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草原に一歩踏みだし、植草は辺りを見回した。喧しい女の姿はなく五月山の姿も見えなかった。最も、文句も言わない五月山が木の上から眺めていようと植草は一向に気にしなかったが。ほっとしてたばこをくわえると、火をつけ風向きを見ながら歩き始めた。女に生意気なことを言われてカチンと来てはいたが、マナー違反は間違いなく、頭が冷えてから反省した。たばこをやめる気は毛頭なかったが、風下を選ぶくらいはすべきかと思い直していた。
草原のフチから見える光景はいつもと変わりなく、空もどこまでも高かった。一歩足を踏み出しさえすれば、あとは重力に引かれるままに苦もなく先へ進めるだろうと感じていた。たった一歩。僅か数センチ。しかし、踏み出してはいけないのだと、いつも理性がブレーキをかけた。植草にはまだ仕事がある。帰ってやらなければならないことが残っている。踏み出すわけにはいかない。
「五月山くーん! ちょっときいてよぅ〜っ」
喧しい声は唐突に生まれた。ほんの少し振り返ると、満面の笑みにリズムをつけて振り回す手に器用にも高いヒールでスキップを踏む足と、全身で上機嫌さを表している塔野が一直線に木を目指していた。
「五月山くん、いないのー?」
大木の周りをぐるりと一周し五月山を見つけられなかったらしい塔野は最後になって植草に目を止めた。植草は慌てて反らしたが、塔野のターゲットはすでに定まってしまったらしかった。
「あーら、社長、コンニチワ」
「社長じゃない。課長だ」
「今日は風下なのね。ちょっとは聞いてくれたのかしら」
無言で植草は応えた。謝るのは癪だったし、適当な言葉が見つからなかった。ただ、たばこの煙をゆっくりと風下に向かってはいた。
「手上げるのも考え物よ? 考えたり非難したりする前に怖くなっちゃうもの。……アタシもカチンときて、売り言葉を買っちゃったのが良くないんだけどね。酷いこと言っちゃったし、それはごめんなさい。けど、たばこの事は謝るつもりないし、アタシのこと馬鹿にしたのは取り消してもらいたいわね。のんきに仕事をさぼって何食わぬ顔で定時に帰れるほど甘い仕事してるつもりはないの。それと五月山くんにも謝るのよ。アタシとアンタと同罪。いい?」
植草は渋い顔をしながらも、おざなりに頷きをかえした。認めたくはなかったが、塔野の言うことはそれなりにもっともで、頭の冷えた今なら頷かないわけにはいかなかった。
「……なんだ、もっとがちがち石頭のオヤジかと思ってた」
声のトーンが変わったように感じて、植草はまたほんの少し目の端でだけ塔野を振り返った。念入りに仕上げた化粧の奥で、二重のぱっちりした瞳が柔らかく微笑んでいた。
「いいことって続くんだわ。ね、植草さんもそう思わない?」
植草は山へ視線を戻した。多分、塔野にはこれ以上ないほど良いことがあったのだろうが、別に興味はなく、聞く気もなかった。もっとも勝手に話されれば耳を塞ぐことはできなかったが。
「いいことあったんですか?」
「五月山くん!?」
声は斜め上方から降ってきた。出所に心当たりのあった植草は、さして驚くほどもなく慌てて振り返ることもなかった。塔野はまだ慣れていないのだろう。驚いたらしい声が、遠くなる。
がさがさと枝が揺れ、どすんとあまりスマートではない音が聞こえた。おおかた枝の上で昼寝でもしていたのだろう。植草が草原に来始めてからこの方五月山がいなかったことはなく、姿が見えないときは大抵ようやく昇ることが出来る範囲の枝の上でぼんやりとしていた。どうやって昇っているかは知らないが、降りるときはいつも着地に失敗していた。……進歩がない。
