あーあ。ため息ついて足を止めた。隣を見下ろすと濃紺のフードの中の幼い顔がにやりと俺へ笑い返した。森を抜けたところで半ば諦めてはいたのだが、最後の悪あがきもここまでだった。
見渡す限りの麦畑。時折見える小屋の屋根に、遙か彼方の大山脈。空にも雲さえ見えず陽光がまぶしい。つまり、逃げる場所はどこにもなかった。
しかもここは最悪の場所だ。僅かに青臭く涼しく心地よい風とは裏腹に、肌に口に喉に肺に絡みつくねっとりとしたなにか。重いわけでもなく、呼吸の度に体の中へ満ちていく。
世界に点在するポイントの一つだった。ポイントは動く。時と共に世界中を移動する。魔術、組術に携わることがなければ、気付くことすらない。携わったからといって、全員が知るわけでもない。
俺たちが通りかかったのはほんの偶然で、しかもそんな場所で追いつかれることになろうとは、計算違いもいいとこだった。
やれやれと俺は振り返った。乾いた道を辿った先、森の出口に馬が見えた。見るよりはっきり感じる気配は、殺気だったモノ二つ。二頭の馬に二つの気配。一方は太刀を帯びたガタイの良い男で、もう一方は律儀に濃紺のローブを着込んだ見るからにそうだと知れる魔術士だった。近づかなくてもそれくらいわかる。つい一昨日、まいてきたばかりだった。
「金はくれるっつってんだろ? 受けてやりゃいいじゃん」
「やだね」
さて、どうやってまこうか。奴らだってバカじゃない。目くらましの組術など、そう何度も使える手じゃない。剣にモノを言わせるには、あの太刀はやっかいそうだ。だいたい俺の腕なんて、たかが知れてる。剣を使っている間に、魔術士の詠唱なんておわっちまう。かといって、カナタは何をする気もなさそうだし。
ちらりと見やった先で、フードの奥の目と合った。にやりと返して背伸びをし、手のひらでひさしをつくって遙かな馬を眺めやる。ち。おもしろがってやがる。俺はちっとも楽しくないぞ。
そうしている間にも奴らと馬は近づいてくる。気配は音をまとい始め、ひづめの立てる不協和音が聞こえてくる。鬼の首でも取ったように人を見下ろす顔が暑苦しい。
深々とため息をつくしかなかった。いい手は思いつかなかった。
*
「シークさんよぉ。探したぜぇ」
「探される覚えはないね」
「そう、つれない事言うなよ。ちゃんっとした依頼なんだからサ」
「だったら、馬くらい降りたらどうだ」
「あぁ、そうだな。わりぃわりぃ」
男はにやにやと粘つくような笑い顔を張り付かせながら、思ったよりは軽い身のこなしで地面に足をつけた。俺は男に注意を払いながら、ツレの魔術士にもちらりと視線をやった。思った通りこっそり印を組んでやがる。こんなところで魔術なんぞ使って欲しくはないんだが。
俺の考えてることなんて知りもせずに、男は鞍から外した袋を投げた。じゃらりとたっぷりとした重さと音が、足下から聞こえてきた。
「なぁ、シークさんよ。報酬はこれだけ。悪い話じゃあるめぇよ」
思わず袋へ目がいってしまった。袋のサイズ、重々しく騒々しい音。100は、ある。100あれば、一年は楽に暮らせる。遊んでだって三月は行ける。山ン中で土地を拓いて隠居生活でもすれば、一生生きていけないこともない。
が。
「受けてやれば?」
腕を頭の後ろで組んですっかり他人事モードに突入したカナタは、さも楽しそうに言いやがった。
「何なら、もう50上乗せしたっていい」
さらに粘つく声が、魅力的な事を言う。が。
「……断る」
きっ、と俺は横を向いた。目を閉じる。金なんかない。そこには何もない。俺は何も見ていない。仕事は受けない。財布が空をふわふわ飛びそうだって、こんな仕事は絶対受けない。
じゃりんとさらに音がする。……俺は何も聞いちゃいない。
「なぁ、あんたなら簡単だろ。世界屈指の組術士(メイカー)、シーク先生よぉ!」
大量のヒトガタを手足のように操る魔術を組む。一昨日聞いた依頼内容。こんな奴らにそんな術をくれてやったら、何に使われるかは明白だ。金は欲しい。黄金の輝きは、何にも増して魅力的だ。けど、そんな後味の悪い仕事は絶対にしたくない。しかも。……ちっとも簡単じゃねーよ。ばかやろー!
