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02 rev.1

 降りしきる雪は強い風にあおられ、視界を覆い尽くしていた。 子供のような視点から見える世界は、足下につもった雪と、頭上で渦巻く雪と、その間に生えるくすんだ木々に支配されていた。

 深い雪は獣道をすっかり覆い隠し、立ちこめる木々は行く手を阻んでいた。 葉を落とした木々は凍てつく風を遮ることもなく、思わぬ場所に吹きだまりを産んでさえいた。 深い雪に進むごとに足が取られ、降りしきる雪に引き抜くごとに足跡は消えていった。 息は吐き出すそばから凍り付いた。凍り付いて地吹雪に紛れた。

 そんな中であっても、立ち止まることはなかった。 すぐそばから聞こえるもう一つの足音も、規則正しいリズムを刻み続けていた。 時折背後を確認する他は、前を見、足を進める。

 −−いまのうち。

 自然とそう思った。

 −−吹雪が止む前に、距離を稼がないと。

 思うたびに、足を一歩踏み出した。

 頭上で風が巻く。それを視界の片隅で確認しながら、ただひたすらに前を目指した。一つの言葉もないままに。


 目を開けると、天井の板の目が目に入った。数度瞬きを繰り返し、ゆっくりと身を起こした。 僅かに冷えた空気を薄い寝間着を通して感じる。寒くもなく、日が昇っても暑くはならないちょうど良い温度。

 ベッドの脇に大きく取られた窓からは、深く浸透するような朝の光が差し込んでいた。 閉じられた窓を通して聞こえてくるのは、止むことのない葉擦れの音でも、たたきつけるような雨雪の音でもなく、石畳を行く車輪の音だった。 部屋の中にほのかに香るのは、枯れることなく咲き続ける窓辺の花の香り。

 息を吸い、僅かの間それを止めて、深く深くはき出した。 空気が僅かによどんで感じられるのは、すやすやと寝息を立てる子供達を優しくくるんでいる証拠。

 −−ここは王都。孤児院の私たちの部屋。私は……。

 はらりと肩に掛かるブラウンの髪。目を落とせば、見慣れた小柄な手。

 −−私、だわ。

 時間が経過するごとに、自分が存在感あるものとして感じられるようになった。 暮らし始めて半年が過ぎようとしているどこか違和を残す部屋も、空気も、けれど、連続した記憶の中へ収まっていく。

 ルーアは部屋を見渡し、絶え間なく聞こえる寝息に微笑した。 音を立てないよう足を床におろす。堅い床の感触は、ふわりと浮いたような夢の中から、ようやく抜け出してきたかのように感じられた。

 気を遣いながら身支度を整えると、ルーアは静かに部屋の扉を引いた。静かな寝息を立てる彼らの朝食を作るために。


 *


 薬草のにおいは好きだった。ルーアは所狭しとつるされた草々を眺めながら、深く息を吸い込んだ。

 村では薬草はとても身近な場所にあった。 各家に薬草の一つや二つは常備され、怪我や病気、虫除けの為の燻しにと頻繁に使用されていた。 メルシアの教えでは薬草やそれを扱う薬士は否定されていたから、 ルーアの暮らす教会にはなかったが、村自体にどこか薬草臭さが漂っていたとルーアは思う。 神父も、村人が日常的に使用する薬草を、強引にやめさせたりはしなかった。 亡くなってしまった故郷を偲ぶにおいであり、ルーアにとっては、薬士だった亡き母のにおいでもあった。

 ルーアは店の奥から聞こえるはなうたを聞きながら目を閉じた。 息を吸い、吐き出し、空気に馴染むごとに、こわばっていた身体がほぐれていくような気がした。 どこか浮き足立っていた心が、静かに地につくようだった。 まぶたの裏に浮かぶのは、木々に田畑、粗末な家々、遠くに見える僅かな青。 そんな懐かしい中に、思い出すこともむずかしい母の後ろ姿が、見える気がした。

