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Good-by,Go Home(奇妙なピクニック)



−5−

 スパンといい音で返された羽根は植草の遙か頭上を過ぎ、森の中へ吸い込まれていった。振り抜いた姿勢で羽根の行方を見守っていたジャージ姿の塔野は、汚れることなどカケラも気にせず放心したように腰を落とした。
「渾身のスマッシュがぁ〜」
「お前のは暴発だろうが!」
「探してきますー」
 植草のマッチポイントだった。今の暴発で勝負は決まった。塔野の目は恨めしそうに森へ分け入る五月山を追っていた。
「手首を使え、手首を」
「わかってるけどー」
 植草は投げ出しておいたタオルと脱ぎ捨てたYシャツを拾い上げ、木の下へ向かった。Yシャツの胸ポケットにはボールペンしか刺さっておらず、置きっぱなしの缶コーヒーを手に取りプルタブを引き開けると、コーヒーの香ばしい香りを胸一杯に吸い込んだ。
「飲むだろ?」
 味見の傍らもう一つ掴むと無造作に放り投げた。へたり込んでいた塔野が掴むのを見て、そのままフチまで歩いていく。崖下からの風は強く、上気した頬に浮かんだ汗はあっという間に乾いていった。気持ちの良さを通り越して寒気すら覚えるほど。今日も空は高く山は青みがかって見えるほどに、遠い。
 絵のようなその光景を植草は刻み込むように見つめた。山の彼方への未練はあるものの、それを見ることはないのだと心のどこかで納得し、ほっとしてさえいた。多分、自分には必要ないのだから。
「あ、ネコー」
 塔野の声とともに、みゃうというあどけない声が足下から聞こえた。音もなく獣道から上がってきたらしい猫が、のんびりと毛繕いを始めていた。ふと思いつき植草は腰を落とすと、ネコを引き寄せ毛がつくことも構わずにそのままヒザに乗せてみた。
「取られた」
 のそのそと寄ってきて、塔野はぼそりと呟いた。植草はにやりと笑ってみせた。
「早いモン勝ちだ」
「えー。ネコにも選ぶ権利はあるよねぇ?」
 頭をつつかれ居心地を確かめていたネコは一瞬動きを止めて、つついた塔野をじっと見据えた。あたかも、邪魔しないでよと言うかのごとく。そして手が離れると何ごともなかったかのように落ち着く場所を決めにかかった。すぐに丸まり目を閉じる。
「振られたな」
「む。……ふん。ネコなんてしらないもん!」
 ふてくされる塔野が面白くて、植草は思わず声を出して笑った。塔野はぷいと横を向き、缶コーヒーを一息にあおった。……さらにふてくされたようだった。
 ヒザのネコは大人しく、そして風に冷やされた身体に暖かく心地よかった。こんなに穏やかな毎日がもう随分と続いていた。永遠に続けても良いかもしれないと錯覚してしまうほどに。
「……名前、なんて言うんだったかな」
 あまり綺麗なネコではなかったが、白黒のブチの毛並みは悪くなかった。手入れが行き届いたすべすべの感触ではなかったが、日だまりで転がる子供の頭のようだと植草は思う。健康な日だまりのような手触り。
「名前、ないんです。羽根見つかりましたよ」
 さくさくと近づいてきた足音が応えた。軽くラケットがふれあう音がし、足音は植草の隣に並んで止まった。カルピスウォーターを片手に、五月山がネコをのぞき込んでいた。
「こいつ、いろんな場所でいろんな名前で呼ばれているっぽいんです。いっぱい名前があるなら、いっそなくても良いかなって」
 五月山が頭を指でつつくと、ネコは目を閉じたままあごを上げた。
「……こいつにとってはどうでも良いのかもしれないな」
「気ままよね。……いっそアタシもネコだったら良かったのに」
 飲み終わった缶を転がしヒザを抱えて、塔野は呟くように言った。ねたむでもなくぼんやりとネコを視界に入れていた。
「ネコなら余計、相手にはされまい?」
「……ついていけるかもしれないもの。誰も気にせず甘えられるわ」
 塔野は視線を遠くへ投げた。遙か深緑の絨毯を越え、青みがかる山脈の向こう側へと。
「お前、まだ……」
「転勤、決まったの。シンガポールよ。五年の予定で……家族を連れて行くんだって」
「長いな」
「仕事、引き継ぐことになったのよ。……馬鹿みたい」
「……そうか」
 植草は気持ちよさそうに目を閉じるネコに視線を落とした。さして大きくもないネコのすっぽりと手のひらに収まりそうな背を、なるべく優しくなで続けた。ぱちんと雰囲気違いな音に僅かに顔を反らすと、神妙な顔をした五月山がカルピスウォータのタブをあけ、味もしなさそうな顔ですすっていた。
「……ネコなら、連れて行ってくれたかもしれないもの……」
 消え入りそうな塔野の声は、ヒザのネコには風ほどの影響も共感も与えていないようだった。すやすやと寝息すら聞こえそうで。
「どうかな」
「え?」
 植草はネコに視線を落としたまま言葉を並べた。考えて選んだというより、浮かんだ言葉をそのまま音にしたようだった。
「お前さんがネコなら、逆なんじゃないか? こいつらは案外薄情で淡泊で、割り切ってる。名前なんかなくたって、かわいがられればそれで良いんだろう。それがだれでも」
 撫でる手を止め頭を軽く叩いた。叩いた手を見上げたネコは、ひょいと起きあがると未練も何もないかのようにヒザを降りた。少し離れた草の中に座り込み丁寧に毛を繕い始める。
「ねこー」
 のばした五月山の手は掴むにはほんの僅か届かなかった。あたった感触に機嫌を害したのか、再びネコは歩いていく。
「どっちでもあんまりかわんないかもしれないわね」
 くすくすと塔野は笑った。
「どうせ、捨てられちゃったんだから」
 笑いには自嘲が交じっていた。
「今度、温泉でも行かんか」
「は?」
「え?」
「あ、いや、変な意味はないんだ」
 左右から塔野と五月山に凝視され、植草は慌てた。ぽろりと言ってしまった自分にも、慌てていた。どこを見て良いのかわからず、ズボンについたネコの毛を一本一本とってみる。……ズボンはネコの毛だらけだった。
「そういうときは気分を思い切り変えたら良いと、思っただけだ。ここは良い場所だが……」
「違う場所、か。いいわね。そう、か」
 ヒザを離し塔野は大空を仰ぎ見た。今にもその大きな瞳から涙がこぼれやしないかと、植草は内心はらはらした。
「僕は……」
「もちろん平日で、奥さん達も一緒よね?」
 塔野は泣いてはいなかった。けれど、ほんの少し潤んでいるように見えたのは、植草の気のせいだっただろうか。
「……不倫だと思われたら困るからな。贅沢な家族旅行だ」
 もちろんだと、植草は頷いた。頷いて、頷ける自分が可笑しくて、俯き一人嗤ってしまった。
「五月山君も来るわよね? 家族持ちの前で一人なんて寂しすぎるわ」
「え、あ……塔野さんがそういうなら」
「決まりね。……はい。アタシの連絡先」
「おう……ん?」
 受け取ろうと手を出した植草を過ぎて、塔野の手は五月山へと伸びていた。何かをたくらむように塔野の顔は笑んでいた。
「植草さんも。五月山君に渡して」
「あ、あぁ」
 厚ぼったい上着をコートの下からを引き出し、内ポケットから一枚の名刺を取り出した。新調したばかりの静電気で一枚一枚が張り付いた名刺をはがして渡した。渡された五月山は、よくわからないとでも言うように、二人の名刺を見比べていた。
「もう、いかないとね。だいぶ日も傾いちゃったわ」
 塔野は大きくのびをした。まだ強がっているように見えたが、植草は何も言わなかった。塔野だってわかってる。考えている。もはや植草が口を出すような事ではない。
「そうだな。……帰るか」
 すっかり引いた汗に、植草はYシャツをとった。手早くボタンをしネクタイをつけ、上着を羽織る。外用に持ち込んだコートまでは着る気になれず片手に抱えた。少しよれたシャツに、どこかくたびれたスーツ。クリーニングから上がってきたときのような潔癖さは欠けていたが、しっくり馴染む着心地だった。そうしている間にも、どんどんと日は傾いていく。
「塔野、お前着替えは?」
「植草さんが帰ったら、こっそり着替えるわよ。早く行って頂戴」
「そうか。……五月山」
「はい?」
「……ここ、な」
 植草は言葉を切った。決めたことであるのにまだ迷う。無意識に胸ポケットへ手を這わせ、探したモノがないことで決心を固めた。夕日に照らされた五月山のまだ頼りないその顔を正面から見る。
「もう来ないと思う。……部下も増えてまたすこし忙しくなるんだ。だから……」
 最後ににやりと植草は笑った。
「お前の連絡を待ってる」
 応えない五月山をあとに、植草は森へ入っていった。

