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Good-by,Go Home(奇妙なピクニック)



−4−

 わざわざここへ持ち込むために用意した紙袋をしっかりと抱え、すっかりご無沙汰だった落ち葉の道を駆け抜けた。突然現れた緑の絨毯は変わり始めた外の季節から取り残されたように変わりなく、塔野をほっとさせた。この草原に枯れ色は似合わない。
 森の出口で立ち止まり弾んだ息を整えるついでにぐるりと草原を見回すと、探した姿の一つはフチの側に上着を放りだして座り込んでいた。漂う煙は相変わらずだ。もう一つは見つからなかったがまた枝の上にでもいるのだろうと、袋を抱え直して再び塔野は歩き始めた。
「うっえくっささーん! おひさーっ!」
 フチ側の人影は首だけ僅かに動かしまたすぐに戻してしまった。面倒くさがりだなと苦笑し植草にもほど近い木の下を選んで袋を置くと、少しだけ目を細めながら頭上を見上げた。幾重にも重なる枝と葉の隙間からこぼれる陽光がきらきらとまぶしい。
「五月山くーん、降りといでよー」
 がさがさと不自然に枝がなったのを聞き届け、塔野は面倒くさがりで無愛想な男の元へ軽い気持ちで近寄ろうとしておやと足を止めた。投げ出された上着に張りはなく、あちこちにシワをこさえたシャツの襟口袖口にはきっちり脂がつき染みになろうとしていた。草の隙間から見え隠れする革靴も、グロスの上に埃をかぶりなんだかすすけて見えている。
「やだ、へろへろじゃない?」
 応えない植草をひょいと塔野はのぞき込んだ。あまり良いとは言えない顔色に心なしかやつれた頬。顔色に紛れて目立ちにくいが目のしたには隈もでき、整髪料からもれた髪が数本ほつれたように飛び出していた。無精髭こそなかったが。
「……邪魔だ」
「なんかさ、すごく疲れてない?」
 埃一つないスーツに、シワ一つないシャツ。今朝も磨いてきましたと言わんばかりのぴっかぴかの靴だったのは、たった数週間前のことだ。リリース間近の開発室に一週間ほど閉じこめられたと言われても信じられた。植草の本職など知らなかったが。
「忙しいんだ」
 吸っていたたばこをもみ消し重そうに腰を上げた。上着を文字通りつかみ取り、塔野の目から逃げるように木の下の風が通る場所へ移動する。腰を下ろして腕を頭の後ろで組んで寄りかかり、取った姿勢は居眠りの体勢。
「帰れないほど忙しいの? 課長さんだったわよね、部下もみんなそうなの?」
 目で追うついでに塔野も向きを変えた。見下ろす先ですっかり体勢を落ち着かせた植草は、目を閉じ応えなかった。やれやれと塔野は肩をすくめる。疲れていても態度は相変わらずだった。……疲れているから、余計だろうか。
 がさごそと枝の立てる音がひときわ大きくなると、見上げた塔野の目の前で長細い影が落ちてきた。植草のすぐ脇でどたんと変わらぬスマートではない音を立てながらも、地面にあるのは二本の足の裏だけだった。
「あ、ごめんなさい」
「お前……」
「五月山君! ちゃんと着地出来たじゃない!」
「塔野さん、お久しぶりです。植草さん、こんにちは。……毎日ですからね、ちょっとは上達しないと」
 いつも盛大に砂埃を舞い上げる青年はほんの少し頬をほころばせて、見上げる植草と本人以上に喜ぶ塔野を見返した。メガネのフレームもいつの間にか直されていて、頼りなさはずいぶん改善されたように見えた。
「上達してるじゃない。頑張ってるのねっ。ね?」
「頑張ってるってほどじゃぁ」
 ほらと確認するようにのぞき込んだ塔野の視線に気付いてか、植草は慌てたように目を閉じた。堅く目を閉じ心なしか横を向き、驚いたけれど結局どうでも良いことだと態度で言っているように思えた。塔野はむっと口を閉ざすと、五月山を見もせずにまっすぐに手のひらをさし出した。
「コーヒーない? あっついヤツ」
「ありますよ。ブラック? カフェオレ?」
「ブラック二本」
「二本?」
「二本」
 間違いないと返しながら塔野は植草を見ていた。我関せずと今度は狸寝入りだ。……寝るだけならどこでも出来る。草原でなくたって。
