東峰神社裁判
6・24東峰神社裁判(第1回) 意見陳述
                                       記録:T.M.
       原告の意見陳述について
                                        2002年6月24日
千葉地方裁判所 民事第2部 御中
                             千葉県成田市天神峰141番地
                                       川蔦みつ江
                     
陳述書
 亡くなった夫(川鳶邦夫)は宮内省に勤めていましたが、御料牧場の酒井場長の関係で千葉県種羊場で働くことになりここに来ました。引っ越してきたのは昭和13年の3月18日の彼岸の入りのことで、そのころこのあたりにあったのは種羊場と農村道場という研修所だけで、あたりは原野でした。電気はなくて、ランプだけ。荷はゴトゴト道を馬車でもって成田から運んできました。
 
 開拓が始まったのは戦後の、昭和21年から24〜25年にかけてのことでした。入植してきた人らは、お天道様が上がる前からトンビ鍬で竹や木の根を掘り起こし、日が沈めば月明かりで開墾する毎日でした。そんななかに伊藤(音次郎)さんたち恵美開拓組合の人もいましたが、恵美の人たちは、うちの裏にあった種羊場の1号舎の、羊の餌の配合室の板の間に毛布を敷いて寝起きし、そこからかごを背負い、鍬をかついで開拓場所に通っていました。井戸はうちのを使っていて、昭和21年の6月18日に次男の久夫が産まれましたが、その時に伊藤さんから出産祝いをいただいたことを覚えています。そのうちに恵美の人たちは、拓いた土地に茅でオガミを作ってそこに住むようになりました。
 
 そのころは、食うや食わずで働いていたのでみんな貧しく、部落には神社もなく、私は、この家の前の道を少し行ったところにある道陸(どうろく)さまに手を合わせていました。この道陸さまは隣部落の天神峰(うちを含めて県道から北は、字は天神峰ですが部落は東峰です)の人らがお参りしていましたが、私もここにお参りするようにしたのです。昭和の25〜26年ころだったと思いますが、天神峰の塚本大工にたのんで、鳥居を奉納しました。
 そうこうするうちに、部落もやっと落ち着いて食べることができるようになって、神社をつくることになったようです。

 神社創建の時の写真には当時の部落の人が皆写っています。前の列の真ん中の体の大きな人が寺田(増之助)さんで、寺田さんを挟んで神主さんと伊藤(音次郎)さんがいます。神主は小泉部落の人です。それを取り囲むように部落の人が写っていますが、その他に天神峰の小川(梅吉)さんなどもいます。別の写真には十余三部落の人も写っていると、島村さんの婆ちゃん(初枝さん)が言っていますから、戦後開拓の東峰部落が、部落総出で神社を造るというので、近くの部落からもお祝いにきたのだと思います。
 それから私は東峰神社で手を合わせるようになりました。 お祝い事があれば感謝し、願い事があれぱ願をかけました。子供が産まれた時、ひもときの時、15の祝いの時、子供を連れてお参りしました。こういうときは赤飯を炊いてお供えし、残った赤飯は部落の人にあげてしまって持ち帰らないようにするのが習慣でした。
 東峰部落は祭りの日を毎年11月23日としてきましたが、これは神社をつくった日です。祭りは部落の大仕事で、神社に集まって、その前の広場に櫓をたてて踊りました。映画もかかりました。
 
 そうやって、神社は部落の者と一緒に年を重ねてきたのです。大きく育った神社のヒノキは部落の者が手を合わせるのを見下ろしてきたのです。

 私は隣の多古町の島の生まれですが、島には八幡さまがあります。神社というものは、部落に必ずひとつはあって大切に守っていくものです。お国が戦争しようと何をしようと、断り無く神社を壊すなんて聞いたことがないのです。
 ですから部落の人の意思を確かめることもしないで、境内の木を切り倒したなんて私は言葉もありません。
 その上、神社の土地をお金で売り買いするとは、ほんとうに信じられません。誰がなんと言おうと神社は敷地を含めて部落のものです。

 私は大正5年8月20日生れで、今年86歳になります。ここに述べたことは、萩原さんの婆ちゃん(萩原哲子さん)と話しながら、思い起こしたものです。「私たちの歳の者は戦争で親兄弟を亡くし、戦後は泥だけになって開拓の苦しさを味わい、やっと食べられるようになったと思ったら空港にいじめられ、それが今も続いていて、産土さままで壊されるなんて………」と、萩原さんの婆ちゃんも涙ぐんで話しました。
 歳のため法廷には行くことができませんが、村と神社を守りたいという私の気持ちは部落の人らと同じです。神社を元のとおりにして下さいますように、お願いします。
 以上です。


  
                                        2002年6月24日
千葉地方裁判所 民事第2部 御中
                                 千葉県成田市東峰107
                                         萩原 進

