだ、カバンはコートと一緒に置いたままだった。涙を拭う代わりに髪を払うと、頬に一つ絆創膏が目に入った。額に一つ、手の甲に一つ、腕に一つ、あちこちに貼られ、そればかりか、白いフリルのかわいいブラウスの袖もとは所々が切れていた。明日香の一番のお気に入りのブラウス。高かったと自慢されたそれに。柔らかなフレアーの淡い茶色のスカートもどこか埃っぽくくすんでいるような気がする。そう言えば、今日は先輩とデートではなかったか。
「……どしたのこの怪我。それに……。」
「え? う、うん。だいじょぶ。やだ、涙とまんない。」
 照れたように涙目のままちょっと笑うと、明日香は自分でハンカチを出して涙を拭う。なんでもないと首をふると、またぽろりと一粒こぼれた。
「デートは? すっぽかしたの?」
「え?」
 きょとんとまだ薄く涙をためた目を瞬くと、しまったという顔をした。
「……ちょ、ちょっとゴメンね。」
「あ、うん。」
 私が見ている前で慌てて携帯電話を取り出し数度キーを操作すると、数秒の空白の後で少しだけすまなそうに話し始めた。ごめんなさいと声が聞こえる。
 その様子を、なんだか不思議な気持ちで眺めていた。すっぽかしたばかりか、連絡すら忘れていたというのだろうか。明日香は多少遅刻することはあったとしても、約束をすっぽかす子ではない。しかも相手は先輩だ。明日香が懸命に『彼女』をしていたことは、私が一番よく知っている。
「……もうちょっと、待っててもらうことにした。」
「大丈夫なの?」
「……ちょっと怒ってた、かな。」
 ぱたんと携帯電話を閉じて貼り付いた髪を手で払った。
「小村さんがね、杏子が大変だって電話をくれて慌ててバスに乗ったの。先輩のことなんて吹っ飛んじゃってた。」
 言葉を私へ向けて、自嘲気味にけれどさほど気にもしていなさそうに笑む。
 すっかりいつもの調子を取り戻した明日香にとって代わったかのように目の前が滲んだ気がして、私は慌てて瞬きした。私は、夕飯の席で初めて知ったというのに。
「こ、小村さんって?」
 申し訳ない気持ちの裏で嬉しかった。けれど……涙を見せたくなくて、話題を変えるように聞いた。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、微笑んで視線を落とした。今になって気になったのか、ブラウスの袖を眺め回した。
「えっと……黒の人。この間助けてくれたの。電話かかってきて、杏子が危ないっていきなり言うんだもん。びっくりした。……あぁやだ、ほんとに切れちゃってる。」
「……関西弁の人?」
 そういえば、母もそんなことを話していたように思った。関西弁を話す人が、と。 
 袖をめくり、返し、スカートのフレアを広げ、明日香は傷み具合を検分しているようだった。
「あーあ。お気に入りだったのにぃ。」
「……何があったの? 怪我も、服も。」
「よくわかんない。なんか光った気がして、台風の中に入ったみたいに風が吹いた気がして、それだけ。」
「それだけって……。」
 怪我もしたのにと続けようとすると、明日香がぱっと顔を上げた。いたずらでも思いついた子供のように、目を輝かせた。
「そうだ、杏子、弁償して。」
「へ?」
「杏子が大変だって言うから、来たの。で、ブラウス台無しになっちゃったの。」
「う、うん。」
 それは申し訳ないと思う。デートも中止にして、怪我もさせてしまって、弁償しろと言われればそれくらいはと思う。けど。
「高くなくていいから、買って。だから、来週、デートしよう!」
 今度は私が目を瞬く番だった。デート? 私と?
「彼氏は先輩で終わりってわけじゃないと思うけど、杏子は一人だから。」
 晴れ晴れと笑った明日香を見たのは、ものすごく久しぶりな気がした。ぽろりと私の頬を水玉が滑っていった。今度は、抑える間がなかった。
「やだ、杏子ぉ。」
「……ごめん、ね。」
「杏子のせいじゃないよぉ。」
 怪我のことを言われたと思ったようだったが……敢えて訂正はしなかった。
「東!」
 ばんと扉が開く音と同時に、冷たい空気と声が入ってきた。聞きたかったような聞きたくなかったような。けれど反射的に顔を向けてしまっていた。
 Gパンに履き替えトレーナーを着込んだ鶴田が、扉に手をかけ立っていた。
「鶴田、くん……」
 気まずい気がして、慌てて目をそらした。……まだしがみついた矢追の身体の感触を思い出せた。
「怪我はない? だいじょうぶ?」
「う、うん。」
 何ともないから、曖昧に頷いた。きゅっと引き上げた上着を抱きしめた。……なんだか安心するにおいがした。
「杏子、ジュース買ってくるね!」
「あ、明日香ぁ。」
 良いこと思いついたとでも言いたげに、止める間もなくマイクロバスを降りてしまった。気を利かせたつもりだろうか。鶴田を押しのけ、ぱたぱた走っていく音がした。すっかり音が聞こえなくなると……かえって気まずくなった、気がした。
「あ、あのさ、その、怖い思いとかしたろ? ごめんな。」
 首を振った。鶴田に謝られることじゃない。……多分誰にも、謝られることじゃない。
「東が目的だったのは最初からわかってたんだけど、あいつらが何者かどういう手で来るか全然わかんなくて。」
 うん。曖昧に頷いた。鶴田はとってつけたように先を続けた。
「だから、高校とかできる限り、その見張ってなきゃならくて、あ、だけど、プライバシーとかそういうのは気を付けたつもりだし。だからやっぱり、その、仕事なんだけど……」
 こくりと首を縦に振った。仕事だって聞いたときから、わかってた。でも、また涙が浮かんできた。バイトの後に会ったときの冷え切った手。駆け込んで隣に並んだバスの中。『ごめんね』は、やっぱり私のせりふ。
「あ、でも、みんなで飯食ったりとか、結構楽しかったし。悪いのは矢追であって……東が気にする事じゃないから。」
 ふと顔を上げた。私は無事で鶴田も何ともないようだった。では、矢追は?
「……矢追さんは?」
「え?」
「矢追さんは? 幌居先輩は?」
「土屋さんが……緑が、今話を聞いてる。」
「会える?」
 鶴田は頷いた。並んでマイクロバスを降りた。
 台風のようなと明日香は言っていたが、あまり物のない稽古場は来たときと何も変わっていないようにみえた。稽古場にいたのはヘルメットとった四色の人たちと山台に腰掛けた矢追だけだった。矢追の横に緑が座り、ピンクは手前でパソコンを睨んでいて、青と黒は山台を調べているようだった。幌居はおらず、劇団の人たちもいなかった。
 がたんと立てた音に気付いたのだろうか。のぞき込んだ私に、矢追は淡く微笑んでいた。
「矢追さん、あの……」
「主人公は少女を見つけた。けど少女は仲間といることを選んだ。それでおしまい。」
 その微笑みはとても寂しそうで、けど、私は駆け寄ることができなかった。
「土屋さん……」
「やっこさん、案外口堅いわ。……絶対後ろがいるはずなんだがなぁ」
 呟くように緑はいった。矢追は何も聞かなかったようにすいと立ち上がると、音もなく近寄ってきた。こんな時、この人はまるで影みたいだ。 少しだけ鶴田が緊張したのがわかった。けれど、それだけだった。
「でも、会えて良かった。」
 ふわりと腕が降ってきて、私は思わず目を閉じた。すっぽりと収まってしまい、そっと目を開けた。……暖かいのに、どこか、遠い。怖かった。けれどそれは、矢追に対してではなかった。
「……あきらめない、から。」
「え?」
 ささやくように言われた。きゅっと最後に力が入り、不意にそれがなくなる。思わず瞬いた。解かれたわけではない腕。目の前の矢追の姿は次第に輪郭をなくし……消えてしまった。
「あっ。」
 声は緑のものだったろうか。
 冷たい空気が戻ってきて、跡には何も残らなかった。

