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■珍説・仕事中毒入院日記(やや私小説風味)


はじめに

 この物語は、(一応)フィクションです。
 実在の人物と関係があるみたいな感じはしますが、たぶん気のせいです。
 そういう事にしておいてくれると、助かります。

 この物語に登場する人物の年齢は、…言うまでもありませんね。18禁要素はありませんが。
 ついでに言っておきますが、読んで面白いかどうかは分かりません。
 …努力はしてみましたけれど(滝汗。

 では、ごゆっくりお楽しみいただければ…幸いです(汗。


■(扉言葉風に)


 ――今も闘病生活を続ける人たちと、それを支え続ける人々に捧げる――


プロローグ

 2008年2月4日早朝――
 前日に東京地方に降り積もった雪はその日のうちに溶けてしまったものの、
 夜からの冷え込みは厳しく、朝方は路面が凍結していた。

 足元に気をつけつつ、ちょっと時間に余裕を持って、いつもの様に出勤、
 …のはずだった。

 朝8時前後の暖かな日差し。
 仕事場まであと数十メートルの距離。
 何の気なしに通り過ぎようとした車庫付近のスロープの歩道。

 一瞬だった。

 踏み出した左足を思い切り凍結部分で滑らせ、
 完全にバランスが崩れたところで、凍っていない縁石部分で足がグリップした。
 後は、体重がかかってそのまま左側に倒れた。

 「…あたた…」

 捻った事は間違いないとして、この熱さは何だろう。
 本能的に、左足をつける事が出来ないけれど、何とかなるだろうか――

 痛みを引かそうとマッサージを繰り返していたが、30分を過ぎてもどうにもならなかった。
 通りがかったパートの人たちに頼んで、遅刻の連絡と、
 すぐそばの整骨院にとりあえず行ってみる事になった。

 「あ〜、コリャダメだわ、ウチじゃなくて八橋病院さん行ったほうがいいわね」

 そして会社近くの病院でレントゲン、診察、入院が確定、
 法事とか引越とかを控えた身でありながら、どうにもならない日々が始まった。

 とにかく気になったのは大体どのくらいで治るものなのか、という事。
 骨折の場合、内容にも依るが術後4〜6週間が平均とのことだったが、
 自分は足首の捻り、骨折部分とヒビ2箇所、という複雑骨折だったので、
 これより長くなることはほぼ間違いないみたいだった…。

 ***

 ――僕は、これからどうなるんだろうか
 引越は、大丈夫だろうか?
 仕事は、何とかなるだろうか?

 何もなければ、する筈だった色々な事、入院してからこれからの事、
 退院出来たとしてその後はどうなるのか、考え事だけは色々とめぐってきた――

 答えが出ない。

 ――どうする?
 どうする?
 どうしたらいい?

 考えが、まとまらない。
 答えが、見つからない。

 そんな、出口の見えない日々の中、僕は、彼女に、出会った――

 ***

 …消灯前の、ぼんやりとした時間。
 何だか考えが上手くまとまらなくて、手を頭の後ろに組んで、ぼうっと、天井を見つめていた。

 「進藤さん、どうかしましたか?…何か、考え事でも?
  ――もし、わたしで良かったら、おはなし、…聞かせてもらえませんか?」

 「いや、その、…なんというか、こう、引越のこととか、手術のこととか、
  …いろいろ、考えていたんです…

  それに、その、急にこんなことになっちゃって、戸惑っていたりもするんで、
  …ほんと、これからどうなるのかな、って…」
 
 「最初は、みんなそうだと思いますよ。
  つらくて、長い日々になると思いますが、頑張ってくださいね」

 そう言ってにっこりと微笑んだ笑顔が、くもった僕の心を、
 すうっ、と晴らしていってくれた――


その1

 病人は、或いは怪我人は、安静にしていなければならない。
 朝起きて、すぐ出かけて、仕事して、帰ってきたらちょっと何かして寝て、
 また朝が来る、という生活をしていた身だったから、24時間はあっという間だった。

 とりあえずこの病院の起床時間は6時。これはいつもの朝と同じ。
 だが夜の消灯時間は21時。早起きが習慣化している普段の自分ですら、
 余程の事がなければそんな早い時間には寝たりしない。

 入院した当初は、普段の寝不足があったのか、割と普通に昼寝とかしながら、
 21時にはきちんと眠れていた。
 …だが、何日か経過すると、疲れていないからか、寝つきが悪くなっていった。

 疲れない原因は通勤が無い事と、仕事もしていない事。
 何もしていない、何も出来ない、何もすることがないと、
 1日というものはとてつもなく長くて、24時間が苦痛に感じるほどだった。

 加えて、やる筈だった事がすべて棚上げになって、足踏み状態になっている事。
 焦りだけが募って、何も出来ない自分に更にイラついたりもした。

 …あの頃は、体だけではなくて、心も病み始めていたんだと思う。

 そんな時、彼女は話を聞いてくれたりとか、
 むしろ積極的に話しかけてくれることもあった。

 つまらない冗談にもにっこり笑ってくれた。
 去り際の手の振り方が、すごく可愛かった気がした。

 僕が抱えていた問題は何一つ解決していないけれど、
 話を聞いてくれただけで、なんだか楽になった。

 一人暮らしで、見舞いもほとんど来ない自分にとって、
 わずかな彼女との会話が、寂しさを紛らわせてくれた。

 それは、ささやかな楽しみ。
 それは、出口が見えずにさまよう自分の、心の支え。
 それは、明日へ、未来へ踏み出していくための、僕の、希望。

 ――ああ、この人がそばにいてくれるから、僕は、がんばりたいと思った。
 こんな人が居てくれるなら、きっとこの先のつらい日々も、乗り越えられると思った――

 もしも、こんな素敵な人と、一緒になれたなら
 …僕は、その笑顔を見ているだけで、きっと、幸せになれるんじゃないかと、幻想を抱いた。

 気がついたら、仕事とか引越とか退院とかの事はだんだんと悩まなくなって、
 彼女と今後どう接していけばいいのか、それだけを考えていた――


その2

 仕事をしているとトラブルは割とあったりして、
 「出来ない理由を考えるより、やる方法を考えよう」と言うのはよくあることで。

 障害なんて、一杯ある。例えばいきなりタメ口だったから忘れていたけど、
 自分と彼女との年の差は結構ある事とか。
 それに時間。自分は普通の会社勤めなので、残業はあるにしても、夜勤は無い。
 ついでに彼女と話す時間ってのは、彼女にとっては勤務時間、いつまでも話し込んでいて良い訳でもない。

