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URA*Soramimi Syojo
074.針の丘

「またか?」
「まただ」
「次は?」
「お前か?」
「よせやい」
「あんたこそ」
「いやいや」
「きみなんか」
「滅相もない」
「そういうおたくは」
「やめてくれ」
「願うなら」
「願うなら?」
「当分は」
「当分は?」
「落ち着きたいものだ」
「まったくだ」
 明かりをつけることすら憚られるとでもいうのか、薄暗い中で男たちは窓の外を見つめた。月明かりが落ちるだけの闇にくりぬかれたような風景の上方には、ぽつんとひとつ、明かりがともっていた。オレンジがかった小さな明かりを目に捉え、男たちは誰知らずため息をこぼす。
 やがて明かりが瞬き消えると、言葉もなくカタカタと椅子だけを鳴らして、一人また一人と光の漏れる廊下へ消えていった。
 最後に残った一人は、もう、どこにあったのかもわからない明かりを再び見上げ、ぶるりを身震いすると、ほかの男たちと同じように部屋を後にした。

 社内恋愛は絶対禁止項目のひとつで、だから、大河内も十分に気をつけていた。どれだけ『夜』が遅くても、必ず帰宅しシャワーを浴びたし、浴びさせるようにもしていた。高いことを十分知った上で、旅行は土日か連休の時だけで同時に休暇をとることもしなかった。風邪を引いて寝込んだときほど、残業して、残業させて、待ち合わせには最寄り駅を絶対に使わない。
 そうまでしていたからこそ、この三年間平穏無事に過ぎたのだし、結婚の話を出してももう彼女も揺るぐことはなかった。あとは、彼女の退社予定までを慎重にすごすだけだと自宅のカレンダーに丸をつけて、ひたすら待つだけの日々が続くはずだった。
 ある日出社した大河内の机の上にそれを見たとき、目の前が真っ暗になった。冗談でも大げさでもない。貧血を起こしかけたほどのショックを受けた。斜め前のデスクの彼女は一瞬で顔色をなくした。フロア中に、俺たちが付き合っていたことが判ってしまうほど、顕著だった。
 『赤紙』が、置かれていた。
 『赤紙』は、通称である。実際は、上品なピンク色をしていた。表面に紋章のようなマークを押した上品で高そうな紙のカードだった。
 この会社の人間なら誰もが入社当時に教え込まれる。決してこのカードに逆らってはならないと。このカードは社則もなにもすっ飛ばして力を持つ、最凶最悪のカードなのだと。
 見なかったことにはできない。カードには『二度』はなく、無視すれば翌日には辞令が下った。見ないわけには、行かない。
 震える手でそっと開いてみれば、いたって記述は単純で明快で……時間が書き込まれているだけだった。
 ──十八時。
 『赤紙』は、召集令状のようなものだった。指定した時間に、ある場所を訪れろという、指示だった。ある場所は周知でわざわざ書き込む必要などなく、また、面会相手もただ一人しかいなかったから、わざわざ書かれることはなかった。
 ついに、来てしまった。
 もう隠す意味もない。斜め前の彼女と書類越しに視線を交わした。選択肢も何もない。目だけで頷きあうしか、なかった。
 ぽんと肩をたたかれてみれば、同情顔の同僚たちが慰めとも、いやみともつかない笑みを浮かべて、幾人も過ぎていった。

 『赤紙』の対象者の多くは、二人でその日のうちに辞表を出して、その日のうちに荷物までまとめて去って行ったから、詳しいことはあまり知られてはいない。
 それでも、『その日のうちに』『二人そろって』なのだから、おそらくそういうことなのだろうと噂されていた。
 やめてしまうことくらいと、思わないでもない。しかし、経理の話によれば、退職金は一切ないという話しだし、細々とした糸をたどると、この都市圏での再就職も難しいらしいと聞こえてきた。
 『赤紙』の呼び出し場所は、本社裏にある小高い丘で……社内では『針の丘』と呼ばれていた。

 法面に設けられた細々とした階段を上る。二人並んでは歩けず、大河内が前に立った。小高い丘の頂上には、周囲を見張るための小屋のように見えなくもない山小屋風の家が一軒経っていた。住所だけ見れば、そこは会長であり筆頭株主である創始者の孫娘が住んでいるはずで、つまり、社のある意味での『中枢』であるはずだった。
 とはいえ、平社員ごときがその中身を知っているはずもなく、会長の顔すら見たことはなかった。
 足はどんどん重くなっていくようだった。日頃の運動不足もあるだろう。なれない土と木の感触や、そこがつるつるの靴のせいもあるかもしれない。なにより、見えないプレッシャーを受けているようで、よけい足がにぶるのだ。
「あっ」
 彼女の声に反射的に振り返れば、都会的なヒールを引っかけて階段に手をついてしまっていた。かがんで助け起こせば、彼女の手は震えていた。
「大丈夫だから。いざとなったら、僕の田舎へ二人で行こう。ね」
 不安そうに見上げた彼女は、うんと、しっかりと頷いた。
 彼女の手を取り、一段一段踏みしめるようにゆっくりと、階段を上がった。
 階段の終点は玄関の段差で。二人そろってポーチに立った。つないだ手をきゅっと握れば、きゅっと、ためらいもなく握りかえされた。
 大丈夫。大河内は心の中で繰り返す。――職がなくなっても、貯金がなくなっても、僕が彼女を守る。僕が彼女を支えていく。男として、それが僕のやるべきことなのだから。
 大河内の心情とは裏腹に、軽く小気味のいい音が、響いた。

