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没稿 <後>
山道は小さな滝に続いていた。少しひらけた河原から先に道はなく、対岸には切り立った崖がそびえていた。慣れた道を息を切らせながら登り清水の縁へたどり着いたサンカは、そのまま藪をかき分け下流を目指す。いくらかきつい斜面を登りしばらく進んだところで、サンカは足を止めた。流れ来る汗を袖でぬぐう。ここから先は、サンカでも初めての場所だった。川を渡す倒木がある……そう教えたイサキは、けれど、決してサンカをその場所へ連れて行こうとはしなかった。いつもサンカのわがままも何でも聞くイサキが、ただ一つ譲らなかったことだった。灌木の脇をすり抜け、細い枝を折り、切り傷を作り、木の幹を握りしめ、下草を踏みしめて、サンカは進んだ。川をすっかり見下ろすまで登って、ようやくそれが見えてきた。大木だった。横たわった幹に手を回すには大人三人は必要だろうと思えた。所々苔むしてはいたが朽ちている様子もなく、泰然と川をまたいで横たわっていた。少しだけ息を整えるとサンカは大木に手をかけた。迷うことなく身体を引き上げるとごうごうと音を立てる川を見下ろしながら大木の橋を渡る。橋の終点は灌木の茂みだった。中央にわずかに空いた隙間を手でかき分ける。幾つもの細い枝が顔に手に傷を作り、同じ分だけ小枝を折ったが、サンカは気にしなかった。灌木の向こう、地面にわずかに刻まれた踏み分け道を辿って、迷うことなく歩みを進めた。幅の広い葉、枝の低い木々、柔らかい地面に所々落ちている木の実、ずっとずっと野性味を帯びてはいるが、見知った花々。すっかり冷えた空気の中で、しょげるように身を縮こませながら懸命に生えている植物たち。それらを踏みしめ、握りしめ、足がかりにし、登り続ける。しばらく黙々と進んだサンカは大木の根元で足を止めた。腰に唯一下げた水袋から水を一口含む。−−まずい……。思ったが我慢して飲み下した。小川で汲みなおしてくれば良かったと考えつつ。−−神父から渡された水袋の中身は飲み慣れた教会の水だった。サンカはため息をつき樹冠を仰いだ。弾む息はわずかに白く、すぐに空気にとけて消えていった。樹冠は遙か彼方にあった。よりかかる木の枝は遙か上方に広がり、背の低いサンカには木登りすらできそうになかった。サンカは一度身震いすると、背を幹から離した。息を整えようと深呼吸しむせかえる。空気が濃い。そうサンカは感じた。今度はむせないように注意深く深呼吸を繰り返す。息が整ってくると、重たく感じ始めた足を持ち上げるように動かし始めた。薄い靴底の下で草の感触がした。山肌を縫うような根が存在ばかり主張する。手がかりになるような幹は減り、灌木はしなやかにサンカを押し返す。小枝を踏むと靴を通して足裏が痛んだ。少しうつむきサンカは歩き続ける。ふと地面に落ちる光が変わった気がして、顔を上げた。「うわ……」突然にひらけた視界の先には緑の絨毯が広がっていた。しかも毛糸を織り込んだ絨毯ではなく、毛を立たせ、ふんわりとした感触をもつような、そんな絨毯だった。毛の一つ一つはとがった枝先を持つ針葉樹。狭い谷を埋めつくし、奥に続く山脈の中腹まで広がっていた。そっと手を当てた大木の表皮は粗く、サンカは驚いて手を引っ込めた。風が運ぶ空気は何もかもが濃い。−−そこはサンカの知らない世界だった。「サンカ!」ざっと枝葉が揺れ、とんと軽い音がした。振り返ると、長身の少年が立っていた。体躯に似合わぬ優しげな顔立ち。無造作に縛られた長い髪。腰には荷袋を、肩には弓矢を下げていた。いつもは少し気弱そうに笑むその顔は別人かと思うほど生き生きとしていたけれど、間違えることはなかった。「イサキ!」「サンカ、いっぱい怪我してる!」ぱっと表情を変えると、イサキはサンカの腕をとった。サンカの上着は所々が破け、顔と言わず腕と言わず、無数の切り傷にまみれていた。「なんでもないよ」「だめだよ、ほっといちゃ」イサキは無理矢理サンカを大木の根に座らせた。自らも座り、腰につるした小袋から木の実をくりぬいた物入れを取り出した。サンカの見覚えのないそれを開け、中の軟膏をすくいだす。「いいよ、こんなの」「だめ!」強い語調に、サンカは一瞬ぽかんとした。多分、イサキに怒鳴られたのは初めてで……村でなら言い返したかもしれなかったが、サンカはおとなしくされるにまかせた。「毒のある木もあるんだ。あとで大変なことになるかもしれない。ちょっとしみるけど、我慢してね」「うん……。……!」イサキは慣れた手つきで薬を塗りつける。ちょっとどころではないしみかたにサンカは歯を食いしばった。声を出すのは悔しい気がして、目に涙をためてそれに耐えた。