 一番気になるのは、自分以外にも彼女に惹かれ、既に付き合っている人が居るかもしれない、
 という事。

 そういえば昔、こんなことが良くあった。

 ――あと5年早く出会っていたら、あなたの事、好きになっていたかもしれないわ――

 ――いつか、あたしより素敵な人が見つかるといいね――

 もう恋なんてしない、とまでは言わないにせよ、そんな空振り以前の出会いと別れを繰り返すうち、
 僕は仕事に没頭し、趣味にのめりこむ事で自分をごまかし続け、
 いつの間にか適齢期なんてとっくに越えて、結婚とか恋愛なんてどうでも良くなりかけていた。

 人を好きになるなんて、もう無いと思っていた。
 綺麗とか可愛いとか、そう思うことはあっても、「だいすき」にはならないと思っていた。
 それでも、自分は年甲斐も無くときめいて、どうしようもなくほれ込んでしまっていた。

 諦めるのは簡単だ、何しろ彼女と僕の年の差は2桁もある。

 今度もまたいつかと同じように、自分にはどうにも出来ないところで、結論が出ているかもしれない。
 現実と確かめてもいない事柄に押し流され、自分を抑えようとした。

 忘れよう――でも、折につけその笑顔は自分をとらえて離さない。
 距離をとろう――でも、その姿を見かけただけで、気になってしまう。
 年の差が――いや、そういえば自分の職場には10年以上離れているカップルもいるじゃないか…。

 ああもう、ウジウジ悩むのはやめた。
 ただ密かに憧れて諦めてしまうよりは、ぶつかって後悔する方がいいや、…そうしよう。


その3

 「今日『夜担当』の野々崎ですっ、よろしくお願いします〜」
 …ああ、言葉だけとらえてみると、なんと甘美な響き… <ヤメロ

 「じゃっ、消灯時間になりましたから、電気消しますね、…おやすみなさい」
 聴きなれた言葉のはずなのに、笑顔とともに手を振られたりすると、却って寝られなくなったりとか。
 …多分、彼女の魅力ってのは、こういう事を素で出来てしまうところ、なんだろうなと。

 作った笑顔ではなくて、柔らかくて自然な、彼女の優しさをそのまま表情にしたような。

 そして朝。
 ナースステーション脇のお茶置き場で、なんとなく目が合う自分。

 「進藤さん、なんか用でも?」
 「…あ、いや、特に用ってのは無いんだけれど…どうやって野々崎さんを口説こうかと…!?」
 「ふふ〜ん?…そうなんだぁ〜、私、口説かれちゃうの?楽しみだなぁ〜〜」
 「…へ?」

 ――や、ちょっと待て俺!!

 ぶつかるにもやり方ってものが…って、アレ?
 …そっ、そんな笑顔で返されたりしたら、俺、…本気にしてもいいの?
 っていうか俺のほうがドキドキしてきちまったよ、どどどどうしよう…。

 …は〜〜〜、それにしてもあの子は、もしかしたらとてつもなく強敵なのかも…

 ***

 ある日。田舎の母が親戚の叔母と共に見舞いに来た。
 何でかよく分からないのだが、帰りがけに写真を撮ろうと言ってきた。

 「あ〜、進藤ちゃん、写真撮りたいから、誰か看護婦さん…」

 …で、やはりというか、真っ先に目に入ったのは彼女だったりして。

 「野々崎さん、悪いんだけど、野暮用頼まれてくれるかな…」
 「あ、なに?写真?…いいよ、カメラ、…貸してくれる?」

 ――カメラを構えた彼女の笑顔につられ、自分も苦笑ながら笑顔になったと思う。
 何でもないことだけれど、その輪の中に彼女がいた事に、何だか奇妙な縁を感じた――

 母が帰った後、何となくお礼が言いたくなって、ふと彼女に声をかけた。

 「あ、さっきはありがとう、ちゃんと撮れてました?」
 「大丈夫ですよ、ちゃんと『かっこよく』撮れてましたから」
 「…惚れ直しました?」
 「――っ!?……」

 ちょっとだけ挙動不審になりつつも、着ていたパジャマの襟とかを直してくれた。
 …ふと、一緒になったとしたら、朝はこんな風にして彼女に身だしなみをチェックしてもらえるんじゃないか、
 …ただそれだけの願望が、自分を、ちょっとだけ幸せな気持ちにした…。 


その4

 ちょっと時間は前後するのですが、整形術が必要な骨折事故の場合、
 患部の腫れを引かせてから手術することが一般的です。
 (救急時、どうしても、という場合には即手術、というケースも有るようですが)

 で、筆者の場合、2/4に入院して2/13に手術だったのですが、
 その間は太ももまでギブスが巻かれ、オーバーニーソックスもかくや、という状態でした。
 足首と脛の下部が損傷箇所なんですが、念のためという事もあり、そんな風に巻かれていたり。

 たった1週間ちょいの期間でしたが、ここまで大きくギブスが巻かれていたりすると、
 トイレで用を足すのも一苦労、洋式に座っても、太もも裏のギブスが当たって、うまく座れなかったり。
 手術後は膝下までのブーツタイプに小さくなったのですが、相変わらず、
 用を足すのにはいろいろと苦労を強いられる日々が続いていきました…。

 ――そんな、今までほとんど無意識に出来ていた、ほんの些細な行動が、満足に出来ない。
 場合によっては、誰かの手を借りないと、することが出来ない。
 そんな時、彼女は嫌な顔ひとつせず、手伝ってくれた――