 本当にお茶の缶を手に戻ってきた明日香は、時計を睨むと私のコートを着て走って出て行った。黒が気付いて後を追って、しばらくして車の音が聞こえた。ピンクは区切りをつけるように音を立ててノートパソコンを閉じた。つかつか近づいてきたと思ったら鶴田の飲んでいたお茶を奪って空けて、そのまま稽古場を出て行った。青は山台を叩いてみたりのぞき込んだり、しばらく同じようなことを続けた後で、ふいと出て行ってしまった。緑は一時しまったという顔をしたものの、すぐ諦めたように肩をすくめて、稽古場を出たまま戻ってこなかった。
 がらんとしていく稽古場を、使われることのなかったその場所を私はただ、眺めていた。私の横で何も言わず、鶴田は待っていてくれた。
「……怖かった。なんだかふわふわしていて。」
「うん。」
「でもね、矢追さんのことは怖くなかった。」
「うん。」
 多分私は矢追のことが嫌いではなかった。私が必要だと言ってくれたのが、嬉しかった。けれど。十六年の大半を一緒に過ごした明日香はもっとずっと大事で、そして。
「……鶴田くん。」
「うん?」
「好き。」
「う…………。」
 所々擦り切れた明日香のコートを取って、鶴田を残して稽古場を後にした。ほてった顔に、冬の風が気持ちよかった。