「終わったよ」イサキは一通り塗り終わってようやくサンカを解放した。立ち上がるといったん荷を全ておろし、自らの上着を脱ぐ。「これ着て」「いらない」見つからないように涙をぬぐって、サンカは立ち上がった。傷はまだひりひりと痛んだけれど、じきに気にならなくなった。くしゅん。小さくくしゃみをした。汗が冷えたのだろうと思った。けれど、また歩きだせば汗が出て、暑くなると考えていた。「着て」しかし、イサキは引き下がらなかった。真剣な顔をして、サンカに上着を突き出す。「いらない。サンカだって冷えるでしょ」サンカは一歩下がって、それを拒否した。イサキはサンカの腕をつかむ。「このままじゃ風邪引いちゃうよ。危ないし。僕は慣れてるから」「いらない」「サンカ!」一瞬サンカは身を硬くした。いらついた風のイサキにとまどう。イサキは一度目を伏せて、そしてまっすぐにサンカを見つめた。「危ないんだ。ここは村じゃないし、僕らがいつも遊んでる山とは違うんだ。狼も出るし……魔獣もいる」「え?」「狼にひっかかれたくらいなら防いでくれるから」「……わかった」サンカは渋々イサキの上着に袖を通した。なめした皮で作られた上着は、思ったより軽かったが、それ以上に……大きかった。余ったそでをイサキに手伝わせながらまくる。「じゃぁ、行こう。父さんが下で待ってるはずだから」サンカの支度が終わると、イサキは荷袋を腰に付け弓矢を背負い直した。サンカを促すように先に発って歩き始める。サンカはすっかりペースを奪われたことにちょっと顔をしかめながら、慌ててイサキのあとを追う。視界の開けたその場所から先は、下りの行程になった。ゆっくりと歩くサンカに、イサキはあっさりと追いつくことができた。横に並び、ともに歩く。本当は前へ出たかった。しかし、まだ大丈夫と思っていた足が、急激に言うことをきかなくなっていた。イサキに悟られないように、力を込める。それでも、一歩を踏み出すごとに滑り、バランスを崩す。転げかけて結局サンカの手を借りた。イサキの様子にくすりと笑い、サンカは無造作に野草に手を伸ばした。茎を残して葉を手折る。一枚を自分の口へ、もう一枚をサンカへ差し出した。「これは?」「エッテの葉。疲れが取れるんだ」「ふぅん」イサキを横目で見、サンカはまねして切り口を加えた。青臭さと苦みが口の中に広がり、吸った汁を思わずはき出した。「なにこれ」「苦い方が効くんだ」イサキはもう一枚手折りサンカに渡した。サンカは渋々葉をくわえた。時折イサキは立ち止まり樹冠を仰いだ。サンカは並び同じように見上げたが、いつも同じ景色が見えるだけだった。たびたびイサキの手を借りながら、二人はいつしか平地に出ていた。傾斜がないぶん歩きやすくはなったが、サンカは半ばイサキの腕にぶら下がりながら進むようになっていた。山をたった一つ越えただけだった。イサキの息はわずかも乱れておらず、サンカを支えてさえいた。−−イサキなんて、なんにもできないと思ってたのに。勉強も、いたずらも、何も、かも。サンカは心の中で思う。−−こんなに負けてる。イサキは、時折においを嗅ぐように立ち止まった。何度目かのそれで、イサキは何かをかぎつけたようだった。サンカを急かしある方向へと向かう。近づくにつれイサキにも急ぐ意味がわかってきた。サンカが急かした先、大木の根本の少しひらけた場所にはイサキの父親がいた。たき火を起こし、枝を刺した肉を並べて。地面には肉汁がしたたり落ちていた。「父さん! やっぱり来たよ」「……こんにちは」父親はイサキを一別すると、何も言わずに炎に目を落とした。にこりともせず、火をかき回す。イサキは父親の様子を気にもとめずに、火のそばに腰を下ろした。サンカも手招きされイサキの横に座った。サンカはイサキの父親が苦手だった。村にいないことが多く出会うことが少い上、無口で何を考えているかわからない。愛想笑いしか浮かべない村の大人達とは全く違った存在だった。「サンカ、食べよう」サンカはうなずくと、口の中で頂きますとつぶやいた。まだ熱い肉をくわえてみて初めて、三本用意されていたことに気付いた。父親の合図をみて、イサキは弓を抜いた。イサキの隣に腰を落ち着けたサンカは何もできることがなく、枝の上でただ二人を見守っていた。たき火の前で聞いたイサキの言葉をぼんやりと思い出す。『お仕置きなんかじゃないよ。ううん。お仕置きなのかもしれないけど』そういうとイサキはちょっとだけ苦い笑みを浮かべた。サンカもそれには……同感だった。イサキは言葉を続けた。父親の様子を伺いながら。『結界石が割れてしまったんだって。結界がなくなると村が魔獣に襲われてしまうから、巣穴を塞がなくてはならないんだって』『結界石?』『メルシア様の持っている宝玉。神様の力がこもっていて、村全体を守っていたんだって』サンカは家に来た神父を思い出した。