「だいじょうぶー?」
「大丈夫です。やだな、こんなとこ見られちゃって」
「今更ちょっとくらい情けなくたって気にしないわよ。ねー、ちょっと聞いてよぅ。彼と旅行いけることになったのよーっ!」
ばんばん叩く音が聞こえた。気付かれないようそっと植草は振り返る。困ったように叩かれるがままになっている五月山の情けなさそうな、けれどどこか喜んでいる風の複雑そうな顔が見えた。結局ヤツは大人しいだけのお人好しなのだ。されるがまま使われるだけ使われて、あとには何も残らない。
「それは良かったですね」
「旅行って言っても、一緒に出張するだけなんだけどね。仕事頑張ったカイがあったわ! アタシのプランが通って、お客さんの所に説明に行くの。彼も責任者で一緒なの。非の打ち所もないほど、完璧な旅行だと思わない!?」
「やりましたね」
「やったわよぅ。たった一泊だけど、こんなに堂々とできるなんて、もう、幸せ! ねー、お酒ない? 飲みたい気分なのよぅ」
浮かれまくった塔野はちょっとだけ困った風な五月山などおかまいなしで話し続けた。どこか引っかかる言葉の連続に植草はあからさまに振り向いていた。植草自身に経験はなかったが、そんな話も聞いたことがないわけではなかった。
「ありますけど、お仕事大丈夫ですか?」
「堅いこと言わないっ! ねー、植草さんも飲まない!? 飲みましょうよう。みんなで飲んだ方が楽しいわぁ」
「……断る」
茶番だと、思った。植草はたばこを消して吸い殻をしまうと、遠くの山々を背にして歩き始めた。
「もう帰っちゃうのー?」
そんなことをしでかす男も一時の幸福にはしゃぐ女もわかっていても何も言わないヘタレも、全て茶番に思えた。植草には仕事があった。残業決定の重要な仕事だった。帰宅は深夜、日付が変わる頃になるかも知れない。そんな茶番に付き合うヒマなどどこにもない。
塔野の声が聞こえても、植草は振り返らなかった。
「付き合い悪いのー」
どこから出したのかしっかり冷えている缶チューハイで乾杯した。缶ビール、缶チューハイの一杯ぐらい、どうってことないだろうにと塔野は思う。基本的に付き合いが悪い。
「あれは飲み会行っても、一次会が終わりさえすればとっとと帰っちゃうタイプよね。付き合いだけというか。それとも、会費だけ払ってすっぽかすタイプかしら」
落ち着いた金色の外観の至上の甘露を大事に抱えてけれど一気にあおった。さして強いわけでもないアルコールが口の中に広がりはずむような発泡の感触と共に喉を潤し胃まで落ちる。幸福な時に飲む幸福な味はふわふわとした夢見心地を連れてきた。
「ここに来る人はみんな忙しかったり、逆に僕みたいにずーとヒマだったり、塔野さんみたいに誰かに愚痴を言いたくて仕方がなかったりって人ばかりで、植草さんもずーっとずーっと忙しんだと思います」
「やだぁ、アタシ愚痴言いに来てるのー? アタリかも」
うっすらと頬を上気させて、けらけらと塔野は声を立てて笑った。まだ一缶しか開けていないのに、もうワインを半ボトルくらい空けてしまったような心地だった。心おきなく酔って誰を気にするでもなく言いたいことを言ってそのままつぶれて寝てしまうなんて、もう何年していないか。
「愚痴なんてさー。聞いてくれる人いないんだもーん。一人暮らしだし、会社の人には変なこと言えないじゃない? 今日だってさー。すっごく嬉しかったの。ものすごっく大騒ぎしたかったの。でもさ、やっぱりばれちゃまずいワケだからさ、一生懸命なんでもないフリしたワケよー。わかるぅ?」
ばんばん手近な背中を思い切り叩いた。何枚も顔に当てられたガーゼを見るまでもなくもはや遠慮も手加減も要らない相手で、周囲の目を気にする必要もなかった。
