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03 rev.1

 戸をひっきりなしに叩く風の訪問の合間に、踊るように揺れ動く影に合わせて爆ぜる炎のその先から、もれ出るように声が聞こえた。意味をなす言葉ではなく、絞り出されたようなうめき声だった。

 目を開け声を探すように部屋の中を見回すと、見慣れたさほど広くはない小屋の中は箱や瓶や干し草で埋めつくされ、声はその向こうから聞こえてきていた。

 −−またか。

 −−誰?

 かみ合わない言葉が浮かび、ほんの少し上がった視界は低くなり闇に閉ざされた。

 −−長くなるな。

 隙間風が入り込まないのが不思議なほど叩かれ続ける戸の音を聞きながら、ぼんやりと思った。雪は二日の間途切れることなく降り続き、そしてもう二日は降り続けるだろうと感じた。足を組み替え居心地を直そうとして、けれどそのまま立ち上がった。

 −−苦しんでるのは、誰?

 立ち上がり箱のスキマから見えるその先へ足を進めた。子供のような高さの視界では先を見通すことが出来ず探るように進むと、木目がむきだしになった粗末な壁の手前に僅かに上下する毛布が見えた。箱を避け足音一つ立てずに近づいていく。

 作りつけの小さなベッドに横たわるのは、長身の男だった。毛布の先は所在なげに垂れ下がり、ベッドからはみ出た足をもうしわけ程度に覆っていた。

 ほんのわずか冷たくなったに空気に何か悲しい気持ちを覚え、男の顔をのぞき込んだ。背伸びをしようとしてうまくいかず、ベッドに手をかけのびするように上体を持ち上げる。

 男の上向いた端正な顔は僅かにしかめられていた。規則正しいとは言い難い呼吸が静かに続き、見ている間にまた一つ声がもれた。小刻みにふるえる肩、苦しげに寄せられた眉に手を伸ばそうとしてうまくいかず、思わず口を寄せた。

 −−苦しまないで。

 キスの代わりにぺろりと頬をなめると、男はびくりと身体をふるわせた。少し驚きベッドを降りて見上げた先で、男はゆらりと上半身を持ち上げた。

「……なにか、あったのか?」

 男は大きく息を吐き、手を額に当て息を整えるように何度も大きな呼吸を繰り返した。寝乱れた薄い色の髪が、淡い炎にさらりさらりと光をかえした。

 −−何もないよ。

 言おうとして、言葉にならなかった。喉の奥からうなりのような音が漏れただけだった。だから男を見上げ続けた。伝わればいいと願いながら。

「……お前……」

 薄い瞳が見返してきた。じっと探るように見つめた目が、僅かに見開く。

「ルーア、か?」

 −−え?

 ぱっと目を開けたルーアの目に飛び込んできたのは、すっかり見慣れた木目のそろった天井だった。


 *


 窓から入り込む風はいつのまにか冷たさを帯びるようになった。とはいえ、空は相変わらず薄ぼんやりとした柔らかい色をしており、道行く人々の上着は薄く軽く見えた。通りの往来は途絶えることもなくにぎやかな声が聞こえてきて、冬の寒々しくけれどどこか暖かいあの閉塞感など、どこからも感じられなかった。

 村ならば、とルーアはぼんやり思い出す。村ならばもう、教会前の広場から子供の姿も消えているだろう。市場も閉鎖され道行く人々は厚い外套の前をかき合わせ、一人二人と寄り添い僅かな暖を求めながら足早に過ぎ去るのが常だった。広すぎて暖まりきらない講堂のやたらと冷たい石の床の掃除はルーアの役目で、冬の掃除はおざなりだと神父にいつも小言をもらっていたことを覚えている。田も畑も白い絨毯の下で一時の休みにつき、人は家の中で寄り添い合う、そんな季節のはずだった。

「ルーア! こぼれてるわっ」

「え、あ、きゃっ」

 口の広いカップのフチからなみなみと紅色の液体があふれ出し、ソーサーでも受けきらずさらにその外へと流れ出していた。慌ててポットの口を上げても、こぼれてしまったものは戻らない。テーブルの上を這い進みシャーリー婆の置いた布巾にぶつかると、先へは進まず吸われ始めた。

「ぼーっとしちゃダメじゃない。布巾取っといで」

「は、はいっ」

 飛び上がるように返事をしキッチンへ駆け込み布巾を三枚ほど掴もうとして、今度は掴んだまま持ってきてしまったポットを台に見事にうちつけた。ゴンという堅い音は、かろうじてポットは無事だったと伝えてはいたが。