「かっこつけちゃって」
 植草を見送ると、塔野は木の陰で着替え始めた。少しつらいかしらと思いつつ、けれどもと思い直す。細いタイトスカートと、かかとの高いミュールは、今までもこれからも塔野の戦闘服だった。
「植草さん、もう来ないんでしょうか……」
 どこか遠く五月山は呟いた。そうねと塔野は呟くように返した。
「言い切ったんだもの。……アタシは賛成」
「え」
 着替え終わって簡単にメイクを直した塔野は、ジャージもカバンにしまい込みすっかり支度を終えた。もう太陽は地面すれすれになっていた。……森も山もなにもかも、燃えるように赤い。
「支度終わったんですね。じゃぁ、帰りましょう。途中まで送ります」
 にっこりといつもの笑みで近づいた五月山は、すっかりふくれてしまった塔野のカバンを持とうとした。いつもは甘える塔野だったが、この日は僅かにカバンを引いてそれを拒否した。
「塔野さん?」
「五月山、アンタの連絡、待ってるから」
「え、そりゃ、しますよ」
 塔野は少しずつ、ミュールを滑らせるように移動した。五月山の手に触れないように、決心をにぶらせないように。
「本当? 必ずよ。絶対だからね」
「塔野さん?」
「アンタだってやればできるんだから。バドミントン、凄く凄くうまくなったじゃない」
 草原のフチに立った。黄昏時の風が、塔野の長い髪を奔放にもてあそぶ。もう『家』に帰る時間だった。
「アタシね、帰る場所なんてないってことにようやく気付いたの。あの人の側にはアタシの場所なんてなかったの。……だからいっそのこと、行ってみようと思う」
「え!? それって」
「五月山、アンタはアンタで自分で決めて。アタシを送るなんて理由をくっつけたりしないで。そしてきっと……『現実』で会いましょう」
 塔野は獣道へ一歩足を踏み出した。いつの間にか降りていたネコが塔野を見上げて一声鳴いた。塔野はふわりと笑った。……道連れがいれば、この旅もきっと寂しくはない。
「塔野さん! 僕は、僕は……!」
 塔野は振り返らなかった。




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