 例えばそれは、彼女にとっては、ただ繰り返されてきた、仕事のひとつなのかもしれない。
 それでも、『ありがとう』と、感謝の気持ちを表さずにはいられない――

 それが、『支えられる』っていう事、…なんだろうなと。

 ***

 病院により異なるようなのですが、手術に際する麻酔は、全身の場合と、半身の場合があるのですが、
 筆者が入院した病院では全身麻酔をかけてから手術、という形式でした。

 で、全身麻酔をかけるにあたり、内臓、特に消化器系の麻痺は色々と影響が出やすいらしく、
 前日の21時より絶飲食(水もダメ)、当日は午前中までに大便が出ないと強制的に浣腸、
 更に術後も絶飲食は続き、翌日の朝8時になってようやく白湯(イメージ的にはとぎ汁)と
 とき卵スープ、ヨーグルト、という感じの食事になります…ああ、思い出すだけでも(以下略。

 一応この間の水分とか栄養補給は点滴が付きっぱなしになるのですが、
 特に手術後は酸素マスクとか付いたりする関係上、喉がいつも以上に渇いたりします。
 加えて、筆者のケースは捻った足首を元に戻したりしていたせいか、
 麻酔が切れた(下半身の感覚が腰から順番に足首に向かって戻ってくる感じ、大体術後4時間くらい)時、
 関節部分から猛烈な痛み(というより火箸を突っ込まれたかのような熱さ)で悶絶してしまい、
 ちょっと我慢してみたけれど、全然ダメだったので痛み止めをお願いしてましたね…。

 まあ、そんなこんなで更に熱が出ていたり、汗も結構かいていたりするので、
 更に喉の渇きは加速していってしまうのですが、
 夜中、うがい用の水を持ってきてくれたり、
 夜明け前、小さな氷を口に含ませて少し喉を潤してくれたり。

 …これもまた、彼女にとっては、繰り返されてきた仕事の一部なんでしょうけれど、
 その、ちょっとした心遣いが、夜の暗闇の中、ちいさな希望を与えてくれた、
 …そう、思っています…。

 ***

 筆者のイメージが古いだけなのかもしれませんが、骨折後のギブス=石膏で固められている、
 というイメージがあったのですが、最近のそれは強化繊維か何かで出来ているらしく、
 割と自由度が高い構造になっています。

 どんな感じかというと、手術直後はつま先が開いたブーツ状態なんですが、
 翌日朝から、縫合部分の消毒とかが始まる関係上、部分的にメンテナンスハッチ?っぽいものを開けられ、
 毎朝の回診時に外して傷口をチェックしたり消毒したりするわけで。
 (ちなみに筆者のケースでは正面、左右にそれぞれ1箇所、計3箇所蓋がつきました)

 で、当然のことですが、担当看護師である彼女は、殆どの場合、主治医と一緒にお手伝いに来ていて、
 筆者の傷口とかを一緒に見ていたりもするわけで。

 「進藤さん、傷口、結構綺麗にふさがってきてますよ?」

 「まあねぇ…でも、僕って、まさに『脛に傷持つ』なんとやらって…」
 「……(ニヤリとしつつ、ぐっと親指を立てるしぐさ)…」

 思わず軽口を叩いてしまっているのでアレですが、普通、
 ここまで大掛かりな手術を受けるケースは、この歳ではそうそうないでしょうし、
 手術は上手くいったのかとか、傷口は化膿してないかとか、色々不安が入り混じる時期ですし、
 順調であることをきちんと当事者に伝えておく事は、大事なことだと思います。

 これもまた、不安になりそうな気持ちをぐっと押しとどめて、安心できるようにと、
 ハッキリ伝えておく、というただの仕事の一部とかなんでしょうが、
 (振り返ってみるに)筆者は良い方に解釈して、彼女の優しさだと受け取っていたみたいです。

 …我ながら重症だなと。

 ***

 一般的なケースではありますが、手術後大体10日くらいまでには抜糸が終わって、
 術後2週目頃にはギブスが半分にカット(筆者の場合は前半分が無くなって、
 分類上、シーネと呼ばれます)され、3週目あたりからはいよいよリハビリが始まります。

 で、ギブスが巻かれている状況ですと、お風呂時には患部をゴミ袋とかでシールしてやらないとダメですし、
 ギブスカットが済むまでは、左足だけが全く洗えていない状況が、何日も続いていたわけで。

 たまたま冬場だったのでそれ程でも無かった様なのですが(夏場だったら蒸れて大変な事になるらしい)、
 それでもカット後の左足は、動かしていなかった事もあって、かなりひどい見た目になっていたり。
 具体的に言うと、足首を中心に全体的にむくんだ感じになっていたりとか、
 血色があんまり良くなくて、黒ずんだような色合いになっていたりとか、
 足の裏を中心に皮がべろべろになってきていたり、果ては角質化している部分がかなりガサガサになっていたり。

 そんな感じで見た目にも非常に不健康そのものである故、
 カットが済んだ後、早速足だけ洗いに行ってみたりとか。

 「進藤さん、ちょっと、お風呂場に行きますか?…とりあえず、足、洗いましょう」
 「うん…」

 「…本当は、勝手に使っちゃいけないんだけれど、かれこれ2週間は洗ってないですからね…
  …ん、まあ、こんなところかな…」

 …もちろん、綺麗好き、ってのもあるでしょうが、
 きれいなおねえさんに足を丹念に洗ってもらっているのって、なにか、こう、…
 綺麗にしてもらっている、という爽快感以外にも、こみ上げてくるものがあったり。

 以後、検温の時とかにたまに触診が入ったりすることもあるのですが、
 妙な意識を持って接していたりするので、後に変なパプニングすら起きる始末でした…。
 ま、そういう意味では年齢不相応に若いなと(苦笑。 

 ***

 冬場とか、行楽シーズンとかは割と怪我をする人が多いせいか、自分が入院している病院も、
 ほぼ満床状態が続いていたりして、先生方はもちろん、看護師さんたちも結構忙しいわけで。

 リハビリが始まってからの自分の一日の予定の中で、
 リハビリの時間は筋トレも入れて大体30分強くらいだったかと。

 入院している自分たちと違って、リハビリに通っている患者さんたちが優先される関係上、
 大抵は午後、それも夕方近くなってから、リハビリ担当医が直接呼びにみえることが多かったり。

