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溜息とともに積み重なった枯れ葉の隙間に見える土ばかりを目で追いながら歩き、塔野は切れたように突然視界に現れた陽光に目を上げた。いつの間にか永遠に続くかと思われた踏みわけ道は終わりを告げ、あの草原にたどり着いていた。顔を上げ、少し湿った森の風とは違う青臭さの交じった新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。大きく深呼吸を繰り返す。そのまま後ろ手に組んで、底の薄いミュールで草の感触を楽しむように、とつんとつんと足を出して歩き始めた。
涙はでなかったが、ぱんぱんに張っていた気持ちがほっと緩むのを感じた。イヤなことがあったのに、また思わず来てしまった。疲れているのかしらと塔野はぼんやり思い、疲れないはずがないわねと思い直した。
草原のフチが近づき視界の一部を巨大な木の枝が占め始めた頃、さくさくと立てる足下の音とは別の乾いた音に気付いた。巨大な木を伝ってそのまま視線を根元まで下ろし、そこで目が、あった。
音が止まった。塔野は思わず足を止め、乾いた音も動作と一緒に止まっていた。凪いだかのように風は止み、ひっきりなしに奏でられていた木の葉の合唱も止まったような気がした。まだ若い青年だった。飾り気のない綿のシャツにジーパンを履き、大振りの本を開いていた。乾いた音の正体はこれだろう。大木を背にし根に腰掛け、ゆがんだフレームの奥で少しだけ目を見開いていた。右頬の上部に、大きなガーゼを当てた顔で。
「あー!」
「え、あ、うわっ!」
唐突に思い当たり塔野は思い切り指さした。慌てたのか本を持つ手を振り上げバンザイに似た格好をした青年は、そのまま落ちた。ゴンといういい音が塔野にまで聞こえて、塔野は思わず目をしばたたく。
「だいじょうぶ?」
そっと青年をのぞき込んだ。十分に警戒して青年の手でも届かない位置を保ちながら。うまく根の間にはまってまったのか、しばらくうめきながらじたばた動かされた手足は、ようやく見つけたとっかかりを掴んだ。塔野には不思議に思えるほど不必要に勢いをつけて上体を引き上げた。……とはいえ、まだ尻は落ちたままで。
「だい、じょうぶ、です」
青年は不器用に身体をひねり突っぱね試行錯誤し、ようやく尻まで根の上に引き上げることができた。成り行きから一部始終を見守ることになった塔野は、手を下ろして溜息をついた。こんな鈍くさい男が痴漢なんてできるわけがない。次の駅で鉄道警察行きになるのが関の山だ。
「はぁ、びっくりした」
青年はのんきに塔野を見上げた。ゆがんだフレームの向こうの気の弱そうな目が、ほっとしたように細められた。見覚えのあるブチ模様のネコがひょいと現れ、苦労した青年とは対照的に軽々と音もさせずに根の上に飛び乗った。
平和な光景。平和すぎる光景。ここには似合いの、のんきすぎる絵。遠野の中で何かが音を立てて切れた。……昨日アタシはあれだけイヤな思いをしたのに。
「何よアンタ!」
「は?」
「は、じゃないわよ! 人に突然抱きついておいて、びっくりしたってなによ、びっくりしたのはこっちだわ!?」
「え、だって」
「だってってなに!? 言い訳のつもり? 言い訳が通るなら警察なんて要らないの。わかる!?」
「あの、そういう……」
「そういうつもりじゃないって言いたいの!? あのね、世の中全部結果なの。どう思ってたかなんて関係ないの」
「えぇと、僕は……」
「気持ちなんて、幾ら強くったって……」
塔野は言葉を切った。気持ちだけあっても通じないなんて、こんな痴漢に言いたい言葉ではない。
「あ、あのっ」
声は上の方から降ってきたようだった。立ち上がった青年が真剣そのものの顔で、塔野をのぞき込むように拳を握り力んでいた。
「何があったのか、わかりませんけど、飛び降りは良くないと、思います」
「飛び降り?」
きょとんと塔野は青年を見上げた。何を言っているのだろう。
「死んじゃったら終わりです。そういうのはよくありません」
「やだ、泣かないでよ。アタシがなんかしたみたいじゃない」
青年の目が見る間にじわりと潤んでいく。頬のガーゼで、ようやく何が言いたいのかわかった。昨日のアレは痴漢ではなく。
「止めようとしたの?」
涙を拭こうと必至に袖口で目元をこすりついでにガーゼを引っかけて痛みに僅かに顔をしかめながら一つ明確に頷いたのを見て、塔野は思わず笑みを零した。
気分がざらついてきたと感じれば、草原へ行くに限る。目をそらし始めた部下達と八つ当たりし始めた自分を感じ、思い切って席を立った。気持ちが静まりさえすれば、あと半日くらい仕事もせずにうるさいだけの女性社員にもつきあう自信はあった。そいつが満足に仕事をこなさないために、今日もいつも通り終電間際に駆け出すような残業になるとしても。