「塔野さん、酔うの早いです」
「えー、そんなことないよぅ」
多分、酔いたい気分なのだ。だからこんなに早く酔ってしまった。ついでに暴れたいわと塔野は腰を上げた。手から離れた缶がさらさらと草の上を転がった。
「五月山! ラケットどこ? バドミントンやろう」
「えー!?」
「問答無用だぁ!」
困ったような五月山の顔が楽しかった。引っ張り出させたラケットを何度も振り空気を切る感触を楽しんだ。思いついて上着を脱ぎ、思い切ってミュールを脱いだ。すっかり軽くなってさらに大きくラケットを振って、今度は思った通りのゴムのシャトルを大きく構えた。
「いくわよぅ!」
すぱんと心地よい音を響かせ、大きく高くシャトルが飛んだ。
「そりゃ、動けば酔いも回りますって」
すっかりこの上もなく幸せそうに寝入ってしまった塔野を五月山は軽い溜息と共に見下ろした。運動は得意と言うだけあって、酔っていてさえ五月山のへなちょこな球をきちんと拾っていた。返せなかったのはむしろ五月山の方だった。
五月山は塔野が握ったままのラケットを指を開いて回収し、自分の使っていた方と合わせてカバンにしまった。ゴム製の一つしかないシャトルも大切にしまい込む。そして飲んだまま転がっていた缶を拾った。
「酔っぱらうもんなんだなぁ」
赤字に白くロゴの入った炭酸飲料缶から、人工的な甘い香りがぷんと届いた。当然アルコールなど入っていないそれを手に取り、ラケットなどと同様にカバンの中に放り込んだ。同じラベルの飲み残しを拾い上げ、気の抜けかけた甘いだけの液体となったそれを一息にあおる。五月山の視線の先にある太陽はまだ高かったが、最後の一滴まで飲み干し同じようにカバンに入れると、塔野を起こしにかかった。
「塔野さん、そろそろ帰らないとダメですよ」
「……もうちょっと……」
「夜になっちゃいます。……送っていきますから、帰りましょう」
「……水……」
「はいはい」
うっすらと目を開けた塔野に上着と水とミュールを渡した。塔野はぼんやりとした顔のままそれらを受け取ると、まず水をあおりミュールをはきくしゃみ一つして上着に袖を通した。ぼんやりとしたまま頭をゆっくり廻らせると、遠い山で目を留めた。
「ほら、帰りましょう?」
「ねぇ、五月山ぁ」
「はい?」
「アンタ、あっち行ったことある?」
塔野の腕を取って立たせると、よろけながらも逆らいもせずに立ち上がった。ヒールの高い靴はいかにも危なげだったが、塔野は案外平気そうだった。
「ありません」
すっかり立ち上がると五月山の手を離れ、ほんの少し千鳥がかった足取りで塔野はフチへ向かった。山が全て見えれば満足なのか際まで行かずに立ち止まると、急速に傾きを増した陽光で金色にデコレーションされた遠い山を見晴るかした。
「森越えて、あの山越えたら何があるんだろうねぇ」
「あんな所まで行ったら、帰ってこれなくなっちゃいますよ」
「それは困るなぁ。ダーリンに会えなくなっちゃう」
くすくすと塔野は笑い、こんどはくるりと振り向いた。
踊るような足取りで五月山に近寄ると、その腕にぶら下がるようにしがみつく。
「五月山は帰って何すんのぉ? 彼女でも待ってるとか?」
「え」
五月山は無邪気に見上げてくる塔野の視線から逃げるように顔を反らした。塔野がしがみつく腕とは反対の肩でカバンを背負い、ゆっくり歩き始める。
「……か、帰ってご飯食べて寝るんですよ」
「つまんなーい。若者、そんな青春だめだぞー!」
「昼間から酔っぱらう社会人もどうかと思うんですが……」
「うるっさーい!」
上機嫌の塔野の声はしばらく草原を騒がし、やがてそれも途絶えた。
すっかり赤く染まった草原を夜の風が吹き抜けた。