 で、ある日の夕方、検温でもないのに、看護師さんが呼びに来ることもあるわけで。

 「…?あれ…、野々崎さん、今日はまだ何かありましたっけ?」
 「先生がお忙しいそうなので、直接リハビリに行ってほしいって、連絡がありましたから…」

 そしてまた別の日。
 夕方、とりあえずベッドの上でぼさーっとしている自分の頭上から声が。

 「――進藤さん進藤さん。いらっしゃいますか?」

 ナースコール自体、リハビリが始まってから使っていないこともあり、
 そこから突然声がしたのにびっくりして、飛び起きた。

 「――ッ!?ナニナニ???」

 「リハビリの時間ですので、一階までお願いします」

 「わっ、わかりました、すぐ行きます…」

 エレベータの前にあるナースステーションを通り過ぎる時、
 逆ナースコールを仕掛けた犯人?と目が合った。

 「…あの、野々崎さん、心臓に悪いんで、いきなり逆ナースコールは…」

 「あ〜、ごめんね、呼びに行くべきだけれど、結構こっちも忙しいから…
  たまには、いいでしょ?」 <にっこり

 「…や、まあ、ネタにするなら確かに楽しいんでしょうけれど、やられた本人は…」

 そんなちょっとしたやり取りのなか、少しにっこりと笑って答えられたりすると、
 とりあえず許してしまう。

 …なんだろう、これは…いや、まさか…


その5

 入院後1ヶ月が経とうという頃、退院に向けての様々のイベントが起きていくのですが、
 中でもヒビが入った箇所(2箇所)の治りが遅いことを見越して、
 補装具(以下、装具)を作って(損傷箇所に負担をかけずに)歩ける様にする事はかなり大きなイベントになりました。

 (聞くところによると、筆者も含めて、複雑骨折やらかした人は大抵この形で退院するようです、
 でもって普通にポッキリいった場合は大体術後3週間で足をつける練習、
 大体その後3〜4週間で退院、というのが一般的で、こういう面からも筆者がいかに重症だったか、
 …という傍証になるかと思うのですが。)

 で、3月の頭、装具の業者さんがやってきて、まずは足の型を取っていきました。
 速乾性の石膏みたいなので取るのですが、それでも完全に固まるまで15分はかかりますので、
 片足に慣れた自分にはかなりきつかった記憶がありますね…。

 でもって次の週にまた業者さんがやってきて、仮合せ、
 更に次の週になってから、微調整を入れつつ完成、となるのですが…。

 日中がとにかく暇なのもあって、昼食後の運動もかねて、大体1時間くらいのペースで
 装具を付けての歩行練習をしていくのですが、初日からトラブルの連続だったり。

 まず、初日には靴下を履かずにそのまま付けて歩いていたからか、
 外してみたら鐙部分と脛がすれて、足首付近に長方形の傷が付いていたり。

 「野々崎さん、ちょっと申し訳ないんですけれど、…装具がこすれて傷が出来ちゃったんですけれど…」

 「わかりました、…じゃ、部屋の方に戻って、待っていてもらえます?」

 ――まあ、ここまでは割と(病院においては)普通の会話だったと思う。

 ところが次の日。今度は靴下を履いて自主トレに励んでみるも、1時間後に装具を外してみると、
 今度は脛当て部分がこすれたのか、脛の真ん中辺りにまたもや擦り傷が…

 「…、あの、…野々崎さん、ごめんなさい、また傷作っちゃったんですけれど…」

 「進藤さん、一応聞いておきますが、お酒とか飲んでないですよねッ!?」

 「えっ?僕、おもいっきり下戸ですから、そもそもお酒飲めないんですが…」

 「…しょうがないですね、消毒しますからまた部屋で待っていてもらえます?」

 ――ふと思い返してみると、怒った時に見せた、詰問するような鋭いまなざし。
 例えるならば、甲斐性なしの癖に、浮気と勘違いされて、一方的に怒られている様な感覚。

 漫画チックに表現するならば、三白眼で睨まれるケースですが、
 リアルだとあんまり洒落になってないですね…
 漫画とかゲームは他人事だから笑える、ってのを実感した日でした…。

 そして更に次の日。今日こそは何もないだろうな、と半ば祈るような気持ちで装具を外してみると、
 …ふくらはぎの裏側あたりに、何やらまた傷が出来ていたり…。

 「…あっ、あの、野々崎さん、…実に言いにくいことなんですが…実は、その…」

 「いい年こいてシャイな人ですね、どうしました?」

 「あ、あの、じつは、傷、…また、とりあえず消毒してもらえないですかね…」

 「――言い訳はいいから、傷のところ見せて?…怒ったりしないから、ね?」

 優しい笑顔にほっとした自分。
 しみたのは摺りこまれた消毒液か、それとも彼女の優しさだったのか――

 「…それにしても進藤さん、わたし色んな患者さん診てきたけれど、
  装具でこんな形でこんな風に擦り傷作った人、初めてですよ?
  …普通はこんな所に傷作ったりしないんですけれどねぇ…」

 それもまた(かなり歪曲した感覚ですが)彼女にとって自分は特別な存在なんだ、
 …と解釈することも出来たりして、どちらかというと変な意味で自分は印象付けられてしまった、
 そんな日々のことでした――


その6

 2008年3月31日。
 東京都下、某所にある現住居の退去期限の日。
 そして、ベッドの上から電話やら面談やらで、かろうじて段取りをつけた引越の日。

 仕事を、法事を、イベント参加を、色々キャンセルした自分であるが、
 これだけは、外すことは出来やしない。
 ある意味、この日だけのために、(暇だったとはいえ)自分は装具での歩行練習を続けていた。

 昨晩から降り続いた雨はまだやまず、寒さはいつも以上に厳しい感じがした。
 自分の都合だけで何とかできるものなら、別の日にしたい。
 ちょっと危ない気がする関係上、杖は2本突いて出かけた。