 いつものカバンからタオルと一緒に取り出された缶コーヒーは、自販機から出されたばかりのように熱かった。素手でもてずにタオルごと受け取り自ら大切に持ってきた袋の中から適当なひとつを掴み取ると、塔野は植草の横にしゃがみ込んだ。
「うーえーくーさーさん! はい」
 素手でもてない缶ジュースの側面を、ためらいもなく植草の頬に押し当てる。
「……あっつ……何するんだ!」
 案の定飛び起きた植草に、塔野は悪気などつゆほども浮かべずにっこりと微笑んだ。
「休むのって、寝るだけじゃないと思うの。マーライオンクッキー、食べない?」
「いらん!」
「折角買ってきたのに」
「ほっとけ」
 植草は逃げるように根を変え、塔野の手が届かない場所へ移動した。取るのは再び居眠りの体勢。もうと塔野は溜息をついた。寝さえすれば全て回復すると信じているのだろうか。
「五月山君。ラケットとって」
「はい?」
 がさごそと勝手に袋を漁っていたらしい気配が遠ざかり、すぐにぬっと塔野の前にラケットが二本突き出された。一本だけを取り五月山の腕を掴んで、植草の側へ回り込む。つかみ取った一本をぐいと植草へ押しつけた。
「オジサン、勝負しましょ」
「……今度はなんだ」
 頬にラケットが押しつけられた状態では、さすがに無視は出来ないようだった。思いきりの渋面でラケットと塔野を見比べる。
「デスクワークで全然動いてないんじゃない? バドミントン」
「勝手にやれ」
「あら、勝負受けないの? アタシ達の不戦勝で良い?」
「達?」
「受けない勝負に勝ち負けもないだろう」
「アタシは勝負を売ってるの」
「買えと?」
「男でしょ?」
 むっと顔をしかめて植草はラケットを取った。立ち上がって袖をまくるとラケットの重さを確かめるように空振りを始める。やる気じゃないのと、にんまり塔野は笑った。
「塔野さん、ラケット」
 後ろからもう一本のラケットが突き出された。きょとんと塔野はそのまま振り向く。
「アタシ達って言ったでしょ?」
「はい」
「いってらっしゃい」
「え」
 にっこりと塔野は微笑むと、ラケットを受け取らないまま五月山を押し出した。慌ててたたらを踏む先には、しっかりむかついたおかげでやる気十分といった様子の植草の姿があった。うろんげに植草の視線が五月山へと向けられる。
「一回戦、植草さん対五月山君〜!」
「おい、お前じゃないのか? 五月山じゃぁ……」
「塔野さんっ」
「はい、問答無用。五月山君とアタシに勝ったら、優美ちゃんのキスと上げましょう」
「いらんっ! それに二人だと!?」
「やーね、ハンデよハンデ!」
 にまにまと塔野は続ける。二人の男が文句を言おうと一向に聞く気はなかった。両腕ともグーを握り、肩の前に待機させる。
「1ゲーム、十五点ね。審判はアタシ。ラブ・オール、プレイ」
「くそ」
「あ、お願いしますっ」
 渋面が張り付いてしまったような植草のサーブから試合は始まった。

 こんなハズはないと言い聞かせても、状況が変わるわけもなかった。汗は滝のように流れ、拭っても拭ってもまた吹き出した。じゃまくさいYシャツなどとうに脱ぎ捨てていた。草原で滑るばかりの革靴も草の中にぽとんぽとんと落ちていた。
 なのにまた、植草の頭上を軽々と羽根が過ぎていく。
「やるじゃない、五月山! 十四対十三。五月山のマッチポイント!」
 ふざけたゲームだった。草原にコートは描けない。塔野の前を過ぎさえすれば、有効と見なされた。まっとうな位置に返してしまう植草と違って、どうにか拾える程度の五月山の羽根は一体どこに飛んでいくのか見当もつかない。それでも、ラケットを持ってきた当時と比べると、格段に上達していると言えた。
 しばらくの間、練習していたらしいことは知っていた。塔野がそれに付き合っていたことも。それでもと植草は思い、男の意地でサーブした。羽根はうまいこと五月山の左前方に落ちていく。……バックハンドが下手なことはすでにわかっていた。
「あ、お、とっ」
