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Good-by,Go Home(奇妙なピクニック)



−1−

 突然飛び込んできた光に耐えきれず、塔野は腕を上げて目を覆った。森の中を細くどこまでも続くかと思われた踏みわけ道は唐突に終わりを告げ、どこまでも高く影などないかのように広がる空と風に優しくそよぐ草原、そして草原の中心にただ一本そびえ立ち、柔らかな木陰を提供する大木が視界に飛び込んできた。塔野は力が抜けたように手を下ろして、陽光に引かれるように足を動かした。
 ミュールから露出した足の甲に優しくくすぐるように力強ささえ感じる草が触れ、まだ名残のような勢いを感じさせる日の光が肌を焼いた。聞こえてくる音は気ままに風が奏でる葉擦れと季節を謳歌する見えない虫たちのエチュード。鋭角的にカンにばかり触る低音も、耳に深々と突き刺さりかえって当たり前になってしまった甲高いブレーキの音もここにはなかった。
 一歩二歩と進めるうちにつんと鼻の奥が痛くなり次第に目頭が熱くなり、最初の一粒が頬を伝うとあとはもう止まらなかった。慌てて引っ張り出したハンカチをあてても、緩んだ涙腺は締まらない。次から次にこぼれてはハンカチにシャツにしみを作っていく。しみは透明から始まり、やがて肌や桃や黒へと色を変えた。どこか冷静にそれを受け止めながらも、涙は止まらなかった。……止めようと思うこともなかった。多分、ずっと泣きたかったんだと感じてさえ、いた。
 ここにはなにもなかった。噂を気にする同僚も、ちょっとした変化も見逃さない先輩も、胸元しか見ない男性社員も、書類と一緒にメモを渡すあの人もここにはいない。控えめだけれど強引に聞きたくもない声ばかり届ける携帯電話も、落ち込んでいるときも元気なときも白々しい言葉ばかりが並ぶ情報端末も、ここにはない。涙を止める理由など、どこにもなかった。
 慰めるように撫でる風の向きが変わるころになって、ふと塔野は足下のまだらな影に気付いた。まだらなブチを全身にちりばめたどこにでもいそうなネコが、じっと塔野を見上げていた。あまり可愛くないネコだと思いながら、それでも塔野は手を伸ばした。
「心配してくれるの? それとも、慰めてくれてるの?」
 差し出された手に頭をこすりつけながら、ネコはのんびりと一声鳴いた。美人でも綺麗でもなかったけれど、可愛いと思った。気が済むまで撫でられ満足したのか、ふいと手を逃れると一度も塔野を振り返ることなく去っていく。
「あの人もキミみたいだったら、きっともっと楽だったのに」
 ぼんやりと未練があるわけでもなく目で追うと、ネコは大きな木の陰へ入っていった。さらに今度は木を辿り、高い高いその木の向こうに何もないことに気付いた。すくりと立つ木のさらに向こうで、空は草原に切り取られていた。
 フチの先に何があるのか何もないのか、空っぽになった心の片隅に浮いたささやかな好奇心と共に、塔野はふらりと足を出した。
 二歩三歩と倒れないように交互に足を出すかのように歩みを進め、いつしかそのフチにたどりつくと、涙を乾かすほども強く吹き上げる風の元をのぞき込んだ。ほんの僅かな驚きと、寂しく思う気持ちを引きずりながら。ふと足下を見ると、先ほどのネコが寄り添うように座っていた。塔野と同様、フチから下をのぞき込むようにして。
 直下から始まる深緑の絨毯は青みがかるほども遠い山脈にまで続いていた。右端で唐突に切れた絨毯の先にはちかりちかりと光る平らな面が見えていた。フチと絨毯の間には、ほんの僅か隙間が空いていた。人一人がようやく通れるほどの細く長く、何度も折れ曲がりながら続く獣道のようだった。
「ネコ君、ここから飛び降りたらどうなると思う?」
 塔野を見上げるネコをそっと抱え上げて、抱きしめた。ネコは人慣れしているのか、逆らうでも騒ぐでもなく大人しく塔野の腕に収まった。
「……心配、してくるかしら」
 塔野はさらに一歩、フチに足をかけた。
「ちょっと待った!」
「はぁ!?」
 何かが腰に巻き付いた。生暖かい感触がぐるりと絞める。
「い……」
 鳥肌が立ち、背筋が凍る。
「いやぁっ!」
 あとはもう、反射だった。
 肘を思いきり後ろに引いた。緩んだ戒めに、ここ幸いと振り向きざまに蹴り上げる。堅い感触もくぐもった声も確かめることなくネコを投げ出すように解放すると、塔野は無我夢中で走りだした。逃げ場はそこしかなかった。黒いかげを縫うように森の中へ飛び込む。
「おい」
 黒いかげの一つが何かを言ったような気がしたが、塔野は振り向かなかった。