「おまたせ。アレハさんはアバカリの香、ベルダおじいさんにはウジュ、シャーリーさんにはニムサの香袋」

「あ、はい。そうです」

 頭の上から唐突に声がした。ルーアは慌てて振り返る。 柔らかいフリルが沢山付いたドレスを着た十二〜三歳くらいの少女が、カゴを両手で抱え立っていた。 カゴの中には、注文した通りの品物が行儀良く並べられていた。

 ルーアはスカートのポケットから小さな財布を取り出した。老人達から預かった大事な金がその中に入っていた。

「全部で三○○よ」

「あ、はい。三○○……あれ?」

 ルーアは財布をのぞき込んだ。店内は少し薄暗く、見間違いかと再度数える。 二六○ニュート。何度数えても、その数字に間違いはなさそうだった。

「あら? 足りないわね」

 ルーアの脇からひょいと財布をのぞき込んで少女は声を上げた。

 ルーアは財布をのぞき込んだまま、思案した。 孤児院から出張して世話する老人達は、どこか体の自由を奪われていることが多かった。 若りし頃に手を失って不自由な生活を強いられる者、病の長患いで自由に歩くことができない者。 時には現実をすっかり忘れてしまい、過去の中で暮らす老人もいた。 彼らは一様に裕福とは言えず、時には必要なものすら手に入れられないこともあった。

 誰かがお代を間違えたのかも知れない。もしかしたら、知っていて少なく渡したのかも知れない。 ルーアには判断が出来ず、そして、どうすべきかもわからなかった。

「どうする? レイニーを呼ぶ?」

 小首をかしげて少女はルーアを見上げた。 レイニーは店の外で待っているはずの少女の名だった。

「うん……」

 レイニーはルーアより二年年嵩の、孤児院での姉のような存在だった。 ずっと以前から老人達の世話をしているレイニーならば、こんな対処もお手の物だろう。

「聞いてきます。ちょっと待ってて下さいね」

「待って」

 腰掛けた椅子から降りたルーアへ、頭上から声がかけられた。 少女より若干低いその声に、ルーアは慌てて振り返る。 耳障りの良い少年の声だった。 知っているもののように思えたが、思い浮かんだ声の主の影はつかむ前に消えてしまった。

 振り返ったルーアは主の姿を見つける代わりに、飛来する小袋を認めた。 反射的に受け取ったルーアは、店の奥にしつらえられた階段から見下ろす少年へようやく目を移すことができた。

 締め切った店の中に、僅かな風が起きた。 いや、それは空気の流れではなかったのかもしれない。 それでも、ルーアの髪は一度僅かにふわりと浮き、肌はほんの僅か圧のような力を感じた。 感じた思った次の瞬間には、しかしそれらは気のせいだったかのように霧散していた。

「四○。足りるだろ」

「あ……」

「次に返してくれればいい」

 少年はそれだけ言うと、階上へと引っ込んだ。

 ルーアは少年を目で追った。少年が見えなくなると、−一瞬寒さを覚えた気がして−二の腕を僅かに抱いた。

「全く……」

 ぼそりと呆れたように少女はつぶやいた。 ルーアがどうしたかと少女を見ると、すでに少女は顔いっぱいに笑みを浮かべていた。

 商売人の笑顔だと、ルーアは思った。


「どうしてあの香屋ばっかりあんなにおいなのかしら。あのお店じゃなきゃだめだなんて、わかんないわ」

 レイニーはいたずらっぽく大げさに眉をひそめた。ルーアは曖昧に笑い返した。 レイニーは薬という言葉を使わなかった。薬屋は香屋。薬士は香士。 当たり前のように薬屋と言ったルーアは、出会って間もない頃に警告に近い注意を受けていた。

「サイスは大好きなんだけど、お店はどうしても好きになれなくて」

 少し困ったようなレイニーの声音に嫌悪感はなかった。 好き嫌いはどうしようもない事実だったが、レイニーはその事実に身勝手な感情を混ぜることはなかった。 ルーアは目撃したことはなかったが、薬屋の中に入り込んでさえ、同じ言葉を言いそうだった。