火を落とさないように気をつけながら、たばこはもう三本目だった。気持ちをどうにか落ち着けようと速いペースで消費しながら森を抜け草原に足を踏み入れたところで、植草は先客に気付いた。大木の作る木陰の中に見慣れた丸い背と知らない小さな背があった。丸い背は五月山のもの。小さな背は柔らかいベージュのスーツに包まれ、束ねられた長い髪がその下にまでかかっていて、まだ若そうな女だった。
植草の位置からは意味までは取れなかったが、ぽつりぽつりと何かを話しているように見えた。二つの背中を眺めながら四本目に取りかかり、大して悩むわけでもなく落ち着き場所を決めると変わらない足取りで歩き始めた。
「よう」
「あ、植草さん。こんにちは」
植草は五月山の右隣、木に寄りかかれる根を選んで腰掛けた。たばこの煙が流れる先で、五月山はいつもの通りに少し慌てたように振り向いた。五月山の向こうに座るどこにでもいそうなちゃらちゃらした女も。
「新人か?」
どこかで見た女だと思ったが、思い出せなかった。似たようなOLたちと混ざっているだけかもしれなかったし、どこかで本当に会っているのかもしれなかった。知り合いに会うとはとうてい思えない場所ではあったが、どちらでも別に興味はなかった。
「あ、はい、塔野優美さん、です」
「ふうん」
名前にも興味はなく、だから形ばかりの頷きを返して、木に深くもたれ遠くの山並みを眺めた。至上の一服を大きく吸い込み、高い空へ向けてゆっくりとはく。ささくれ立ち緊張していた神経が少しずつほぐれ始める。風と草と木の立てる音。それ以外何もなく、そしてまた不要なこの空間を植草は気に入っていた。
「ねぇ、アナタは?」
「植草さん、です」
「五月山くんには聞いてないわよ。ねーえ」
甘ったるい声は収まりかけた神経を逆撫でた。植草は無視を決め込んだ。
身を乗り出したのだろうか、少し近寄ったらしい声はやがて咳に変わった。
「あんまり機嫌よくないみたいです、そっとして……」
「アンタ! たばこっ!」
甘ったるい声がキンキン声に変わる。はっきりいって、喧しい。
「ここは禁煙エリアじゃないが?」
すっかり短くなったたばこを携帯灰皿に押しつけて、まだ足りないとばかりに五本目に取りかかった。元はチェーンスモーカーを自認する植草だ。一箱吸うぐらいでちょうどいい。
「違うけど、アンタにはマナーってモンがないの?」
きゃんきゃんわめく女だった。口だけ達者で仕事はしない、事務職のOLにありがちなタイプだった。日に何度、そんなOLたちを相手にしなければならないか。くわえてこの草原でまで。外では出来るだけ抑えるように心がけている渋面を、隠す気も取り繕うつもりもなく思い切り浮かべた。この女にどう思われても仕事にも生活にも職場関係にも関係ない。
「人にマナーをいう前に、やかましい口を閉じたらどうだ」
「やかましいって何よ。いいじゃない病人がいるわけでもなし!」
「不快だ」
甲高い脳に突き刺さるような声だと思った。二日酔いの朝に聞いたら、そのまま鼓膜をほじくり出したくなるだろう。素面の今でさえ耳を覆いたくなる。火をつけたたばこを思い切り吸い込むその一瞬だけ少し緩和された気がしたが、女の口は止まらなかった。今すぐつまみ出したい衝動に駆られならがら、かろうじて耐える。ここは植草の管理出来る場所ではなかった。おそらく他の誰も管理など出来ないだろう。
「何よ勝手言っちゃって、こっちは不快どころじゃないわよ。知らないの!? たばこの煙って吸ってる本人以外にも影響あるのよ!? 赤ちゃん出来なくなったらどうしてくれるつもり!?」
「イヤなら動けばいいだろう」
「あとから来といて、アンタ何様のつもりよ!」
カチンときた。早い者勝ちだとでもいいたいのだろうか。植草にとってのこの場所は静かで心安らぐ休憩所で、それを犯しているのは女自身ではないか。はくのに時間のかかりそうなややこしいサンダルなんてはき、少しでもシワがつけばきゃーきゃー騒ぐスーツを着、一旦手洗いに立てば30分は帰ってこない化粧をし、ややこしい仕事を見ると生理痛が酷いと逃げ出し、終わらなくとも残業なんてしやしない、責任感のカケラもなく自分の欲求だけを押しつけるそんなOLたちとどうせ同類なんだろうに。
「お前こそ何様のつもりだ? こんなところでのんきに仕事をさぼって、何食わぬ顔で定時には帰るんだろうが。まじめに稼いでいる男をすこしは敬おうとはおもわんのか」
「植草さん、それ、言い過ぎで……」
「うっわーなにそれ! 仕事してないって言いたいの!? しっつれーだわっ! アタシの事なんて知りもしないくせに決めつけないでよ! サボってんのはアンタも一緒じゃないの! どうぜ万年窓際族なんでしょ、こんな所に来てるんだから。それともアレかしら、奥さんに逃げられてヒマなんじゃないの!?」
