店頭にはしなびた靴がいっぱい。どれもこれもすり切れ、靴底を減らし、つま先がぱっくりあいてしまったものさえある。希に迷い混んだ客は、ディスプレイされたそれらを一目見るなり、怪訝な顔で立ち去った。 靴屋ではある。少なくとも、おかれている商品はすべて靴である。ただし、一見したところ、ゴミを並べているのと変わりがないようではある。 店の一番奥まった場所にレジスターと自分の場所を確保した店主は、そんな客の気を引くでもなく日がな一日葉巻をぷかぷかくゆらせていた。 希の希、日に一人か二人か客の中に、十日に一人か二人紛れ込めば良い方な、本物の客を待ちながら。 その日の客は、一見ほかの客と見分けがつかない、ごく普通の客だった。商店街のはずれから細い道を一本たどった奥の怪しい小物屋の前を通り過ぎた場所にあるこの靴屋には来るには、ある意味そぐわない客であったかもしれない。落ち着いた雰囲気のこぎれいな女性だった。 女性は深々と帽子をかぶり、明るい髪を一つくくって背中に流していた。着ているものはあまり趣味が良いとはいえないジャケットに、ジャケットと全くそぐわないパンツ。持っている袋も、近所に買い物へ出かけるようなズタ袋一つだけという出で立ちだ。遠くから見たなら、四十をすぎた女であることをあきらめた単なる買い物客のようにも見えるだろう。 しかし店主は、女性を認めて居住まいを正した。『客』であることがわかったからだった。なぜわかったのかと言われれば、長年のカンだと答えるだろう。実際には、ジャケットからわずかにのぞく首筋や、袖口からのびた手の肌のきめ細かさ、ほおに塗られたファンデーションの具合から、格好とそぐわない年齢・立場の人物だと察したからだった。 女性は店内を一別し店主に目をとめると、迷うそぶりもなくレジスターの前に立った。ズタ袋から新聞紙にくるまれた一抱えほどの荷物を取り出しながら。 「……買い取ってくれるって聞いたの」 「ものによりますがね。拝見させていただきますよ」 店主は女性の手から荷物を受け取ると、レジスターの横のわずかなスペースにげた。新聞紙で乱暴にくるまれたそれは、やはり古ぼけた……などというのも憚られるほども、はきつぶされた靴だった。つま先ははげ、細いヒールには幾筋もの傷が入り、脇には穴まであいていた。指でぬぐっても取りきれないほこりが染みついたかのような外観は、履き古したばかりではなく、相当な年月をも思わせた。 不安げに口元を引き締めた女性は、手に取り微に入り細に入りルーペまで持ち出して靴を調べる店主を見つめていた。十分だったろうか。息を詰めて見つめるのは苦しくなってくるほどの時間がたって、ようやく店主は顔を上げた。 「……なかなか良いものですな」 店主はしわの目立つ目元を細めて、存外に人好きのしそうな笑みを浮かべていた。女性の口元からほっと息が漏れる。 「引き取って、頂けるのですね?」 「是非に。……そうですね。これくらいでどうですか?」 言うと店主は指を数本立てて見せた。女性は帽子の奥でそんな指など見もしていないかのように、即座に頷いた。 「……おや、こんなに安くてよろしいので? もう少しばかり引き上げることになるかと……」 店主は意外そうに女性を見ると、再び靴に目を落とした。女性が何者で、どんな顔で、何を考えているかなど、興味がないとでも言うように。 「お代など」 「いえいえ、そういうわけには参りません。契約というものは、そういうものですからね。 後々あなたが後悔するようなことがあったら、面倒なことになりかねない」 「後悔なんてしません」 「言い切ってしまうのは良くないですよ。……では、これで」 店主は丁寧に靴をくるみ直して台の脇に丁寧においた。レジスターをたたくと、中から指の数と同じだけの一万円札を取り出す。『売買契約書』と書かれた紙とボールペンと一緒に、札を女性の前に置いた。 「え、そんなに?」 一万円札。