「私は好き。村のにおいがするのよ」

「へぇ? ……ちょっと想像できないわ」

 肩をすくめたレイニーに、くすくすとルーアは笑った。

 入り組んだ細い路地をいくつも曲がり、一際明るい角を曲がると大通りへ出た。 独特の香りはすでになく、家々の窓辺に置かれた色とりどりの花の香りや、 露天から香る甘いお菓子の香り、年端もいかない子供のふりまくちょっとミルク臭くさいにおいなどが混じり合っていた。

 今通ってきた路地にも大通りのどこにも寂れたような陰はなく、日が落ちてさえそれは変わることがなかった。 灯りがなくとも街は仄かに明るく、入り組んだ路地の先にならず者が棲み付くこともなかった。 いつか、疑問に感じたルーアはレイニーに尋ねた。レイニーは、それがメルシアのお膝元たる王都なのだと、誇らしげに答えた。 こんな街に生まれたのならとルーアは思う。きっと、薬草のにおいとは縁がないのだろう。 香を頼んだ老人達はみな、それぞれの理由を持って王都へ移住してきた人達だった。 レイニーが眉をひそめるにおいが、彼らにとっては落ち着く香りなのだとルーアには思えた。

 大通りは人通りが多かった。明るく光を反射した白い石畳の上を、人の合間を縫うようにしてレイニーは進んだ。 ルーアはレイニーの作った隙間を、たどるように歩を進めた。

「ねぇ、ルーア。サイスっていくつだと思う? あの見かけで、私がルーアよりも小さいときから香士やってるのよ!」

「そんなに小さい頃から?」

「違うの。彼女はあのままなの。お姉さんがいつの間にか年下の女の子になっちゃったのよ」

 快活にレイニーは話し、石畳を小走りに進んだ。ルーアは少し驚いてレイニーの後を追う。 レイニーは大きな荷物を抱える老婦人に声をかけ、荷物を受け取っていた。 レイニー自身の荷物を今度はルーアが受け取る。

「助かったわ。ちょっと買いすぎてしまって」

「あんまり重いと腰を痛めちゃうわよ。ほどほどにしないと」

「小麦粉が安かったのよ」

「若いのいないの? 息子さんとか、娘さんとか。つれてこなきゃ」

 身軽になった婦人はにこにこと道を示す。婦人に並ぶレイニーの少し後をルーアはついて行く。 ルーアは婦人を知らなかった。おそらくレイニーも知り合いではないだろうと思った。 ここではこれが普通なのだと感じていた。

 二人の会話を風音のように聞きながら、ルーアは周囲を見渡した。 暗い表情の人はなく、皆が笑顔を浮かべていた。 時折とまどったように、もしくは惚けたように周囲を伺っているのは、迷い込んだ旅行者だった。 ルーアは前を行く二人に目を戻した。笑顔を振りまく住人達より、旅行者に親近感を覚えた。

「あら、修道女に? それはおめでとう」

「二年間おつとめして、結婚するんです」

「院には残らないのね」

「メルシア様には沢山の方がお仕えしてるけど、彼には私しかいませんから」

「やぁね。おのろけ?」

「そんなんじゃありません」

「待ってる間は寂しいんじゃないの」

「彼はその間徴兵に行くことになってるんです」

「うまく考えたわね。いつ院へ?」

「五日後に」

「あら、すぐじゃない。支度は大丈夫?」

「大丈夫です。ルーアにもいろいろ手伝ってもらっているし」

 不意に名を呼ばれ、ルーアはきょとんと前を行く少女を見つめた。 レイニーは少しだけルーアを振り返り、にこりと笑いかけた。

「孤児院のお仕事も、みんなルーアにやってもらうことになってるんです」

「あら、じゃぁ、ルーアさんは大変ね」

 すっかりうちけとけたように、婦人もルーアへ笑いかけた。 ルーアは曖昧に二人へ返した。

 神父と別れ、孤児院へ入院した時、レイニーの務めはすでに決まっていたようだった。 孤児院では、孤児達の社会勉強もかねて様々な活動が行われていた。 活動は金銭授受のあるものから、全くのボランティアなど様々あり、それぞれがそれぞれの適正を持って参加していた。 院の中では比較的年長に位置するルーアは、院を抜けて独り立ちしていく少年少女達の仕事を引き継いだ。 レイニーが受け持つ老人達の生活の手伝いも、彼女が抜けた後はルーアの仕事になることが決まっていた。