 五月山も懸命に見えた。汗だくなのは向こうも同じで、加えてかなりへろへろし始めていた。ひょろ長い体格で、スタミナがありそうには見えない。自他共に認める運動音痴ではあったが、審判兼点数番の『手ぇ抜くなよ』という無言のプレッシャーに実力以上の力を出すしかないようだった。まったく、迷惑きわまりない。
「といっ」
「あっ」
 良くわからないかけ声とともに、奇跡のようにバックハンドとなったガットに羽根があたってしまった。振られることなく跳ね返った羽根は、放物線を描いて塔野の前を通過した。慌てて走った植草のすぐ前で、ほとんど跳ねずにぽとりと落ちた。
「十五対十三!」
 ネットがあったなら絶対に取られなかった一点も、この勝負では有効だ。植草は五月山に敗北した。
「五月山君の勝ちー! ふっふー。口ほどにもないわね! 五月山君、お疲れっ」
 高らかに宣言した塔野がそのままラケットをもぎ取ると、替わりに免罪符を与えられた五月山は倒れ込むようにその場を離れた。
「アタシに勝ったらキスだからね。アタシにまで負けたら、一つだけ言うこと聞く。OK?」
「キスなんざいらん。俺が勝ったら、俺の言うことを聞いてもらおう。どうだ」
「キス以上はイヤ……」
「馬鹿が」
 ラケットを抱いて恥じらってみせる塔野にとってもじゃないが付き合ってなどいられないと、植草は羽根を構えて間髪いれずにサーブした。綺麗な弧を描いて羽根は塔野の前へ向かう。お手並み拝見といったところだった。
「うわっ。やだっ」
 慌てて体勢を整えながらも高いヒールの足をタイトスカートの中で器用に動かし、すっと出したガットの中央に羽根をあてた。五月山ほど反則には見えない高さに返される。はっきり言って、うまい。
 睡眠時間も少なく五月山と一戦交えたあとの植草と、やる気十分で体力温存していた塔野では、勝負は初めから決まっていたようなものだった。
 幾度かのラリーの末、点数番などなくても問題がないほどあっさりと植草は敗北した。足を持ち上げることもおっくうになっていた植草とは対照的に、塔野は最後までミュールを脱いだりはしなかった。軽く上がった息のまま、大の字に寝ころぶ植草を見下ろした。
「……なんだ」
「気持ちいいでしょ。久しぶりなんじゃないの、身体動かすのって」
「……そうだな」
 すっと塔野は腰を落とし、汗を拭う気も起きない植草を真上からのぞき込んだ。
「じっとしてたらイライラもたまっちゃうもの。仕事してるとなかなか運動なんて出来ないしね」
「まぁな」
「……五月山君もね、一生懸命練習してたんだよ」
「あぁ」
 そうらしいなと素直に認めた。出来ないヤツは幾らやっても出来ないものだと、頭のどこかで思っていた。それがいま、ひっくり返された気分だった。
「植草さんてさ、子供いるの?」
「なんだ、突然」
「ねー、いるの?」
「……上が小学校三年だ」
「ふうん」
 自分で聞いたくせに対して気のなさそうな返事を返した塔野は、遙か遠くを見つめていた。植草は地面に手をつき、上体を持ち上げる。遠野の視線の先には、黄金に輝き始めた山があった。
 植草の視線に気付いたのか、ぱっと塔野は振り返った。にんまりとこれ以上楽しいことはないとでも言いたそうに笑む。
「一つだけ聞くって約束だったわよね?」
「……あぁ」
 面白くはなかったが、約束は約束だった。ごまかすほど落ちぶれてはいないつもりだ。何を言われるのだろうか。禁煙だろうか。
「奥さん、迎えに行ってあげること。会社休んでも」
「な……」
 息が止まった。……なぜそれを知っているのか。
「あたったみたいね」
 とんと勢いをつけて塔野は立ち上がった。未だ倒れたままの五月山の方へ向かう。すっかり冷えたコーヒー缶でぴたぴたと頬を叩いた。
「お前は……!」
「ん?」
 思わず声をかけてから、植草は言いよどんだ。目をそらし逡巡して、しっかりと塔野をみつめる。
「お前は続けるのか。それも、仕事なんだろう?」
 塔野の表情は、逆光で良くわからなかった。




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