「……またやっちゃったわ」

 注ぎ口からずれたフタのスキマから、残っていた茶がこぼれて散った。古く黒ずんではいたが磨かれ艶光りする節目ばかりが目立つ木目の上に、幾つもの薄赤い水玉ができあがっていた。

 焦げ付いて水につけたまま放置されている鍋に、真っ黒くすすけてしまった鍋掴み。目に入り溜息をついた。そのまま落ち込んでしまいたい気分だったが、後かたづけの方が先だった。ポットを今度こそ静かに置いて、台の上の水玉はそのままに予定の通り布巾を掴んでとって返す。すでに許容量一杯にお茶を吸い込んだ布巾は、すっかり紅色に染まりきっていた。

「ルーア、遅いわよ!?」

 自分一人では満足に歩くことの出来ないシャーリー婆ではあったが、口の方はまだまだ達者だった。動けないだけでルーアよりよっぽど長生きしそうな元気具合に苦笑し、ルーアはこんどこそヘマをしないようにと片付けに集中する。ソーサーとカップを片付けテーブルにこぼれた分をふき取って、すでに滴るほどになっていた布巾を慎重にキッチンまで運び込む。床にこぼれた多少の雫も、雑巾を持ち出して滑らないようふき取っておいた。

 新しいお茶を淹れようと湯を火にかけて布巾を全て洗い終わった頃、扉の開く音がした。少し引きずる足音と支えるように寄り添う音が、人物を伝えていた。散歩がてらボランティアのゴミ拾いに出ていたアレハ婆とベルダ爺が帰ってきたのだ。急ににぎやかになった様子に、ルーアは慌てて水を足した。

「すっかり冷えてきたね。腰が痛むよ。私たちの分も頼むよ」

「はーい!」

「アレハ、手伝ってあげてくれる!? 朝から危なっかしいのよ」

 シャーリー婆の声に振り返ると、にこにこと柔和な笑みを浮かべた小柄な老婆が両手を差し出し立っていた。ルーアは苦笑気味にそれに甘える。お盆の上にポットを載せて、いつでも支えられるように気をつけながらテーブルへと向かった。

「外を見てたり、なんか考え込んだりしてるみたい。体調でも悪いのかしら」

 テーブルに着くなり、ようやく訴える人を見つけたかとでもいうようにシャーリー婆はまくし立てた。ルーアは少し困って曖昧に笑み、今度こそ零さないようにと四客のカップに茶を注いだ。もとから多めに出した菓子を足す必要はなさそうだ。

 湯気が柔らかく立ち上る。少し冷えた風にかき消されては、登り続ける。徐々にその量を減らしながら。

「少し顔色が良くないようだね。無理をして悪くなってもいけない。今日はこれでお帰り」

「アタシ達のせいで悪くなったりしたら、承知しないからね!」

 うんうんと真剣な目でアレハ婆も頷く。

 真剣に案じてくれている様子に、帰って居心地が悪くなった。体調が悪いわけではないのだ。ただ。

「すこし寝不足なくらいで、体調は何ともないです。だから、大丈夫です。お洗濯だってこれからだし」

「寝不足? 寝られないの? やっぱり体調が悪いんじゃないの?」

「まあまあシャーリー。血圧があがる。……もしかして、ホームシックかい?」

「え?」

 予想もしない問いかけにルーアは目を瞬いた。カップを置いたルーアの手を、アレハの手が優しく包み込んだ。骨張ってかさついてすっかり荒れた手ではあったが、ルーアにはとても親しみ深い『村』の手だった。

「なに、一年くらいの間は誰にでもあることさ。帰れるなら帰ればいいが、そうでなければ慣れるしかないんだよ。けれど、溜める事はないからね。私たちで良ければ、力になるよ」

 暖かく静かなベルダ爺の声は、どこか悲しみを帯びて聞こえた。いつか小耳に挟んだことがった。ルーアの村と同様魔獣に襲われた故郷で息子と孫を失ったのだと。北方の小さな島の出身のアレハは、故郷と同時に声を失ったらしいということを。そして、人一倍喧しいシャーリーに至っては、生まれた村も嫁いだ先も旦那も子供も全て失ってしまったのだということを。悲劇は唯一のものではない。そしておそらく、これが最後というわけでもない。

「たしか、ルーアは東の出身だったね」

「お養父(とう)さまは王都に残られたのよね!?」

 ルーアはこくりと頷いた。生き残り、王都までの道のりを共にした村人達は他の村に土地を与えられ、散り散りになってしまった。ルーアは保護者もなく成人でもなかったため、そのまま孤児院に入院することとなった。養父は神父であったから……新しい赴任地が決まるまでは、王都に留まることになると聞いていた。