旅支度はおそらく王都の大神殿へ行くためのもの。サンカは一人得心した。サンカを見に来たというより、村長に断るついでだったのだろうと。『こんなに冷えるのも、結界がなくなってしまったから?』サンカは火に手をかざしていた。イサキは平気な顔をしていたが、寒くないはずはないと思っていた。『ここはもう結界の外だよ。……僕は父さんの手伝いに来たんだ』がさり。わずかな音が耳に届いた。風の立てる音に混じって、それの存在を伝えていた。イサキはきゅっと唇をかみしめ、矢を構えた。すでにそれを見つけたのか、一点を見つめて動かない。あたりはそろそろ闇が支配し始めていた。サンカにはそれを見ることもできず、ただ邪魔をしないよう息を潜めた。イサキの父親は、二人のいる木からほど近い岩場で二人に背を向けていた。灯りの一つもともさず、岩場にあいた穴へ向かって何ごとか作業を続けている。もう少し明るい時分に見た穴は、いいしれない深さを感じさせた。わずかな光は穴の奥行きをしめさず、そこから急に闇に通じているかのようだった。きりきり。音が聞こえるほども矢を引いたイサキは、ぱっと矢を放った。風切る音が消える頃、くぐもった声が聞こえた。「一匹」イサキはつぶやくと、二本目の矢を番える。 先に谷に降りた父親は、巣穴を探していたのだと言っていた。巣穴に魔獣がいる間は穴を塞ぐことができず、場所と魔獣の数を数えて夜を待つのだとイサキはサンカに教えた。魔獣の数はおそらく三。作業のため背を向けざる得ない父親を援護する必要があるのだと言った。ふとサンカの目が細められた。夜目がきくというイサキは、何かを見つけたのかもしれなかった。サンカは再び息を殺す。ナイフの一つも持たないサンカは……持っていたとしても力にはなれなかったろうが……邪魔をしないことだけを懸命に考える。「……うわっ」ざっと音がしたと思ったのは、一瞬だった。「サンカ!」何かに引っかけられたサンカは、枝をつかむ間もなく転げ落ちた。サンカはよろりと顔を上げる。腐葉土は軟らかく、幸い怪我はないようだった。サンカは自分が落ちた枝を見上げた。黒い影が二つ、牽制し合うように動いていた。「イサキ!」「……だい、じょぶっ!」ぴっと冷たいものがサンカのほおに当たった。薄く生臭いそれ。手の甲でぬぐってみたが色は見えない。「イサキっ!」変わらず影は動いていた。言葉を返す余裕もないのか、それとも。想像にぶるりと身震いした。サンカは頭を振ってそれを追い出す。ざっ。ほの近い場所で、何かが動いた。反射的にサンカはふりかえろうとして足を滑らせた。仰向けに倒れたサンカの目の前を、黒い影がよぎる。狼のような形状の、熊のような巨体。それは少し離れた場所に着地した。ぐるりとサンカへ向き直る。光る赤い目がサンカを捉えた。−−これが、魔獣。それは恐怖だったのかもしれない。身体の芯が震え、呼吸が止まる。すっと足から力が抜けても、光る目から視線をはずすことができない。食われるのだと、本能的に悟った。それは狩る側のいきものであり、サンカは狩られる側にいた。そしてまた、冷静な一面では全く違うことを考えていた。−−なぜ、と。じりとそれが間合いを詰め、サンカは思わずあとずさる。ほんのわずか動いただけで、張り出した根に遮られた。手がなにかに当たった。慣れない感触に、サンカはそれを思い出した。じりと再びそれが近づく。サンカはきゅっと唇をかみしめた。チャンスは一度。それを逃せば……命がない。震える手で、水袋の口をゆるめる。上方からどさりと何かが落ちたのを合図に、それはたわめた力を解放した。瞬きする間も、ない。「サンカ!」サンカは目を閉じ大きく腕を振った。水音に続き悲鳴が聞こえた。風を切る音がし、何かがどさりと音を立てた。来るはずの衝撃は、訪れなかった。「怪我はない!?」そろりとサンカは目を開けた。闇の中に知っている影がいた。サンカは大きくうなづいた。「イサキは?」「うん。大丈夫」二人は並んで木の根に寄りかかった。冷たい風が、木の葉の音だけを運んだ。少し離れた場所から、父親の立てる衣擦れの音が聞こえた。「聖水、持ってたんだ」「……神父様が、持っていけって」「そう」サンカの目には闇にしか映らないそこに、二体の死骸が有るはずだった。……その片方はサンカが殺めたもの。「ねぇサンカ。……学校いくの?」サンカは答えなかった。−−答えられなかった。二人の間に静寂が訪れ、それは小さな灯りが点るまで続いた。「終わったんだ」「イサキ、オレ……二年で、帰ってくる。約束する。だから……」サンカの手がイサキに伸び、イサキはサンカの手をつかんだ。二人は並んで、明かりの下へ向かった。
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