 「いってらっしゃい、お気をつけて――」

 ただそれだけが、救いの言葉だった――

 色々と現場ではトラブルが続出していたのですが、何とか引越そのものは終り、
 後はじっくり体を治して、新居から、また社会復帰する日を待つばかり…。

 …ああ、そういえば入院中にもうひとつ、大事な事が出来たっけ…。
 引越が済んだ今、懸案事項は退院日と、彼女との…。

 「…ただいま、…いやぁ、疲れましたねぇ〜〜」

 「あら、お帰りなさい、…その鍵は?」

 「ああ、これね…。たいした荷物も無いのに、鍵はずいぶん立派なタイプなんだよね…
  一応、賃貸とはいえマンションだから、だとは思うんだけれど。
  プロポーズの時は、これを添えて出せるくらいのものかと…(ニヤリ」

 「――プロポーズなら、指輪をメインにした方がいいと思いますよ?」

 「――ぐっ、付き合うことになったら、検討しておきます…」

 ――失った日々。置き去りにしてきたもの、思い出になってゆくもの。
 もし、…もしも、この日々や過去と引換えに、得られるものがあるとしたら、
 僕が望むものは、ただひとつ。

 ――そう、たった、ひとつ――


その7

 リハビリ時と回診時、他は入浴時くらいしか、シーネを外す機会は無いのですが、
 ギブスカットから数週間後、日中はシーネを外して、固まった足首を動かすようになります。

 ただ、それでも夜寝ている間に、ベッドの端にぶつけたりして悪化するかもしれないので、
 消灯前にシーネを巻き直すことが日常化していきます。

 最初の数日は、夜勤担当の看護師さんに巻いてもらうのですが、
 そのうち自分で巻くのを看護師さんに見てもらう、っていう日々になっていきます。
 (ちなみに足首と脛を損傷している関係上、結構大きいので、自分では巻きにくい)

 「…それにしても、進藤さん、思ったよりシーネ巻くの、上手ですね…」

 「――そう?なら、今の仕事クビになったりしたら、准看護師でも目指すかなぁ…」

 そして数日後。

 「あの、野々崎さん、そろそろ寝ないといけないんで、シーネ、巻いてもらえます?」

 「…(包帯を取り出して、寝巻きのポケットに突っ込む)…」

 「…えっと、もしかして、面倒見るの、もう嫌って…わけぢゃ…
  その、僕、今まで結構しょーもない事ばっかりしてきたけれど、具体的に、
  …どこが、悪かったのかな…?」

 「…ほら、早く行った行った。おやすみなさい」

 ――その夜は、思い当たる節がありすぎる自分に悶々とし、
 なかなか寝付けない夜となったのですが、その朝、答えを求めて彼女の元へ。

 「あっ、野々崎さん…」

 「どうか、しましたか?」

 「いや、…その、もしかして、昨日のアレ、もしかして嫌われたんじゃないか、って…」

 「――ぷっ!…やだなぁ、そんな事あるわけないじゃないですかぁ〜」

 「…良かった、ちゃんと口きいてくれた。
  もしこれから口きいてくれなかったら、正直どうしようかと。

  …僕、野々崎さんとの会話が唯一の楽しみだし、
  正直なところ、その笑顔を支えにして、頑張ってきたみたいなものだから…

  それに、僕は退院できても当面は装具が外せない生活が続くし、
  つらい日々の支えとして、野々崎さんの笑顔が必要だから…」

 「…ありがとう。そう言ってくれただけで、…嬉しいです…」

 ***

 そんなこんなで入院生活も2ヶ月を越えようとしていた頃、
 やはり頭をよぎるのは退院時期と、告白のタイミング。
 ぼつぼつと外出許可をもらって、新居での生活の準備をしたりするのですが、
 ドクター側の判断が中々出ずに、半端な精神状態が続いていたり。

 いつもの様に昼食後の装具自主トレの最中、彼女と話す機会があった。

 「ところで、そこまで歩けるようになっているんだから、そろそろ退院でしょ?」

 「…う〜ん、確かにそうなんでしょうけれど、先生の判断がまだみたいですし、
  それに、告白のタイミングを測りかねているんですけれど…」

 「じゃあ、2〜3日前でも構わないですからっ」

 ――即答っ!?
 っていうか当事者に直接、答え言ってるみたいなものじゃんか、俺?
 それに、うやむやにせずに、逆に日にち区切られたっ!?

 そのことに(後になって)気が付いた僕は、どうしようかと悩んだ。
 どんな言葉をかければいいのだろうか。場所は?時間は?
 僕はとにかく退院するまで暇だらけだけど、彼女はそうじゃない。

 ――とにもかくにも、どきどきする。
 色んな言葉が、頭の中をぐるぐると巡っていく。

 ――言いたい事、伝えたい事は、たくさんある。
 でも、ただ言葉を連ねて、全てを伝える事が良いとは思えなかった。

 ――だからこそ、いちばん伝えたいことを、できるだけ簡単に、確実に、伝えたい――

 ***

 仮に、満たされているとしたら、彼女の言葉は、僕にそれ程響いてこなかったかもしれない。
 例えるならば、熱帯の雨と、砂漠の雨。そのひと粒の価値や意味は、まるで違う。
 自分は今まで独りだった。ゆえに空っぽだった。
 空っぽだからこそ、投げかけられた言葉や優しさが、しみわたり、
 その全体の隅々まで、響き続ける――

 乾いているからこそ、癒しを求め続け、
 そして一杯の水だけでは満足できず、更に水を求め続ける――

 ふと気付いた時には、それなくしては生きていけない自分に気が付く。
 乾いている時には、おいしかった水の味を思い出し、物思いふけってしまう自分がいる。
 そのくせ、いざ目の前に水が置かれると、今度はいつ、その水にありつけるのか、考えてしまう。

 これは、なんだろう。

 遠い昔、似たような気持ちを抱いたことは何度かあったはずだけれど、
 とにかく随分と久しぶりな気がする。
 乾ききった生活に慣れてしまっていたからか、今まではどうやってきたのか分からない。

 そうしているうち、自分はあの頃から、少しも成長できていないことにも気が付いた。
 年甲斐も無く、自分は今まで、何をしていたんだろうか――

 大事なのは、これからの事。
 ――手に入れたい未来があるのなら、やるべき事はたぶん、決まっている――


その8

 黙っていれば、『それなりに』かっこいい人だとは思った。
 色々話しかけてくるようになってからは、かなり面白い人、というのは分かった。
 いや、むしろ「変な人」とか、「一言多い人」って言う感じもするんだけれど。