「お仕事、終わったね。」
「うん。これはね。」
 バスが揺れる。空いている車内で一つ離れたつり革を握り、沈みゆく日を眺めていた。
「明日は学校だね。」
「それ、なんだけどさ。俺、本業に戻るんだ。明日は手続きがあるから行くけど。」
「……転校するの?」
「あ、いや……そうじゃなくて……やめるつーか……」
「え、やめちゃうの?」
「……」
 鶴田は言いにくそうに窓を流れる景色ばかりを追っていた。……いや、追っているようで、違うところを見ているようだった。言うべきか悩んでいるように見えた。
「あ、うん、そういうのもあるよね。大変だとおもうけど。」
 多分、言いにくい事情があるのだろう。気を利かせた、つもりだった。
「そういうのとも違くて、えっーっとぉ……。……24、なんだ」
「え? なにが?」
「俺、大学でてんだ。」
「……は?」
「24、なの。」
「……それって……。」
「あーもー!! 俺、本当は24歳なの。もう四大も出て社会人してるの。だから、仕事だったんだってば。」
「…………え。」
「あ、東の事も嫌いじゃないけど、これは本当だけど! どうしても、その、妹みたいで。やっぱりちょっと犯罪チックっていうか、俺ちゃんと一応彼女いるし。そういう風に接してるつもりじゃなかったし、でもやっぱりやらなきゃだし、みんなにからかわれたりしたけど、だけど、他にどうすれば……。」
「あ、うん……。」
 真っ赤だった。バスの中、注目を浴びてるのも気づかずに、懸命に言い訳をしていた。私はなんだか頭の中が真っ白だった。仕事と言われたときも驚いたけど、もっとずっと、真っ白になった気がした。
 そのままなんだか何も言葉が出ずに、バスは終点に着いた。私たちと数人を下ろし、待っていた列を全て飲み込み、クラクションを一つ鳴らすと何ごともなかったかのように再び走り出した。
 何となく、歩き出すこともできずに、まだ私は呆然としていた。私が動き出さないからどうすることもできずに、バス停の椅子背もたれに腰掛けて、鶴田は真っ赤な顔のままうつむいていた。
 どれほどそのままで居たのだろう。多分、そんなに長くはなかっただろう。頭の中にようやく一つの単語が浮かんだ。振られたんだとかそういった感傷的なものではなかった。
「……なんちゃって、高校生?」
「い……」
 ぱっとこっちを向いた鶴田の目には……涙が浮かんでいた。
「いうなーっ!」
 耐えきれないとでも言うように反射的に駆けだした鶴田は、そのまま戻ってこなかった。

 それでも翌朝、いつもの時間にいつものバスに鶴田は乗ってきた。私を見て、また少し顔を赤くして。
 これで最後だと思うと、やっぱりちょっと寂しかった。
 ……振られてしまっても、本当の事をを聞いても、それでもやっぱり、好きだから。
「連絡先、聞いてもいい……ですか?」
「いいよ、タメ口で。……携帯の番号で良い?」
「……うん。」

 私が鶴田に会ったこと。振られてしまったけど、連絡先を聞けたこと。今隣にいるということ。それは紛れもない事実で。
 良いも悪いも全部あわせた、とても小さな事。小さな私の積み重ねが、今に続いている。それがこの世界。

 今、私がここにいるということ。



「存在定義」
2004.01-2005.06
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