それだけで、この靴の新品が買えてしまうだろう。戸惑う女性に店主はにんまりと声をかける 「この靴にはそれだけの価値があるのですよ。人によってはこの十倍も要求してくることもある。……私にも良心というものがありますのでね。これ以上下げるのは忍びない」 「……かまいません」 まだ戸惑いつつも。女性は頷いた。店主の口にも思わず安堵の息が漏れた。安いと言ってごねられることは珍しくなかったが、高すぎると迷うのはあまりあるケースではない。もっとも、一別して去っていく客のように、価値に気づかないことはよくあることだったけれど。 「署名をお願いします。決まりですので。……あ、私には調べようもありませんので、ご本名でなくともかまいませんよ」 「……はい」 それでもまだ帽子を取ろうとはせずに、女性はかがみ込んで契約書に署名を行うと、一度だけ頭を下げて、数多の人が歩んだ道を記憶した数多の靴たちに別れを告げた。 日が暮れ、商店街の最後の活気も消える頃になると、店主はがたつく引き戸を開け放った。冷たくなり始めた初秋の風が舞い込み、吹き抜る。誇りっぽくかびくさい風が揺らいだかと思えば、風を目で追うかのような店主の視線の先で、その一部が凝った。 「やぁ、いらっしゃい」 「新しい靴が入ったそうじゃないか。見に来たよ」 「早いね。ついさっき入ったばかりだよ。あの大女優の下積み時代を知っている靴だ」 最初靄のように漂っていた『風』は、次第に形を持っていく。一番下の段に置かれた靴をのぞくくらいの高さで、黒っぽく、細い形を取っていく。 やがて店主が歩き始めるころには、一匹の黒猫が現れていた。店主にあわせ、二足歩行でしっぽを揺らしながら歩いていく。 「それはすごいな。相当高かったんじゃないのか?」 「売値はまだ決めてないよ。しかし、買値は破格に……」 「だろうな。持ち合わせで足りるといいんだが」 「……破格に安かったよ」 「なに?」 くすくすと店主は笑う。立ち止まり、大きな目をさらに見開いた猫は、四つ足で店主の前へ出ると、その顔を正面から見上げた。 「担いでるんじゃないだろうな? そんな安いわけないだろう」 「あの人には要らないもののようだったよ。いや、気づいてないと言うべきかな」 「買うぞ、俺、絶対それ買うぞ! 俺の『養い児』にちょうど良いのがいるんだ。そいつにはかせる。いくらで売る?」 「そうだなぁ」 店主は考えつつ、まだ新聞紙にくるまれたままの靴を台へ置き直した。ぴょんと黒猫が台にのり、少し離れた場所で店主の手元を見守る。 中から現れたのは、先ほどと同じ、はきつぶされたハイヒール。……しかし、薄暗い店内の、街の明かりすらも届かぬ奥で、それは内側からまるでオーロラのように色とりどりの光を放っていた。はげたつま先、傷だらけのヒール、穴のあいた側面を、特に強く光らせて。 「すごいぞ! 持ち主はよくこれを手放したな!」 「きっと、振り返りたくもなかったんだろうね。こんなにきれいな『人生』なのに。もったいない」 「もったいないなんて言うな。俺が買えなくなるじゃないか! よし、500出そう!」 「……これでも良心というものを持っているんだ。300でいい。その代わり……」 「なんだ?」 早速新聞紙にとりついた猫は、靴を上から下からなめるように見回し、顔だけを店主へ向けた。少しだけいたずらっぽい顔で、店主は客に頼み事をする。 「しばらくの間でいい。彼女を『応援』してやってくれんか。なくしたものに気づくまでの間で良い」 猫は今度はきょとんとした。店主の言いたいことをその小さな脳で考える。 「……それって返って人が悪くないか?」 「そうかい? 君がもっと出すというなら、考えなくもないが?」 「いや、それでいいよ。わかった。『養い児』が成長するくらいまでの間なら良いだろう。こっちも契約成立だな」 「お買いあげありがとうございます」 にやりと、店主と猫は笑いあった。 |