                    陳述書

 神社が造られたのは1953年といいますから、自分が10歳のころのことです。特に意識するまでもなくあたりまえのこととして、部落の神社だと思ってきました。自分がそう思うのは、部落だけでなく近在の人々もきて総出で神社をつくり、皆の神社だとして大切に崇めてきた思いを受け継いでいるからだと思います。
 神社の境内と前の広場は部落の人々が集まり、日々の労働の苦労をいやす安らぎの場でした。
 近くの部落の多くは、毎年11月17日に秋祭りをやりますが、東峰部落では10月23日です。
 神社創建の日を祭りの日にしたのです。春には青年団が舞台を作って演劇などをやり、夏の夜には青空映画会を催しました。そういうときは近くの部落からも人々がやってきて、たいへんにぎやかだったことを覚えています。
 自分も15の祝いの時には赤飯をもって神社をお参りしました。これは昔の元服を意味する儀式で、出世することを願って、赤飯は神社より先の親戚や知人に届けて帰るのが習わしでした。うちには娘が二人いますが、産まれたときと七五三のお祝いにお参りしました。また母親の米寿のお祝いにも東峰神社に行きました。
 ですから東峰神社は村人の鎮守の神様、産土様です。よく「鎮守の杜」といいますが、神社の杜、境内、そこに立つ木々は一体となって、村を守る神のいる場です。子供の頃、夏の盛りの夜、木立で囲まれた神社の前を通るとき、何か特別のものを感じたことや、部落の古老が開拓の苦労をきざんだ手でなでるように杜をふいていたことを覚えています。
 ですから、誰も知らないうちに、神社境内が勝手に売買されるなど、思いもよらぬことでした。そして暫定滑走路の工事半ばの昨年6月16日、突然、公団職員と機動隊が押し寄せて部落の者を排除すると、チェーンソーがうなりをあげて立ち木を次々に切り倒したのには、たいへんな衝撃を受けました。
 部落にとって大切なものが壊されていくと感じたからです。神社仏閣や墓地、学校というものは、集落のあかしのようなものだと思います。それを壊すことは、部落を部落として存続させないということではないでしょうか。
 こんな理不尽なことがまかり通っていいはずはないのです。われわれ住民に、泣き寝入りをしろというのでしょうか。民主主義も法も正義も無いのです。この気持ちはあの日に立ち会った部落のみんなの気持ちです。
 自分はこの事件で不当に逮捕されましたが、逮捕後すぐに部落の者がかけつけてきて家族を励ましてくれました。知らせを聞いた人からの励ましの電話やファックス、手紙は200通を超えました。自分の思いと行動は間違っていないと信じています。

 畑からは今も開拓の時に掘り起こした竹の根が出てきます。白分の世代は粒々辛苦の開拓に直接たずさわったわけではありませんが、農業を受け継いで土に生きる日々を送ると、あらためて先人の苦労と大地の大切さを実感します。部落の者はみんなそういう思いで誠実に農業を続け、部落を守ろうとしていると思います。住民が泣き寝入りすることの無い、誠実で公正な裁判を心から希望します。
                                               以上



                    陳述書
           東峰神社林訴訟第一回口頭弁論意見陳述
                  私がなぜ原告の一員となったのか


 私が東峰に住み始めたのは1991年4月、今から11年前のことです。ここで鶏を飼い、有機野菜を採り出荷する仕事にたずさわっていますが、ここに生まれたのでもなく、現住居を終の住家と定めているわけでもありません。人生そのものが一度しかない仮住まいであるという感覚もありますが、それはともかく村や地域というのは、そこで生まれ死ぬ人もいれぱ、短期の居住者、結果的に長期になる人など、様々な人がいます。この地に職場をかまえたり、職を得てかよって来る人もいます。個人あるいは一つの家族は、死んだり流動的ですが、その土地やコミュニティがちゃんとしていれば、子孫やまだ見ぬ人々がそこで生きることができます。だからどこにどれほどの期問かかわろうと人間にとって大切なことは、現在もそして将来も人々がそこで生きられるように、そこの環境やコミュニティを生きた関係として維持していくことであり、東峰という部落(むら、以下同じ)も他の村とその点において何らかわりません。
 部落に様々な人々がいることは、空港問題ひとつとっても明らかです。空港に土地を売った人もいれば、空港で働いている人もいます。空港やその拡張に反対している人たちの中でも、考え方の違いで三つの反対同盟があり、厳密には個人個人で違うのかもしれません。私についていえば、空港が農や地域との共生をいうのなら、拡張につぐ拡張、相手をゼロにして自分たちだけが生き残ろうというやり方はやめるべきだし、農の考え方を入れて自らを律すべきだと考えています。各自の考え方や立場の違いがあっても、否、あればこそ、私たちは部落の仕事を共同で行い、回り持ちで部落役員をにない、一軒の家が困った問題でも皆で話し合ったり解決できるものには部落として取り組み、相互に助け合えるところは助け合う。人々が東峰の地で生きていくための自治があります。
 私がまだ隣町の芝山町に住んでいたころ、東峰の盆踊りに何度か顔を出したことがあります。そこでは反対派だけでなく、移転を決めた人、すでに移転した人も一緒に踊ったり、よそから来た人を接待していて、そのことがとても不思議に思えたものでした。しかし、東峰に住み始めてみると、部落にとってはそれが当たり前のことだとわかります。立場がどうであれ、そこに住んでいるかぎり、村人同士は対等であり、最後の一日まで、共にここで生きていくための責任と仕事を共ににない続けるのです。