 今まで、色んな入院患者さんを見てきたけれど、
 その中でもあの人は、かなり変な人になるかもしれない。

 何だか最近、あたしと話すたびに、変な顔してるけれど、何かあったんだろうか。
 よく分からないんだけれど、しょうがない人…。

 今日、あの人は、ドサクサにまぎれて、あたしのこと、口説きたいって、言ってきた。
 いつもそうだけど、あたしはいつも、こう返すことにしている。

 「――そう、楽しみにしてるわ――」って。

 もしも、軽い気持ちで言ってきた人とか、あるいは冗談とか口だけの人なら、
 こう言い返せばもうそれ以上は言ってこない。

 ――本当にそうしたいんだったら、ちゃんと考えて、悩んで、また、ぶつかってくると思うから――

 あの夜勤の夜は、ちょっと疲れていたかもしれない。
 何かと甘えてくる感じのあの人にも、ちゃんと一人立ちしてほしいから、
 何となくな感じだったけど、突き放すような事をしてしまった。

 でも、一晩が過ぎて朝になったら、あの人は真剣に悩んで、本音を出してきた。
 あたしとの日々が、支えになっていたって、打ち明けてくれた。
 それは仕事であり、ここで働く看護師たちの義務でもある。

 それでも、改めてちゃんと言葉にして感謝されると、やっぱり嬉しい。
 頑張っているあたしを、ちゃんと見ていてくれて、認めてくれた――

 今日は、あの人の方から、話しかけてきた。
 何?自分から言い出しておいて、うやむやにするつもり?――なら…

 「じゃあ、2〜3日前でも構わないですからっ」

 そういえばあの人、気が付いていないみたいだったけれど、
 自分で答え言っているみたいじゃない…ほんとうに、しょうがないひと…。

 忙しいあたしの状況を察してか、あの人はメモを渡してきた。
 …さて、どうしてあげようかしら…っ!?

 ――ちょっと、ただ手とか足とか触診してるだけなのに、
 なに知恵熱みたいなの出してるのっ!?

 それになに?この言い訳じみた変な物言いは?
 …
 …あ、ああ〜、そういうコト、ね…

 あたしよりずっと年上の癖に、子供みたいじゃない、まったく…。


その9

 明日は退院という日の夜、偶然にも彼女は夜勤だった。
 一応メモとかで渡しておいたものの、やっぱり直接伝えたいから、どこかで時間を作りたい。

 消灯後まもなく、トイレに行ったついでにナースステーションに寄ってみる。

 「野々崎さん、屋上にいるから、手が空いたら来てください」

 ――返事も聞かずに、コツコツと松葉杖を突いてその場を後にした。

 ***
 
 ――もう4月も中旬になろうかというのに、まだ夜は結構冷える。
 例によってドキドキしているから、それほど寒さは感じなかったりした。

 ――それにしても、この前はものすごくみっともなかったな…。
 自分は沢山いる入院患者の一人で、彼女にとっては毎日繰り返されている仕事のひとつに過ぎない。
 なのに自分ときたら、彼女に対する意識が妙に過剰になっていて、
 彼女の手で触れられただけで、鼓動が高鳴って、熱を測ったら37度超えてたっけ…。

 メッセージを書いたメモ用紙を折畳んで、昔よく使っていたお菓子屋さんのスタンプカードに挟んでいた。
 当然、中身の事に気付いていない彼女は、そのお菓子屋さんの事をたずねてきた。

 ――そうだ、出来る事なら、デートコースに入れておきたいお店だ。
 もちろん誘い出したい、ってのはあるけれど、今はとりあえずメッセージを渡すこと。
 まあ、あからさまに怪しげな紙切れを渡すよりかは良いかと思ってやったのが、
 かえって裏目に出てしまった。

 病室内には他の患者さんもいるし、そんな堂々と口説き文句っぽい内容を伝えるわけにもいかず、
 的を得ない受け答えをするうち、彼女はカードに挟まれたメモの存在に気付いたらしい。
 そこで漸く得心がいったのか、はいはいと答えてくれたけれど…

 毎度の事だけれど、こういう事ばっかりやっているから、失敗続きだったんじゃなかろうかと。
 人によっては引かれるだろうし、良くて変な人呼ばわりだし、
 …でも、気持ちは決して軽くない。今までも、これからも、真剣である事だけは、
 ちゃんと、伝わっていてほしい…。

 ***

 東京都下とはいえ、ここはそれなりに郊外にある、5階部分の屋上。
 都心のそれとは違って、夜景がそれ程綺麗、という訳ではない。
 しかも高層マンションがすぐ近くにあるので、遮られて視界が良くない。
 それでも気分を落ち着かせようと、喫煙所のベンチに座り、外を眺めていた。

 ――ぎしり。

 背後で開いたドアの音に、やっぱり過剰に反応してしまう。
 まだ振り向いてすらいないのに、どきどきする。

 「進藤、さん…!?」

 声を発したのは、やっぱり彼女のほうが先で。

 「ごっ、ごめん、明穂さん、ちょっとだけ、…待ってくれる?」

 「ほら、…あたしに、言いたい事、あるんでしょ?――さあ」

 ふりむいた僕が見たのは、やわらかなほほえみ。
 しるべの如く浮かんだそれは、夜の闇にあってもなお、あたたかい感じがした。

 ――それは、今日まで、優しく足元を照らしてくれていて、ぼくをここまで導いてくれたもの。
 考えていた言葉は、その瞬間にどこかへいってしまっていて。

 「すっごく、可愛いです…」

 「それだけ?」

 「――えっと、それだけじゃなくて、あきちゃんの笑顔って、すごく素敵で、
  言葉も上手くつげないくらい、見とれてたって、事で…

  僕、入院している間、何度もふさぎ込みそうになったんだけれど、
  あきちゃんと話している時は、そんなこと忘れちゃうくらい、楽しかった。

  いつから、ってのは分からないんだけれど、あきちゃんの顔を見られなかったり、
  話が出来ない時はすっごくさびしくて…

  …そのとき、気が付いたんだ…。

  僕は、野々崎明穂さんのことが、だいすきなんだって。

  ――その時になって、どうしようかって、色々悩んだけれど、
  結局、自分の気持ちに正直に、ぶつかっていこうって、おもって…

  その割には、全然余裕が無くって、年齢不相応にみっともないところばっかりで、
  正直、今だってどきどきしてて、ちゃんと気持ちが伝えられているのか、わからない。

  でも、それもこれも、あなたが、だいすきだから……」

 「……うん……」

 「…だから、ぼっ、ぼくと、つきあってくれない…かな?
  …まだまだ僕は頼りないと思うんだけれど、
  いつか、明穂が辛いとき、哀しいことがあったとき、ぼくに、頼ってほしい。