「多分、大聖堂に……」

「多分ってなんだい? 会ってないの?」

「シャーリー。……たまにはお会いしてみたらどうだい? お養父さんだって、会いたいだろう」

 ルーアは苦笑するしかなかった。会いたくないわけがない。帰りたくないわけがない。一人目覚めた夜中に、置いて行かれたかのように感じる会話のスキマに、いつも冷たく暖かい空を思い出す。そんな思いを共有出来る人物はそう多くはない。

「来てはダメと言われているんです」

 別れ際の神父の言葉を思い出す。「決して会いに来てはいけない。いいね、ルーアはこれから一人で生きて行かなければいけないんだ」 なぜの問いかけに答はなく、振り向かない背中は拒絶だった。

「会いたくない父親なんているもんですか! そうだ、これからいっておいで。洗濯なんてどうでもいいよ。アタシとアレハでどうにかするさ、ね、アレハ?」

 手を取ったまま、アレハ婆は困ったようにシャーリー婆を見返した。言葉を補うようにベルダ爺が身を乗り出す。

「まぁまぁシャーリー。急いでも仕様がないだろう。面会日に行ってみるというのがどうだい? 同じ大聖堂の中だ。叱られてもついでだったと言えるだろう。……それまでにしっかり寝て体調も治しておけばいい」

「あら、良いアイディアね! そうよ、ルーア、そんな疲れた顔レイニーに見せちゃダメよ。お養父さまだって、心配するわ! そうよ、サイスによく眠れる香を作ってもらえばいいわ。これなら今日行くべきね!」

 得意げにまくし立てたシャーリーに金を握らされ、結局ルーアは追い出されるようにしてサイスの店へ向かうことになった。

 

「で、それは毎晩?」

 聞き上手のサイスに請われるままに夢の内容を話していた。ドアも窓も小さな薬屋の店内は少しひんやりとして乾燥し、所狭しと天井からぶら下がる様々な草や、瓶に封印しながらもひたひたと漏れだしたように漂うオイル、砕いていぶした木の実の香などが混ざり漂い、独特な雰囲気を生み出していた。

 レイニーがどうにも馴染めないと嘆いたそれであったが、ルーアはふわふわ風船のように留まることなく浮ついていた気持ちが、ようやく地についたような安心感を覚えていた。いつも来る度に思うことではあったが、今日はとくにそれが強い。息がつける。呼吸が楽になる。そう、感じてしまう。院の自室でも、石畳を敷き詰めた通りの上でも、広場の中心の濁りない噴水の前でも、いつも柔らかい香に満ちた養老院でも、それを感じることはできなかった。

「うん。ほとんど、毎日……」

 入るときにすれ違った客は、ニムサの香袋を購入したのだろう。とくに強い甘い香りが妙に眠気を誘う。思えば、王都に来てからぐっすり眠ったことがあっただろうか。毛羽立った羊の毛の代わりになめらかに織られた綿のシーツ、縮みきって堅く重くなった使い古しのかわりに軽く柔らかく包み込む毛布。ずっと上質のものとわかってはいたが、馴染むものではなかった。養父と二人暮らしであったから、眠る場所でまで多くの人と一緒にいるのも落ち着かない。

 そしてようやく慣れてきたと思えば夢だ。ベッドに入り眠りに落ちる度に出会う。風の勢い、雪の冷たさ、手足のしびれ、焦り、不安、ごく希にある安堵感。細部まで思い出すことができる。今日は昨日の続きで、明日は今日の先を行く。そこに矛盾はなく時間がさかのぼることもない。確かに経験しているようなリアリティ。自分が自分でないような感覚。

 目覚めて最初に思うことは、自分が自分であるということ。自分の一日がようやく始まるのだということ。

「そう。いつから?」

「王都に来て、神父様と別れることになって、最初は全然寝れなくて……それから十日くらいしてからかしら……」

「そんなに?」

 こくりと頷いた。朝起きれば食事の支度。小さな子供達を起こしてから、それぞれの仕事に送り出すまでが朝の仕事。それから養老院へ出向き、掃除や洗濯、老人達の話し相手などを夕方まで勤めて帰院。帰れば夕飯の支度を手伝い、子供達を寝かしつける。どうしても寝付かないときには絵本を読み聞かせるとこもあった。寝入るまで手を握り続けたこともある。レイニーが去ってから、年長グループを束ねるのもルーアの仕事になった。起きてから眠るまでいつもめまぐるしく、初めてで大変で慣れなくて楽しい事ばかりで、疲れなど感じる間もなかった。