植草は五本目のまだ七割以上残っているたばこを木の根になすりつけて消した。ゆらりと立ち上がる。堪忍袋の緒はこの一言で見事に切れた。
「小娘……!」
「あによ!?」
「植草さんっ!」
「どけ」
慌てて立ち上がったひょろりとしたのっぽはこづいただけでバランスを崩した。その向こうに、女のくせに刃向かうつもりか、下手なファイティングポーズをとる姿があった。やってやろうと、植草は一歩踏み出した。セクハラもパワハラも関係ない。感心にも女は逃げるそぶりもなく待ちかまえる。
「はん、最後は腕力ってわけね。さいってーっ!」
「言葉でわからんなら、これだろ」
一発殴れば大人しくなるだろう。女なんて、みんなそうだ。植草は手を振り上げた。
「まってくださ……」
ごき、と鈍い音を植草は聞いた。植草の対面で女も目を丸くしていた。植草の手は女に届かなかった。また、対抗して繰り出された女の拳も植草に触ってさえいない。
「五月山くん!?」
女が手を引くと、何か長いものがゆっくりと落ちていった。植草と女の手でかなり激しいサンドイッチになることになった頬が地面に向かう。メガネのフレームはさらにまたゆがんだようだった。
「……出来もせんことに首をつっこむからだ」
「れも、ここでそふいふのは、やめま、へん……?」
「ちょっとぉ、それだけ!? やーん、ごめんね五月山くんー!」
変わらずきゃんきゃん騒ぐ女の声を尻目に、植草はくるりと向きを変えた。こんな連中に付き合うのは時間の無駄だと足を進め、振り返ることなく森へと足を踏み入れた。
「何よあのオヤジ、感じ悪い! べーだ」
自分だって手を挙げた一人だろうに五月山の事などただの一回も振り返らずに歩き去った背中に、塔野は思い切りあかんべをかました。埃一つないスーツに、シワ一つないシャツ。今朝も磨いてきましたと言わんばかりのぴっかぴかの靴に、さぞや仕事もおできになるんでしょうねと心の中で呟いた。
「植草さん、今日は機嫌が悪かったみたいです。いつもはあんなじゃないんですけど。塔野さんも、言い過ぎです」
「あれじゃぁ言い返したくなるでしょう!?」
言い訳というより主張だった。塔野は可愛いだけの女でいるつもりはさらさらない。仕事だってちゃんと成果を上げている。いずれ結婚退職をもくろみ、家でのんきに笑っていればダンナは迷わず帰ってくると信じているようなお気楽後気楽な専業主婦を夢見る女の子達と一緒にされたくはなかった。
憤慨しながら振り返った塔野の視線の先で、五月山は腫れ始めた頬を気にしながら困ったような顔をしていた。すっかり落ち着かなくなったメガネが、頼りなさを倍増させていた。
「言い方が、あったんじゃないですか?」
「甘いわ。馬鹿にされてたのよ。アナタだって視界に入ってなかったじゃないの。あーもー、ごめんね。冷やすモノがあればいいんだけど……」
手持ちのものはハンカチとテッシュくらい。水道も水場ないから、ぬらすことも出来ない。
「僕は、平気です。それより、塔野さんも時間大丈夫ですか?」
「あらほんと。いつの間にこんなに傾いたのかしら」
慌てて空を仰いだ塔野の上で、太陽は昼間というより夕方に近い位置へ移動していた。ついさっきまで真上にあったと思っていたのに。
「送ります。帰りましょ」
大丈夫といいつつ、しっかり塔野の手を借りて立ち上がった五月山を送られるというより、送る気持ちで歩き始めた。背があわなすぎて肩も貸せない。
「今日は練習、できなかったなぁ」
結局五月山には自力で歩いてもらうしかなかった。寄り添うように立ち、森へ、その向こうへと向かう。
「練習?」
「バドミントン、練習してるんです。植草さんが、スポーツくらいしろって、持ってきてくれたんです」
ゴルフばかりで『ゴルフ焼け』を作っていそうなオヤジの姿を思い浮かべた。あまりバドミントンという気はしない。家庭用のおもちゃのバドミントンセットだろうか。……子供と遊ぶ姿なんて、カケラも想像できなかった。
「僕があまりにもどんくさいから、見かねたみたいで」
塔野は苦笑するしかなかった。偏見かも知れなかったが、あの男の見解は間違ってはいまい。
「次来たら、あいてしたげる。一人でやるよりきっと楽しいわ」
「本当?」
「ほんとよ。まかして。運動だって自信あるのよ」
さくさくとした足音が、風に浚われるように聞こえなくなった。二人を見送るように木の根に座りしっぽを左右に緩く揺らしていたネコは、強い風が一つ吹くと、すくりと四つ足で立ち上がった。音もなく地面に降りフチへと向かって歩き始める。フチについたネコは考えるでも迷うでもなくすとんと崖下へ身をおどらせた。
草原は完全に無人になった。