  ――僕に、支えさせて、欲しいんだ――」

 「…ありがとう、すごく、うれしいよ…」

 「…あ、あはは…ごめん。…聞いてくれて、ありがとね…
  答えは…いいや。僕の一方的な気持ちだし…」

 「――まって。自分だけ言いたい事言っておいて、あたしにも、ちょっとは言わせてもらわないと――」

 「――ッ!? え、あ、ちょっ、ちょっと、まって――まだ心の準備が――」

 「あたし、あなたの、その真剣な気持ちに応えられるだけのものは、
  まだ、持ってないと思う…だから、ごめんね…」

 「…そう、だよね…」

 「――ああ、もうっ!早とちりして勝手に結論を出さないで。
  今この時点から恋人、ってわけにはいかないけれど、
  …とりあえず食事に行ったりとか、買い物とか、遊びに行くくらいは、…
  …しても、いいかな、って…」

 「でも僕、退院はするけど、まだまだ遠出は厳しいんだけど…」

 「一言多いわね…。支えてくれるとか言ってたけど、あれは嘘なの?」

 「ごっ、ごめん…。でも、支えたい、って気持ちは嘘じゃないから」

 「はぁ…またぁ…、ここは謝るんじゃなくて、『ありがとう』って言うのッ!!」

 「そうだね…ありがとう…あきちゃん、…だいすき、だよ…」
 
 「…うん…」

 ***

 ――ロマンチックな様でいて、実態はそれ程でもない、小さな恋のものがたり。
 暖かく、満たされた気分になるはずが、いつもの様な笑い合い。

 それでもちょっとだけいつもと違う、言葉のやり取り。
 お互いが妙にニヤニヤしていたり、雰囲気は全然無いけれど、嫌じゃない――

 ――ああ、自分が支えたいと思ったのは、この笑顔だったのかなと。

 この笑顔を見続けるために、僕は、これからも頑張り続けたい。


その10

 僕は、いわゆる普通のサラリーマン。
 残業はあるけれど、夜勤は無い。
 たまに休日出勤とかはあったりするけれど、そんなに頻繁にあるわけじゃない。

 だが、病人・怪我人を相手にする看護師、それも入院患者を世話する病棟担当ともなると、
 日勤・夜勤もそれぞれ忙しく、休みの日も不定期になりがちだったりする。

 そんな訳で、彼女と会える時間は、日勤明けの夜の時間帯、
 土日は殆ど仕事が入るから、丸一日、お互いの都合が付く日は殆ど無い…。

 それでも、電話が鳴ったときには心を躍らせ、杖を突きつつ待ち合わせ場所に向かう。

 ――やっと、会える――

 ***

 「ごめんね、僕はまだ足が完全に治っていないから、大した所には行けないんだけれど…」

 「謝らなくていいのよ、わたし、そんなわがままな女じゃないから。
  …それに、謝らなきゃいけないのは、私の方。
  ほら、看護師って就業時間帯が不規則だし、私はまだまだ仕事続けたいし、
  そうなるとあなたに料理を作ってあげることも中々出来ないし、
  こういう風に一緒にいられる時間だって、少ないし…」

 「…僕、どこかで明穂に言った気がするんだけれど、
  僕は、あなたの、その笑顔を、ずっと、…見ていたいんだ…。
  僕は、その笑顔を見ているだけで、幸せな気持ちになれる。
  それだけでいいんだ。僕のそばで、ずっと微笑んでくれているだけでいい。

  だから、そんなことは気にせずに、今まで通りで居てくれればいい。
  僕のために何かしてあげたい、って気持ちはすごく嬉しいんだけれど、
  無理をして、その笑顔が曇ってしまったら意味が無いんだよ…

  …そうだね、もし、何かしたい、って言うのなら、出来る範囲内で、無理をしないこと。
  一番大事なのは、明穂がそばに居てくれることであって、明穂が何かしてくれることじゃないから…」

 「…ありがとう。
  …それにしても、あなたってまだ身体障害者扱いだってのに、言う事は人並み以上ね…

  本来なら、まだまだ介助とかが必要な事だってあるだろうから、そういう時には、
  遠慮せず言ってくれていいから。

  わたしは、あなたの、…伴侶に…なるんだから、お互い、支えていくのは当たり前。
  だから、お互いが相手に願っていることを、ちゃんと伝え合いたいの…」

 「…そうだね、うん、…ありがとう…」

 ***

 「またね」って別れを告げる瞬間、寂しさよりも明日が楽しみになってくる。
 楽しい時間が、またやってくるかと思うと、なぜか心が躍りだす。

 幸せ、ってのは、たぶん、未来があること、なんだと思う。
 目の前にはまず明日の希望があるだけで、もっと先のことは全然分からないけれど、
 進んで行きたいと願う――

 立ち止まっていた自分が、大切なひとと共に、歩き出す――
 たったそれだけの事が、自分をどんどん満たしていく――


その11・エピローグっぽいもの

 高齢化社会、なんて言葉が叫ばれ始めて久しいのですが、老人ホームとかに限らず、
 医療の現場でも、お年寄りの数は増えていっているわけで。

 介護が大変だというのには色々と理由があるのですが、
 これは逆のケース、例えば子供の世話をする時のことを考えてみれば、少しづつ見えてきます。

 子供は、時と共に、精神的にも肉体的にも成長していきます。
 躾とかを繰り返すうち、子供は学習して色々なことを覚えていき、そのうちひとりで
 誰の手も借りず、教えたことを出来るようになっていきます。
 それと、その表情。子供は感情表現がストレートで、ちょっとしたことでも泣いたり、笑ったりします。