 甘くとろける砂糖菓子のような女性だった。
 木製の戸を引きあけたのは、中年過ぎのオバサンではなく、ギスギスしたキャリアむき出しの狐のような女性でもなく、三十路前なのは間違いないかわいらしいとさえ言えそうな女性だった。
 赤と白とピンクのフリルをふんだんに使ったエプロンドレスを身につけ、電灯では作り得ない柔らかな揺れる光の中でそっとたたずんでいた。肩に掛かる髪の茶は不自然さもなかったから、地色かもしれない。間近でみることになった肌は、夜の彼女を知っている大河内には、信じられないものに、見えた。……彼女もきれいな方だと思っていたが、それを圧倒的に、上回る。
「いらっしゃい」
 鈴の音のようなという表現の意味を初めて知らされたような声音で、女性は二人を招き入れた。一歩出ることになった大河内の手の中で、彼女の手の震えはすっかり止まっていた。引っ張られた感覚にびくりと一度反応すると、大河内の背後を……隠れるようなそぶりもなく……ついて来る。
 女性の示す部屋に入ると、思わず立ち止まってしまった。どうしたのと問いかける女性の手前、仕方なく入ると、彼女の息をのむ音が聞こえた。
 ピンク色の白いレースのかかったソファに、並んで座る。大河内の正面、女性の背後には、ピンクのおもちゃのような巨大な戸棚があり、中に納められているのはこれでもかというほどの熊のぬいぐるみ。横の壁には日本かどうか疑いたくなる暖炉があり、優美な曲線を描いた柵がもうけてあった。さらに上を見れば、ハートと星が目につく巨大なシャンデリア。目をおろせば、白はどこまでも白く、ピンクに曇りの一つもないティーカップへ、甘くどこか赤さの強い紅茶が注がれるところだった。
「用件は、ご存じよね?」
 紅茶のカップを大河内の前へ押しだし、女性は天気の話でもするように切り出した。
 とたん、大河内の背がのびた……隣の、彼女も緊張したように、息をのんだ。
「……やめることになっても、僕たちは別れません」
 できるなら、差し出された紅茶を一気のみしてしまいたかった。声がかすれないよう、一字一句発するのに、こんなにも力が要った。
「結論は早いのではなくて?」
 くすくすと女性は笑う。そこだけバラのように赤い唇の端が、きゅと、あがる。
「規則は規則ですもの。お二人には辞めていただきますわ。けれど、一つ席を用意することができますの」
「……は?」
 席を一つ用意する。それは、辞めるかわりに……いや、辞めるという体裁をとるが、異動ということだろうか? それとも、引き抜きのようなもの?
 隣で彼女も緊張しているのがわかる。
「あたくしのお遊びのような会社に席を作ることができますの。ただし……女性の方、だけ」
「えっ!?」
 声は彼女のものだった。大河内の声は、のどの奥で詰まって……消えた。
「つまり、私はすぐに再就職する、と?」
「えぇ。あたくし、女性スタッフを探していましたの。ただの女性スタッフじゃぁなくてよ。あなたのようなきれいな女性を。そうね、勤続年数は入社時から引き続きとしてもかまわないわ。どう、いい条件だと思うのだけど」
 からころと、持ち主の思惑とは違うところで鳴る鈴の音を聞くように、女性の声を聞いていた。
 半年前。結婚の言葉を持ち出した大河内に彼女はためらっていた。それを二週間かかり で説き伏せて、頷かせて、そして進めた話だった。
 彼女はキャリア志望だった。
 彼女は大河内の後輩で、仕事も上でも重要なスタッフだった。男女の差別なく昇進の機会の与えられる社内で、ライバルの一人とも言えた。
 しかし、結婚とキャリアアップは両立しない会社で、彼女は最後には、結婚を選んだはずだった……。
 しっかりなくてはと、大河内は夢見るように思ったのだ。僕が彼女を守る。僕が出世して、彼女を必ず、幸せにするんだ、と。
「あたくしのほしいのは、貴方なのよ」
 彼女は身を乗り出した。彼女は、もはや、大河内の手を握ってはいなかった。

 ――針のむしろだ。
 意気投合する彼女と女性の側にあって、存在そのものが最初から無かったかのように身を縮ませて、大河内はいたたまれない思いに暮れていた。

「またか?」
「まただ」
「次は?」
「お前か?」
「よせやい」
「あんたこそ」
「いやいや」
「きみなんか」
「滅相もない」
「そういうおたくは」
「やめてくれ」
「願うなら」
「願うなら?」
「当分は」
「当分は?」
「落ち着きたいものだ」
「まったくだ」
 何も知らない男たちは、丘の下で今日も侮蔑と願いと哀れみを乗せて、オレンジの光を見上げていた。


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