 人々が東峰という地で生きている。そのために自治的な部落がある。これまで、この当たり前のことをくどくどとのべて来たのは、空港公団と政府は、私たちと部落を虫けらの如く踏みにじったぱかりか、虫けらが足元にさっきまで生きていたことさえ、認めようとしないからです。部落の人々が植え50年近くも育ててきた神社林を、部落に一言のことわりも説明もお願いもなく、切り盗ったということはそういうことなのです。昨年6月16日、無残な切り株を前にして、私が思ったのは、自分が何度と無く神社修築や掃除にかかわってきたことももちろんですが、私の前にこの地に住みこの神社にかかわっていなくなった多くの人々の思い、仕事がすべて無にされてしまったということでした。子供が産まれるたびに初参りにこの神社を訪れた友人、盆踊りで踊っていたおじいさんおばあさんの顔、色々な人の生きざまとかかわった木々であったろうにと、くやしくてたまりませんでした。

 隣の家の犬がうるさいからといって、飼い主に無断で殺していいわけはありません。日当たりを妨げるからといって、隣家の木を根元から勝手に切ることは許されないことです。隣家に話をして対策を講じてもらったり、それでもダメなら法的な手続きをとるなどして解決をはかる、それが少なくとも法治国家のルールであり、公団にはそれを知る力も時問もあったはずです。公団はまず一言、部落に「この高さ以上が飛行場の邪魔になるから何とかしてもらえないか」というべきで、その先は部落の対応によれぱでよいわけで、それが最低限相手の存在を認めているということなのです。「言っても反対されるから」「言えば大きなトラブルになりそうだからやむおえず」と公団は言います。これは相手の存在をも無しにできるほどの法外な暴力をもち、そのことをてんとして恥じぬ者の論理、自分勝手な言い訳にすぎません。

 かつて空港公団はこの地で「反対派が公団所有地を勝手に耕すから」といって、ダイオキシンなど猛毒の入った除草剤を空中散布したことがあります。土は人間動植物の生命(いのち)の源であると共に、それ自身が生き物の住家であり、過去数千数万年の生命とその仕事が堆積されたものです。反対派対策だからといってその土まで殺す。生きとし生けるものをすべて殺し追い出して空港を造る、新滑走路を造る。これが国や公団の空港づくりなのか。だとすれば空港が本来目的とする人や物の生きた関係をつないでいくものには決してならないのだし、造るべき意義を失ってしまうのです。そういう意味で現在の成田空港には多くの生命と農民たちの魂が生き埋めにされています。神社林の盗伐は、さらに生き埋めを続ける、東峰の人々を既に死んだものとして扱い続けるというということです。
 ふざけるんじゃない。居直るんじゃない。自らを虫けらと名乗ろうと私は生きている。人々や土や部落が生きている。公団はそのことを認め、神社林盗伐の非を心から謝罪すべきです。そして一刻も早くこのようなやり方をやめ、成田芝山の地の生命をひきつげる空港の在り方をめざすぺきです。

 裁判所の方々は、この裁判が人の生命、部落の生き死ににかかわる訴えであることを十分にわかっていただき、生命を生き埋めにする手助けになるようなことは決してなさらないことをお願いし、私の陳述と致します。

   2002年(平成14年)6月24日  成田市東峰区住民 樋ケ守男
東峰神社の立ち木伐採 公団側争う構え
第一回弁論 「地区の総有」否定」
朝日:'02年6月25日
 新東京国際空港公団が昨年6月、成田市空港予定地内にある東峰神社の立ち木を伐採したのは、精神的なよりどころとしてきた地区住民の人格権を侵害したとして、成田市東峰地区の住民7人が空港公団に1400万円の損害賠償などを求めている訴訟の第1回口頭弁論が24日、千葉地裁(一宮なほみ裁判長)であり、被告の公団側は答弁書を提出し、全面的に争う姿勢を見せた。
 訴状によると、伐採があったのは01年6月16日。空港公団は、B滑走路(2180b)南側から約120bにある同神社の周りのヒノキ、竹など500本以上を航空法に基づいて伐採した。
 原告側は、登記簿上は空港公団が所有している神社の土地について、「神社が建立された時点で、東峰地区全体の総有関係に入った」として、「(被告は)登記簿上の表見的な所有名義人であるに過ぎない」と主張。損害賠償のほかに、登記簿上の名義変更や立ち木の原状回復などを求めている。
 これに対し公団側は、土地について「東峰地区の総有的所有の対象となった旨の主張については争う」などとして、請求の棄却を求めている。
第1回口頭弁論
裁判を伝える記事