「そう……。大変だったわね」

 こくんと再び頷いた。なんだかとても眠い。まぶたが重く、頷いたあごを引き上げるのにも力がいる。

「最近あんまり顔色も良くなかったものね。そんなでは、レイニーにまで心配されちゃうわ」

「そうよね。レイニーはもっと大変なんだもの。しっかりしなきゃ……」

 ぽすんと頭に暖かいものが置かれた。サイスの小さな手が、子供をあやすように頭をなでていた。少し高い子供のような体温が、心地よい。

「無理しないでいいのよ。この店には誰もいないんだから」

 子供達も老人達も、心配をかけるような人は誰もいない。確かにとルーアは微笑んだ。……ずっと気を張り続けていたのかもしれない。

「少し寝ていくと良いわ。その間に薬をつくっといてあげる」

 サイスの高い声が、柔らかさをおびた。もう一度頷こうとして、今度は持ち上げることが出来なかった。

「大丈夫よ、ここでならゆっくり寝られるから。……あと十日ね」

 声が遠く聞こえた。


 *


 ためらうような足音に階段を見上げ、うなだれようと可愛いさのカケラも感じられない顔にげんなりし、そのまま止めることなく目を戻した。すやすやと安心しきって眠る少女は見ていて和むが、かさばるだけのイヌなどに興味はない。カウンターの下からしっかりとニムサの香をたきつけた毛布を取り出して、静かにルーアにかけてやる。ゆっくりできるよう横にしてやりたかったが、この店にそんなスペースはなかった。サイスも階上の少年もベッドなど必要としていなかったから。

「ぼーっとしてないでよ。……ヌタとフィニカ。ダーバラーもあった方が良いわね」

 呟くようにけれど十分少年に届くように言って立ち上がった。音もたてず、空気をかき乱すこともなくカウンターを離れると、部屋の隅の棚まで積み重なる箱のスキマを縫うように歩いていった。

「アンタの責任よ。わかってるの?」

「……オレ……」

 わかっていない。いや、責任は感じているだろう。けれど、肝心なことをわかっていない。だからガキは嫌なのだ。とくにイヌは。手に負えない。教えてもらわないと何も出来ない。自分でどうしようという意志が薄い。それが本能だとしても、サイスにはどうしても理解できない。

「十日で何とかなさい」

「何とかって……」

「しなさい」

「そんなのやったことないし」

「やったことないじゃないでしょ、やるの! ……大聖堂ってとこを理解しなさい。困るのはアンタだけじゃないの」

 思わず出した大きな声に慌ててルーアを振り返った。幸いにも深く眠り込んで、起きる気配は感じられない。……こんな話を聞かせるわけにはいかない。今は、まだ。

「オレ、こんなつもりじゃ……」

「つもりもへちまもへったくれもないでしょ? これは事実で、それ以外のナニモノでもないわ」

「けど……」

 ばき。手の中の瓶が砕けていた。強い刺激臭が辺りに漂い出す。くるりとサイスは振り返った。ぱらぱらと粉のようなガラスが足下に散った。

「わからないガキね。これはあんた達が決めたこと。あんた達がどうにかするしかないことなの。……アンタの腐れ飼い主にでも泣きついてみたらどう?」

 言い返すこともできまい。少年はうつむいたまま唇を噛み、引きずるような足取りで階段を下り始めた。

「……馬、貸してよ。オレ『しゃべれ』ないから」

 やっと動く気になったかと、サイスは溜息をついた。スカートの上のきらきら光る塵を見て、僅かに舌打ちした。

「裏の栗毛が速いわ。乗り換えなくてもギリギリ持つと思う。……あーもぅ。やることが増えたじゃない」

「ありがと」

 言うと少年は足早に店のドアへと向かう。途中、そっと優しく壊れ物でも包むように毛布をかけ直してから。

 空気が僅かに動くのを感じ、サイスは何度目かの溜息をついた。もし何も持たずに帰るようならば、こちらでどうにかしなければならない。取り得る手段など……。

 −−無茶を言うでないよ。

 足下の輝く塵をどうしようかと悩むうちに、自然と言葉が浮かんだ。まるで今思いついたかのように。

「でも主様。ほかの方法なんて……」

 声はさほど広いわけでもない店内の隅々まで響き、誰へ届くこともなくかき消えた。サイスは目を閉じる。思いつく言葉の一字一句を取り残さないように。

 −−憶測の段階で、それは望ましくない。

 目を開けて、すやすやと眠るルーアを眺めた。小さな窓から差し込む光はいつの間にか弱くなり冬の季節の早い夕刻が訪れようとしていた。小さな姿はすでに影の中にあったが、サイスの目には日中と変わらないくらいはっきりと映っていた。

 負担だとわかっていても、苦しむことになるとわかっていても。サイスにはサイスの事情がある。

「私もそう思いますわ。主様−−」

 それきり浮かばなくなった言葉に、サイスは作業を再開した。


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