失敗なんかしてみろ、成功報酬が手に入らないだけならマシってもんだ。十中八九、スマキで優雅に海底散歩だ。金は欲しいが、命まで売る気もねぇよ!
「ことわる」
くるりと俺は背を向けた。金も見ない。男も知らない。一刻も早く立ち去るのみだ。
「あ、シーク!」
「おいっ!」
軽い足音がついてきて、早足で俺に並んだ。ちらりちらりと振り返りながら。
「せっかくの儲け話なのに」
「言うな」
「楽して金稼ぐなんて、こんなもんじゃねーの?」
「やらんつったら、やらん」
「あんさぁ」
ふいと足音が止まった。俺もつられて立ち止まる。後頭部で腕を組んだカナタが、にやりと俺を見上げていた。
「オレがやろっか」
「やるな!」
「簡単じゃん? 人格のない人間つくればいいんだろ?」
「カナタ、それ……」
「待ちやがれ!」
……以上言うなとは続けられなかった。
ドスの効いた男の声は明確な殺気を帯びて、焦げるように空気に混じる何かが音を立て始めた。男の背後、ローブの魔術士の手の中に熱が集まっていく。届くはずもない低い詠唱が聞こえるような気がする。バカが。こんな場所で……!
「こっちが下手に出てるうちに受けりゃぁいいものを! こうなったら、無理矢理にでも組んでもらう!」
「おい、お前! 場所を……」
ぐいとカナタが袖を引いた。天使のような満面の笑みの中、目だけが剣呑な色をたたえている。
「いいからっ。……見てよーぜ」
「見てようって……」
「大丈夫。オレが守ってやる」
「ファイアボルト」
「やめろ!」
抑えきれない勢いに任せて、俺はカナタをひっつかんで地面に伏せた。
「いってーっ!」
わめくな。俺も痛かった。
「守ってやるって言ったじゃん! 伏せる必要ないだろ!?」
「礼は言うよ」
「これと、それとで二つ貸しだからなっ!」
「わかったわかった」
あの勢いのファイアボルトじゃ、俺一人なら消し炭だ。感謝はするさ。感謝だけだが。やれやれ。手をすりむいたな。カナタはデコか。ほっといたって勝手に治すな。
ため息ついて起きあがって、俺は瞬きを繰り返した。目に映るモノが信じられない。
「おい、これ……」
「そりゃなるよ。こんだけ濃いんだから」
「なるって、お前……」
「自業自得だろ。奴ら骨も残ってねーぜ?」
何ごともなかったかのように、額に当てた手をどけた。餅みたいなカナタの顔にはもう傷一つついてなかった。
カナタのすぐ後ろから広がっているはずの麦畑。森まで続く緑の海は、いまや影も形も見えなかった。その代わりにあったのが、見渡す限りのクレーター。
「身の程知ったろ。……あぁ、知る暇もなかったな。水ン中にいるみたいだったのに気づきもしないなんて、魔術士失格じゃん?」
「だからって、コレはないだろ?」
「さぁね。オレしらなーい」
もう興味などカケラもないとでも言いたげに、カナタはとてとて歩き始めた。
ここは有名な穀倉地帯。見事に丈のそろった麦畑。必要だから耕され、必要だから手入れされ。二月もすればコインにも負けない金色になるはずだったのに。
あぁもう、このまま放っておけるか!
地面に手を置き目を閉じる。地面の中、空気の影、水の隙間、空の彼方、世界を紡ぐ音を聞く。大丈夫。まだいける。本当の意味では消えていない。
−−Sequence start. ...Search, ...Find, Recycle. ...Commit. Sequence complete.
乾いた風が肌をなぞる。それは徐々に青みを帯びて、葉擦れの音を含んでいく。
目を開けると、まぶしいばかりの陽光の下に、元の通りの麦畑。そして。
「シーク、今度こそ受けてもらうぞ!」
二頭の馬と、暑苦しい姿。
「カナタ!」
「……お前、バカだろう!?」
面倒くさそうに出したカナタの手を、俺は走りながらひっつかんだ。
瞬きするほどの浮遊感。