 禁煙ブームの渦中から解放されて、植草は早速一本短いたばこを取り出した。片手でライターを探り出すと、カチカチ二、三度鳴らして火をつけた。最初の一服は大きく、肺の隅々でじっくりと味わうように吸い込む。
「いやぁっ!」
 予想外の『音』に何ごとかと顔を上げ、たばこをつまんで陽射しの下へ一歩踏み出したとき、それは突進してきた。
 振り乱した髪に所々しみのついたシャツを着た、腫れ上がった目で人間から逃げ出した鬼のような形相をした物体……多分、人間の女が一直線に植草の方へ向かってきた。
「おい」
 植草の横をそれは爆風のごとく器用に駆け抜けた。植草は目で追ったが、すぐに木々に紛れて見えなくなった。草を踏む騒々しい音も、すぐに吸われて聞こえなくなる。
「なんだったんだ」
 あっけにとられて二度三度と瞬きした植草は、だいぶ短くなってきたたばこを携帯灰皿に押しつけた。早くも二本目を取り出しくわえると、それが元来た方へ目を向けた。
「五月山?」
 木立から少し離れた草の中に人影が横たわっていた。良いベッドであるか物色するようにネコがその上を歩き回っている。泰然と植草は歩き出すと、薄い靴底を通して感じる草の弾力も意に介さずに人影を見下ろす位置まで移動した。
 だらしなく地面に横たわる背格好は中肉中背というよりは少しひょろ長い。白い綿のシャツと藍のデニムパンツはどこか薄汚れ、腰の辺りに一カ所妙な泥汚れとシワが入っていた。かっちりとしているはずのフレームのメガネは、ひしゃげてレンズにヒビさえ入っていた。街角に立っていれば大して注目も浴びないだろう平均的な顔立ちは、あまり嬉しくはない意味で人の目を引きそうだった。……右の頬が腫れ始めている。
 どうしてそうなったのかは全く検討もつかなかったが、何があったのかはわかったような気がした。
「情けない」
 言い聞かすでもなく呟くと、視線を遠くの山脈へ移した。少し冷えた風が、埃一つないスーツに絡みシワ一つないYシャツを撫でていく。じっとりと絡む夏の風でも刺すばかりの冬の風でもなく、ただ強く優しい風だった。
 植草はじっくりとたばこの煙を吸い込み、風に乗せてゆっくりとはいた。二度三度と同じ動作を繰り返す。山へ向けた視線を徐々に下へ移し、絨毯をなめて足下へたどり着いた。たった一歩踏み出せば、そこはもう草原ではない。遙か崖下まで続く茶色く岩と土で張り出した道になる。歩きやすそうではなかった。降りられないほど急というわけではなかったが、おそらく一度降りたら二度と昇ろうとは思えない、そんな道だった。
 植草はしばらく道を眺め、すっかり短くなった二本目のたばこを携帯灰皿に押しつけた。最後に起きる気配もない男をちらりと見るとそのまま身体の向きを変え、森へ向かい歩き始めた。




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