 ただちょっと遊んであげただけなのに、楽しそうな表情を見ていたら、
 疲れていることなんか忘れて、日が暮れるまで一緒に遊んでいたことがあったっけ…。

 ところが、人間歳をとっていくと、色んなことを忘れていってしまう。
 昨日食べたもの、さっきしたばかりのトイレ…。

 更には自分が病人、或いは怪我人であることすら忘れていて、
 看護師や先生の言ったことや、していること(医療行為も含め)をすぐに忘れてしまう。

 一生懸命に、誠意を尽くして世話をしているのに、
 イタイ、イタイと文句ばかり言ったり、時と場合を選ばず泣き喚いたり、
 果ては意地悪されたと思い込んで拗ねたり、ひがんだりする事も珍しくなかったり。

 ――もしかしたら、わたしたちは、誠意の押し売りをしているんじゃないだろうか――
 人によっては、死なせてくれ、と嘆願する人だっている。
 そもそも骨折程度で命にかかわるケースは稀だから、励まし続けるしかない。

 いや、本当に生死の境をさまよっている人は声を出す体力すらなくて、
 声を出したり、騒いだり出来る人は元気だ、或いは治る見込みがあるはずだ。

 でも、患者さん自身が生きる目標を持ってくれなければ、意味が無くなってしまう。
 だからこそ、人が人を支え続けていくためには、一方通行ではなく、お互いの意思疎通がないと、
 いつか、破綻してしまう。

 普通に会社勤めをしている人間だって、ただ自分の立身出世とか保身のためにだけ動いていると、
 いつかそんな自分に嫌気が差し、或いは組織の中での自分の存在意義に疑問を抱き、
 最後には心がいつの間にか折れ曲がってしまっていて、
 すっかり惰性で生きる人間に成り下がってしまっている。

 ――まさに、自分はそうだった――

 自分以外の何か、いや、自分自身よりも大切だと思っている何かのために頑張っている人は、
 その大切なものに支えられ、折れそうなときにも、しっかりと踏ん張り、
 また、立ち上がり、前を見据えて、歩き出すことが出来る。

 ――ぼくは、たいせつなものをみつけて、てにすることができた。
 そのてにしたものをささえにして、また、たちあがれた――

 これからは僕が、支える番だと思う。
 好きになったのなら、尚更、そうしたいと願い、誓いたい。

 ――そう思えるものを、みつけて、しまったから――


あとがき

 ふぅ…。細かい描写はやっていないのですが、それでも出来上がると、
 文字修飾なしで40KB近い分量になってますね…いつものレビュー文とかと大差ない感じですが
 (箇条書きにしていない時点で、普段より更に読みにくいですけれど)。

 一応冒頭でも言っておりますが、このお話には筆者の(切なる)願望が
 かなりの割合で配合されていますので、実際のところはどうだったのか、
 …という野暮な質問は無用に願います(滝涙。

 現実は厳しいですし、ましてや恋愛沙汰は、努力でどうにかなるものでもないですし、
 理不尽が当たり前の世界ですから、絵に描いたようなプロセスはありえないですし、
 人の数だけ事例はあるでしょうし、一つの成功のために、
 多くの失敗を積み重ねていくものではないかな、と。 <言い訳

 今まで自分ではそれっぽくプレビュー文を書くことが多かったのですが、
 それと違って、きちんと状況とか会話を具体的にはっきりと描写せねばならない関係上
 (プレビューは基本的にネタバレ回避の意味もあってぼかしたり、はしょったり、
 セリフの数を減らしたりして、瞬間的かつ観念的・抽象的な描写にしますので)、
 結構大変だった感じがしますね…改めて自分の文才の無さを実感するしだいですが(滝汗。

 当初、こういう形で入院中のあれこれを記録・公開するつもりは無かったのですが、
 入院したままの状況で引越をしたせいで、手続きが滞ってしまい、
 転居後もネット不通のまま、2ヶ月以上放置することになってしまいました。
 そんな状況では、サイト上の何かで、退院後の状況とか経過とかを
 報告とか説明することなんて、とても覚束ないわけでして。

 そんな状況下に加えて、退院できたといっても不自由極まりない環境ですと、
 やれる事なんて最初から少ないですし、最初は、入院中にしたためたメモ書きとかを
 何となくテキストに起こしていたんですが、書いている途中で、
 面白くない感じがしてきて、いっそラブコメっぽい展開でも入れておこうかと。

 ただ、作者の願望が織り込まれているとはいえ、
 そこで一生懸命に働く、いや、支えてくれた人『たち』のおかげで、
 長い入院生活もそこそこ楽しく?過ごせたのは事実ですし、
 ちょっと話し相手になってもらっただけで、気が紛れたり癒されたりしたのは間違いないです。

 (ついでに言っておくと、ヒロインのモデルになった人物は確かに実在しますが、
 起こった出来事は全て彼女が絡んでいるわけではなくて、色んな方々とのエピソードがあり、
 それらは筆者の脳内で一つに統合され、「全て」明穂さんに仮託する形で話を進めています。
 …ああ、いろんな人にちょっかい出したから、フラグが立たなかったのかな、って違うか…)

 だからこそ、この文章は、こうしている今も、そこにいる人々に対して捧げるのですが――

 さて、だんだんと長くなってきましたので、今回はこの辺で。
 最後まで読んでいただいた方々に無上の感謝を。

 それではまた、いつかどこかで、お会いしましょう。

 なお、この作品に対するご意見・ご要望・その他感想とかは、
 当サイトのBBSまたは直接メールにていただければ幸いです。

                                            (2008.06.15)


更新履歴

 ●Ver.1.00 初稿完成、HTML変換、Web公開開始(2008.06.15)
 ●Ver.1.01 誤字修正、表記一部修正(2008.06.19)

[EOF]



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