 修道女は、二種類あるのだと聞いていた。 一つは、幼い頃から修道院で学び、将来、創造神メルシアに仕える修道尼になる前の女性のことであり、 もう一つは、二年の任期で選別されるメルシアに仕える少女達のことだった。 任期制の修道女は特別なモノではなく、王都にいれば二・三十人に一人くらいの割合で経験しているようだった。 任期を終えた後は院に残ることもあれば、市井へ戻ることもあった。 メルシアへの信仰心の厚い王都では、修道女という経歴は何にも勝るものだった。 容姿も平均以上で心優しくまっすぐな気性の少女が選ばれるものとされていたことも、要因の一つだった。

 幸福そうに未来を語るレイニーを、ルーアはとまどうように見つめた。 なぜ今王都の石畳を踏んでいるのか。 置いて行かれたような気持ちになると、必ずそんな考えが浮かんだ。 村が焼かれたあの日、王都へ向かう馬車から降りた後、気が付くとルーアの目の前には心配そうな神父の顔があった。 ショックと馬車の酔いで気を失ったのだろうと、神父は言った。 ルーアはその間の出来事を思い出せず、村で聞いた天使の言葉も言い出すことができないまま、今日まで日ばかりが過ぎていた。 父親代わりの神父にすら言えなかったことを、修道女になるレイニーに伝える気にもなれず、ルーアの内の中には違和感ばかりが募っていた。

「ありがとう。ここでいいわ」

 婦人は細い路地の前で足を止めた。婦人の家は、路地を入って直ぐだという。

「誰か呼んできた方が良いんじゃないですか?」

「大丈夫よ。おばあちゃんだからって、なめないで頂戴!」

 ぽんと胸を叩いた婦人に笑い。それならとレイニーは少し腰をかがめた。 婦人に会わせた高さで、荷物をゆっくりと渡す。

「レイニーさん、ルーアさんに、メルシア様のご加護がありますように」

 最後ににっこりと笑いかけ、別れ際の常套句を口にすると、婦人は路地へと消えていった。

「さて、香を届けないとね」

 婦人が見えなくなるまで見送って、くるりとレイニーは振り返った。 先ほどより少しだけ早めた、しかしルーアが十分追いつける歩調で歩き始める。

「ルーア。これから、おじいさん達のお世話、頼んだからね」

「うん。レイニーも……」

「あたしは大丈夫! しっかりお務めして、明けたらクライと……」

 ほんのり赤く染まったレイニーの頬に気づかないふりをして、ルーアは一歩前へ出た。


 *


 明かり取りの小さな窓から、少年は路地を見下ろしていた。 かつかつと石作りの階段が音をたて、部屋の隅にひょっこりと波打ったブロンドが生えた。 聞こえないはずはなかったが、少年は振り返らなかった。 ブロンドはため息とともに全身を現した。 薬屋の従業員を名乗るブロンドの髪の少女、サイスは、呆れたように少年に言った。

「あんたね、勝手なことしないで頂戴」

「もうしない。どうしても、直接見たかった」

 少年はもう見えない影を、それでもまだどこかに見つけようとするように、路地を見つめ続けた。

 サイスは再びため息をついた。まったくもう、と口の中でつぶやいた。

「とにかく、勝手にあの子の前に出ないで頂戴。それと、店の手伝いと、あの若造の手伝いはすること。良いわね!?」

「わかってる。……言われなくても、やってる」

「そう。ならいいけど」

 くるりとサイスは少年に背を向けた。からんと店の扉が開かれる音がした。

「じゃぁ、早速お店の手伝いをしてもらうわ」

 階段に足をかける。二三段下ったところで、動く気配のない少年にしびれを切らした。

「ヘルミ!」

「……うん」

 少年、ヘルミは、ようやく窓から目を離した。 日が差し込むことで暗さが際だったような部屋の中を、雑多に置かれたモノの間を縫うようにして階段へたどりつく。

「いらっしゃいませ」

 階下から、サイスの声が聞こえた。



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